2020年10月23日

史跡探訪グループ「道明寺・野中寺・葛井寺の秘仏を拝観!」

2020年10月18日

20201023_01.jpg
1. 近鉄道明寺駅AⅯ9:20集合
令和2年度初回の例会を、毎月18日の観音講の日にあてて、4月18日(土)に秘仏拝観を中心に、古市古墳も含めて計画しましたが、コロナで開催できませんでした。休日で18日の観音講は10月18日(日)が今年最後のチヤンスとなりました。
堂内で、仏さまを拝観する条件にマスク着用が義務付けられ、今回の参加者全員がマスクを着用しています。さらに手洗い消毒液の噴霧器も準備しました。出発時、お堂の拝観後と、昼食前に手洗いを励行しました。このような準備とコース説明を駅前でしています。

20201023_02.jpg
2. 道明寺天満宮の修羅
道明寺天満宮の境内に展示してある修羅のレプリカで、道明寺から国道を超えた西の三塚古墳の周濠から発掘されました。発掘された修羅は「近つ飛鳥博物館」に保存されています。大修羅は古墳の石棺を運んだと推測されています。手前の小修羅も同時に発掘されました。室町時代になりますが、京都金閣寺の池からも、このような小修羅が発見されていて、庭園造営の庭石を運んだと推定されています。修羅の形は二等辺三角形に特徴があり、戦国時代から城の石垣に使う巨大な石を運ぶ場合と異なっています。古墳の山を登るために三角形の底辺がストッパーになっていると考えられています。

20201023_03.jpg
3. 道明寺
道明寺十一面観音さまの拝観後、境内の木槵樹(もくげんじゅ)和名はムクロジです。謡曲「道明寺」の主題の樹木です。菅原道真さんが大乗経を5部写して、祠に収めたとことから木槵樹が生え、その黒い実で造った念珠で、念仏を百万遍唱えれば極楽の行けると、善光寺の阿弥陀さまが夢に現れるところから始まる物語です。その祠は道明寺から300mほど高野野街道を南の下ったところにあります。ここには大きな木槵樹が茂っていました。まだ赤い実をつけていましたが、もうしばらくすると、黒く硬く数珠のたまになります。この祠から東へ50mほどのところに土師寺の五重塔の心礎が残っていました。
土師寺は土師八嶋が邸を仏殿して仏を祀ったとの伝承があり、道明寺の起源となった古代の寺院です。土師氏の祖は野見宿祢に遡り四腹(四氏族)に分かれます。毛受(百舌鳥)・菅原・秋篠・古市の土師氏に分かれます。

20201023_04.jpg
東高野街道を南へ進み誉田八幡宮へとむかいます。

20201023_05.jpg
4. 野中寺
野中寺の伽藍配置は法隆寺様式ですが、搭の基壇に金堂に向いて段があり東を向いています。金堂は搭の方に向いて相対する配置となっています。礎石には心柱に添え柱があり、橘寺の搭と同じ形式です。また心柱礎石には亀の顔のような線彫りがあり、ともに特異な形をとっていいます。特に野中寺式伽藍ともいわれています。
秘仏の観音像は、三面頭飾と流れるような衣文に水玉模様の入った「隋」の仏像様式を伝えています。また框には学会で大王から天皇への時代をめぐって論争のある「天皇」銘が刻まれています。

20201023_06.jpg
5. 葛井寺
さすが観音講日の葛井寺さん、朱印帳をいただくのに、50mほどの人の列でできていました。やはり観音講の18日に朱印をいただくことが大事なのでしょう。
観音さんの千手が尊像を大切に守るようでもあり、光を放つようでもあり、光背のようでもあります。尊顔は東大寺の天平の塑像ように穏やかな優しい姿せした。

20201023_07.jpg
6. 津堂城山古墳
大和朝廷の豪族の前方後円墳のひな型といわれる貴重な前方後円墳です。この少し前に造られた古墳に明石の五色塚古墳がありで、日本書紀では神功皇后と戦う仲哀天応の皇子であった押熊王の創造といわれています。この津堂城山古墳と五色塚古墳を基準にして、古墳を考古学の時代で考えると、天皇陵の時代背景が違って見えてきます、
それにもまして、目を引くのは長持ち型石棺のレプリカが展示してありました。もちろん少し黄色かかった古代大王の石棺材の竜山石で造られていいます。大きな石棺です。このような石棺を道明寺天満宮に展示してあった修羅で運んでいたのでしょう。


史跡探訪グループ  写真 小林誠一 文 加藤 宣男
posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:08| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月29日

入会説明会および歓迎講演会が開催されました!

令和2年度新入会員向け「入会説明会および合格者祝賀会」は新型コロナウイルス感染拡大防止のため延期されていましたが、一部内容を変更し「入会説明会および歓迎講演会」とし、39名(会場定員の50%以下)で、受付での検温など、参加者みなさまのご協力を得て、8月30日(日)に開催されました。

20200920_01.jpg
豊田理事長による開会挨拶

豊田理事長の開会挨拶に引き続き、歓迎講演を3題、その後の入会説明では当会の概要と各グールプの活動内容について紹介されました。
歓迎講演ひとつ目は、当会保存継承グループの小倉つき子さんによる「廃寺の仏像の行方を追って」で、廃仏毀釈のあおりや寺院の衰退、伽藍の焼失などさまざまな事情により廃寺となり流出した“み仏たちの今”について熱く語られました。

20200920_02.jpg
小倉さんによる講演「廃寺の仏像の行方を追って」

歓迎講演のふたつ目は、「Nara観光コンシェルジュアワード」で最優秀賞を受賞された当会ガイドグループの安井永さんにより「奈良の魅力を伝える〜ガイドの心得〜」で“泊まって味わえる奈良の魅力”の伝え方について、多くの経験と実績に基づき詳しく説明されました。
歓迎講演の最後は、「奈良の魅力を伝える〜講師の心得〜」で、年間50回ほどの講演をこなす当会専務理事の鉄田憲男さんより「奈良の“語り部“」たる奈良まほろばソムリエの講師として必要なことを様々な角度より解説されました。

20200920_03.jpg

20200920_04.jpg

20200920_05.jpg

20200920_06.jpg

20200920_07.jpg

20200920_08.jpg

20200920_09.jpg

20200920_10.jpg

20200920_11.jpg

20200920_12.jpg

20200920_13.jpg

歓迎講演会に引き続き、入会説明会が行われました。
はじめに、「当会の活動について」当会の歩みや設立趣旨など、全般的な概要が専務理事鉄田憲男さんが説明されました。
続いて各グループの活動内容について、趣旨・メンバー・実績・連絡先などが担当理事や世話人より紹介されました。

20200920_14.jpg

また当日会場では書籍販売も行われ、歓迎講演ひとつ目の小倉つき子さんの著書『廃寺の み仏たちは、今』や当会会員の共著による『奈良百寺巡礼』が特別価格で販売されました。

快晴で暑い中、お越しいただきました皆さま、ありがとうございました。

写真:専務理事 鉄田憲男 文章:総務担当理事 大江弘幸

posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

女性グループ(ソムリエンヌ)大和三山PARTU  ―大和三山の中で一番高い畝傍山に登ろう!!−

2月23日(日)、女性グループ12名で「大和三山の中で一番高い畝傍山に登ろう!!」に出かけました。前回(2019年9月28日)の大和三山PARTT(香久山)に続いてのハイキングでした。
前回の香久山は山というより小高い丘の印象がありましたが、今回は、三山中一番標高が高い199.2メートルの山で三等三角点が置かれています。瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時は今よりも2倍以上大きかったそうです。それが長い年月をかけ浸食され、現在の形になりました。山麓は片麻岩、頂上付近は黒雲母安山岩からなる山です。また、藤原京が造営される時には大和三山の位置が重要な立地条件になったと考えられていて、歴史的風土特別保存地区にも指定されていました。そして平成17年には国の名勝にも指定された場所でもあります。
今回は気軽に登山できる人気のハイキングコースを歩き、下山後は『伝統食カフェ〜楽膳〜』にて体のことを考えた優しいお料理を堪能。しかも周辺の史跡巡りもした約3キロのウォーキングでした。

《コース》
橿原神宮前西出口→久米御縣神社→久米寺→橿原神宮→畝傍山(山頂)→眼福地藏 →神武天皇陵→昼食(楽膳)→生國魂神社→おおくぼまちづくり館 →国源寺・大窪寺跡→大久保神社→畝傍御陵前駅

20200308_01.JPG
名石工・丹波佐吉の狛犬がある久米御縣神社

20200308_02.JPG
橿原神宮

この日は天長祭・厳粛な儀式が執り行われていました。
一番古い天皇を祀る一番新しい神社です。
明治23年に創建されました。

20200308_03.JPG
いよいよ畝傍山登山です。

寺田さんから登山コースの説明と注意点を聞きました。

20200308_04.JPG
この日参加したソムリエンヌメンバー

大和三山で一番高いとは言え、登山道も整備されていて気軽に登れ、しかも頂上からの眺望もよいので、この日もたくさんの方と出会いました。現在、西麓にある畝傍山口神社がかつて山頂にあったという石碑を背にして写真撮影。(登山されてきたご夫婦に撮って頂きました。)
大阪の住吉大社の新嘗祭における埴使いの神事にも、この山の土が使われる事を思い出しながら下山しました。

20200308_05.JPG
傘をかけられ大切に祀られている眼福地蔵(がんぷくじぞう)

ここは、畝傍山口神社からの登山道と橿原神宮からの登山道の合流する辺りを南に少し下った登山道にあります。古いお地蔵さまがこちらを見て微かにほほ笑んでいらっしゃるようでした。

20200308_06.JPG
神武天皇陵(畝傍山東北陵・山本ミサンザイ古墳)

文久の修陵の頃は初代神武天皇の陵の候補が3つあり、山稜奉行相談役の谷森善臣の意見や奈良奉行の川路聖謨の『神武御陵考』などにより、現在地が選ばれて築造されました。文久3年(1863年)の修陵予算の五分の一である約1万5千両(現在の価値に換算して約3億円)をかけた修陵だったようです。そして、明治から昭和にかけてさらに拡張し現在の姿になりました。
また、神武天皇陵や橿原神宮、それにつづく橿原公苑の厳粛な雰囲気を醸し出す広大な森林は、神武天皇即位2600年にあたる昭和15年(1940年)までに、全国から延べ121万4千人の人達がただの田んぼだったこの土地に、7万6千本以上の木を勤労奉仕という名のもとに植樹されたものです。
現在、橿原の森は野鳥が飛び交い野鳥観察や森林浴に最適な場所です。しかし、そのような歴史にも目をむけたいと思いました。

20200308_07.JPG
楽膳での昼食 

1100円で、コーヒー付き。ご飯とお味噌汁のお替りは自由。会話も弾み楽しいひとときを過ごせました。

20200308_08.JPG
現在の生國魂神社

畝傍山の東北麓に洞村なる集落があり、神武陵を見下ろす場所であったこともあり、強制移住させられました。氏神様である『生國魂神社』も墓も一つ残さず移転したそうです。元の神社は神武天皇陵参道から山林に踏み入った所にあり、神社跡を示す『宮の柱』(石柱)と井戸跡があると、寺田さんの説明がありました。残念ながら「立ち入り禁止」になっていたため見学はできませんでした。

20200308_09.JPG
おおくぼまちづくり館

洞村から1920年に移転された旧丸谷住宅が資料館として活用されています。大久保地区のまちづくりの歩みの学習や、人権学習などをするための施設です。移転前の洞村の模型が当時の写真と共に展示されていました。館内の説明を聞いたり、洞村の歴史ビデオを視聴したりしました。

20200308_10.JPG
大窪寺にあった塔の心礎(現在は公民館の庭にある。)

『日本書記』にある大窪寺は七堂伽藍の立派なお寺だったそうですが、伽藍配置は不明。金堂は現在の国源寺付近に推定されています。
現在、国源寺は浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。もとは畝傍山麓の神武天皇陵兆域の一部にあったのを、明治初年に現在地に移されたようです。
明和9年(1772年)の墨書きがある涅槃図(2m×2.5m)や国源寺縁起(巻物)が保存されています。

20200308_11.JPG
国源寺と観音堂

観音堂には本尊・一面三目八臂の不空羂索観音立像と、鎌倉後期に作られた国内最古の聖徳太子立像(南無仏太子像)、弘法大師像が安置されています。聖徳太子立像と、不空羂索観音立像は今秋、東京の三井記念美術館と京都龍谷ミュージアムに出展される予定です。その折には是非、足を運びたいと思いました。

20200308_12.JPG
『国源寺縁起』を熱く語られる岩井自治会長

岩井さんがこの仕事に就いたときに、『国源寺縁起』を読み下し文にし、観音堂の由来やそれぞれの仏像のいわれなどを紐解き、三年かけて冊子(全32ページ)を作り、町内の各家庭に配布されたそうです。
我々が訪問した日は、実際に『国源寺縁起』の巻物を開いて、大事な部分を分かりやすく説明していただきました。『国源寺縁起』の抜粋した資料も頂きました。

最後に大久保神社に行った後、畝傍御陵前駅で本日の行程は終了となりました。盛り沢山の内容でしたが、ゆったりと良い時間を皆さんと過ごせた楽しい一日でした。
大和三山を巡るウォーキングも、残りPARTV(耳成山)となりました。今秋に計画されるそうです。次回も新しい発見が期待できそうで楽しみです。

文・写真 女性グループ(ソムリエンヌ)池田喜代


posted by 奈良まほろばソムリエ at 08:46| Comment(0) | 女性G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月02日

保存継承グループ 川西町:六県(むつがた)神社の「御田植祭(子出来オンダ)」見学記

田植えの所作を演じて五穀豊穣を願う御田植祭(オンダ祭)は全国各地で行われています。
六県神社=磯城郡川西町保田(ほた)=では田植えの後、妊婦が出産する所作があることから「子出来オンダ」とも呼ばれる珍しいもので、平成18年(2006)、県指定無形民俗文化財に選定されました。

2月11日の午後5時から、巫女の御湯たて、神職の祝詞奏上、巫女による舞と参加者や見学者へのお祓いが行われます。

20200302_01.jpg
<拝殿前での巫女の御湯たて>

午後6時ごろ、30人ほどの子供たちが拝殿に集まり、田んぼに見立てた舞台を取り囲みます。御田植祭の演者は集落の男性たちで、この年の本厄(42歳)が中心となり、舞台で八つの所作を演じます。
まず、農夫が二人で一組となり、「水見回り」「牛使い」「施肥」「土こなげ」「田植え」「田螺(たにし)拾い」の六つの所作をそれぞれに演じます。

20200302_02.jpg
<鍬で所作を行う「水見回り」>

20200302_03.jpg
<牛の角を指で表現した「牛使い」>

20200302_04.jpg
<椿の葉を肥料に見立てた「施肥」>

20200302_05.jpg
<コミカルな演技を混じえた「田植え」>

各所作が終わるたびに、周りの子供たちが農夫に群がります。子供たちは雨風を、農夫はそれに耐える稲穂を表しているのです。どれだけ耐えることができるかで、秋の豊穣を占い稲の成長への願いが込められるとのこと。子供たちは農夫の上に馬乗りになったり、激しくぶつかっていったり、大人と子供が一体となって進めていく微笑ましい行事です。

20200302_06.jpg
<稲穂の農夫に群がる雨風の子供たち>

六つの所作が終わると、メインとなる「妊婦の弁当運びと安産」が演じられます。化粧をして妊婦に扮し手ぬぐいを被った男性が、赤ちゃんに見立てた小太鼓をお腹に入れて登場します。夫役の神主と対座し問答をした後、カエルやヘビを避ける仕草をしながら拝殿内を回ります。頭上に掲げた半切り桶に弁当を入れ、夫に運んでいくのです。妊婦が弁当を届けると、夫のそばで産気づき、太鼓を腹から放り出します。夫がうまく太鼓を受け取ると「ぼん、できた。ぼん、できた」と太鼓をたたいて、赤ちゃんが無事産まれたとの喜びを表現します。

20200302_07.jpg
<「妊婦の弁当運びと安産」・・・拝殿内を回る妊婦>

20200302_08.jpg
<「妊婦の弁当運びと安産」・・・無事出産>

最後に烏帽子(えぼし)をかぶった農夫が登場。拝殿内を回って台詞と種まき歌「♪ふぅくぅの種、まぁこぅうよう♪」と歌いながら勢いよく稲籾を蒔(ま)く、八つ目の所作「種まき神事」が行われ、「子出来オンダ」の一連の行事は終了します。

20200302_09.jpg
<稲籾を蒔く「種まき神事」>

戦前までは同じ敷地にある富貴寺(本堂などが重要文化財)の宮座行事だったが、戦後は自治会で行事を引き継ぎ六県神社で行われるようになりました。
開催は祝日の2月11日に変更し、開始時間も子供たちが参加しやすいようにと、午後6時からにしているそうです。本厄の男性だけでは人が足りないので、地域の若い男性にも役を演じてもらうなどの工夫をされています。
奈良県内でも特色のあるオンダ行事を、いつまでも続けて欲しいと願うばかりです。

文・写真  保存継承グループ  仲谷裕巳

posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:32| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月29日

史跡探訪グループ 「粟原の古墳と粟原寺跡を訪ねる」

2020年2月15日
近頃ではめずらしく梅雨のような雨が続き、開催日の天候が心配でしたが、前々日からの雨は止むも、当日はまだ雨が心配な空模様でした。
もう一つ心配がありました。探訪グループは長く休んでいましたので、本当に参加して頂けるかです。1週前に募集を締めましたら31名の方々の参加申込があり、ホットしました。当日欠席された方2名を含め合計27名の参加となりました。

最初に訪れる予定の花山塚古墳は笠間辻のバス停を降りてすぐ、ケモノ道のような登り坂があり、ここしばらくの雨降りを考え、また帰路に車の激しい国道を多人数で下ることも考え、花山塚古墳の訪問を中止としました。花山塚古墳は今回の目玉でしたので、参加者から不満の声が掛かりましたが安全大第一を優先しました。(またチャンスをみて、再挑戦しなければと強く思いました。)

粟原寺跡は談山神社に保存されている三重塔の伏鉢に「比売朝臣額田」の銘があり、額田王女と伝わっています。十三重石塔の側に額田王女と大海人皇子の子弓削皇子の万葉歌碑があります。この万葉歌はストレートに読むと恋歌のようですが、額田王女60才台、弓削皇子20才台で、共に大海皇子を偲んだ歌と解釈したほうが歌の深みがあります。
これから訪ねる石位寺、鏡王女墓、玉津島明神、忍坂坐生根(いくね)神社には額田王女の伝説が潜んでいます。本日の額田王女との最初の出会いとなりました。

20200229_01.jpg
【粟原寺跡万葉歌碑】

石室まで光が届いている越塚古墳は、暗闇の赤坂天王山古墳の石室構造を学ぶに都合のよい古墳でした。羨道と玄室の構造もほぼ同じですが、越塚は羨道が短く、玄室内の礫石の撒かれ方がまとまっていて、羨道と石室の区分がよくわかります。石棺は双方とも二上山白石の家形石棺ですが、越塚は組合式家形石棺で、石棺壁の一部が残っていて、溝が刻まれて石板の組合せ方が分かります。天王山は刳抜式家形石棺です。
天王山古墳は崇峻天皇の生前に造られた寿陵で、崇峻が殺害され、殯もなく日を待たずに葬られました。天王山古墳は崇峻が仮に埋葬された墓で、数年後に法隆寺の藤ノ木古墳に葬られたとする森浩一さんの説を披露しました。刳抜式石棺の前に、盗掘するには大きすぎる穴が開いていて、森浩一さんはこの穴から崇峻の遺体を外へ運んだと推定しています。よく見るとこの穴の周りに四角形に石壁が薄く削られています。前もって遺体を移すために削っていたかもしれない。また、このような大型石室・石棺の古墳で、副葬品が全く発見されていないことも、前もって改葬が考えられていたと考えても不思議ではないでしょう。なお法隆寺では現在の藤ノ木古墳を「陵山古墳・みささぎやまこふん」とよび明治政府から干渉されるまで崇峻天皇として祭祀を行っていたそうです。

20200229_02.jpg
【天王山古墳入り口】

石位寺本尊の三尊石仏は修繕もかねて東京国立博物館へ貸し出し中です。東京国立博物館でこの三尊石仏を拝観されて、東京から参加された会員の方が見えられとても嬉しく思いました。
桜井にお住まいの東田さんの計らいもありまして、お寺の収蔵庫も開けて頂き、庫裏も開けて頂き昼食の場にもさせて頂きました。感謝です。
日本に伝わる最古級の石仏で、伝来についても多くの伝説が残っています。その中に粟原寺に祀られて額田王女の念持仏であった伝説があり、粟原寺の山崩れで石位寺に流れ着いたとも言われています。
石は角の円くなった亜円礫で、浸食され空洞になっているところもあり、少なくとも畿内で見られない石とのことです。また三尊仏は橘寺の塼仏と同じモチーフで構成され、北魏の交脚弥勒仏のモチーフに原型が求められます。尊顔も優しいおもむきのなかにアーカイックスマイルのようにも感じられ、中国から伝来した説も強く残ります。

20200229_03.jpg
【石位寺】

段ノ塚古墳の舒明天皇陵から中尾山古墳の文武天皇陵まで、八角形古墳で全て天皇陵と見られます。これらの古墳を考古学では、古墳時代後期のあとで終末期古墳に分類しています。この後、称徳陵や平城陵も古墳を採用しているが、古墳時代終末期とは切り離して考えています。
中国古来の思想とされる道教では、世界観に八角形思想があり、その中心に天帝が位置し世界に君臨するとしている。その中心位置に星座の北斗七星があり、天帝思想が北斗七星思想にも広がっていきました。この天帝思想が、日本では全ての大王を超える世界に君臨する存在として天皇が生み出され、これまでの大王の前方後円墳を超えて八角形の墳墓を創設したと考えられています。この八角形思想は現代でも天皇の即位礼の大嘗祭に使われる高御座にも見られます。また仏教へも伝わり、法隆寺夢殿や興福寺北円堂、南円堂、栄山寺八角円堂に見られます。これらの円堂は政治的支配者の霊廟と考えられています。平安時代の密教曼荼羅にも見ることができます。

鏡王女墓は天智天皇の妃で額田王女の姉といわれています。「延喜式」では舒明陵の域内に墓があるとされ、年齢からも舒明天皇の皇女とも推定されます。そうであれば、天智。天武の姉妹となる。後に藤原鎌足の正室となり、藤原家菩提寺興福寺の前身山科寺を建立したと伝わっています。
他方、藤原鎌足は「・・・安見児得たり」と万葉集で歌っている。安見児(やすみこ)は天智天皇の采女で、美人の采女を得たことを高らかに歌っていますと通常は解釈されます。この時安見児にはお腹に天智の子がいたといわれる。天智の子も一緒に授かったことを誇って歌ったのかもしれません。采女の名に「児」の文字が使われていることも見逃せません。
この子は後の藤原不比等ではないかと思います。その理由は第一鎌足の長男は定慧で僧侶です。次男が不比等とされます。長男が僧侶で次男の名が「史・ふひと」という文書を扱う部を名乗っている。長男・次男の身分が逆に見え不自然に思えます。また不比等は平城京遷都後では天皇のレガリアとしての「黒作懸佩刀・くろつくりかけはきのかたな」を、文武〜聖武まで男系天皇になるまでの保管し、皇位継承の重要人物となっている。当時の持統・元明・元正天皇も、不比等が天智の子であることを理解し政権の中心に据え男子の聖武天皇に継いだと思われます。
ひょっとすると、不比等は母の安見児を額田王女の才能を加えて、采女の身分でなく藤原鎌足の正室の鏡王女として、舒明天皇陵域に墓を造り祭祀した。と見たら深読み過ぎか・・・

20200229_04.jpg
【鏡女王墓】

玉津島明神は衣通姫(そとおりひめ)が祀られています。肌の輝きが衣を通して輝いているところから「衣通姫」とよばれますが、古事記では允恭天皇の9人の子供のうち5番目の「軽皇女」です。雄略天皇の姉にあたります。日本書紀では允恭天皇の皇后大中の妹、弟姫(おとひめ)です。この弟姫と允恭天皇の歌が日本書紀に収められています。それは倭の五王の済とされる允恭の時代の歌ではなく日本書紀の成立した奈良時代の歌と思われます。衣通姫は和歌山の玉津島神社では和歌三神の柿本人麻呂、山辺赤人と並んで祀られています。この二人と並ぶ万葉歌人は額田王女しがいないと思います。
さらに、玉津島明神から朝倉駅に向かって行きますと、忍坂坐生根(いくね)神社があります。祭神に天津彦根命が祀られています。この神様は息長氏の祖神とされます。息長氏は近江の豪族で額田氏はその一族です。忍坂は息長氏の大和の拠点でした。允恭の皇后大中姫は近江出身です、妹の衣通姫も近江出身となります。すなわち額田王女も衣通姫も近江出身なのです。
衣通姫は倭の五王時代の允恭の時代です。額田王女は天智と天武の時代です。200年ほどの隔たりがあります。こうしてみると、衣通姫は額田王女をモデルにした姫であったと考えられ特に日本書紀では潤色されているのではないかと思われます。ですから万葉集に衣通姫の歌がないのでしょう。
ちなみに額田王女の「あかねさす紫野行き標野行き・・・」の万葉歌の紫野・標野は近江の蒲生の地で豪族息長氏の拠点と考えられています。
古事記ではまた別の見方ができます。豪族息長氏と豪族葛城氏との戦いで最後に、雄略天皇に葛城氏が滅ぼされることになるカギを衣通姫が持っています。

参加された方々に感謝いたします。特に昨年新たにソムリエの会に入られ史跡探訪グループに所属された方はイベントが開催されないことに疑問を持たれたかとも思います。これからはイベント開催数も重ねて行きたいと思っています。多くの方が参加して頂けると元気が出ますので、これからも参加して頂けるものと期待しています。

史跡探訪グループ 加藤 宣男 


posted by 奈良まほろばソムリエ at 14:37| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする