2019年11月29日

保山耕一さん 第5回「奈良、時の雫」上映会

11月2日、保山耕一さん月イチ上映会が奈良公園バスターミナルで開催されました。
今月の保山さん作品のテーマは「大和の月」!で、当会「奈良百寺巡礼 般若寺」とのコラボ。ゲストもたくさん、盛り沢山の内容でした。

最初のコーナーで保山さんから「今日はこの歌集について説明させていただきます」と言われ、ご登壇されたのは、まほろばソムリエの会の理事の松森重博さん。
「親しみをもって、僕らは『商店街の松森さん』と言ってるのですが、松森さんは、この月イチ上映会を一番初めに言い出された方で、いつも僕を支援して下さっています。このバスターミナルレクチャーホールという素晴らしい場所が全く使われていなくて、『ここを有効に使うためにどうですか?』とお声をかけてもらいました。」「そして、奈良県を動かして、奈良まほろばソムリエの会も動いてもらっています。今、この上映会を開催できたのは松森さんの最初の一言のお陰です。その松森さんが『大和まほろば』という歌集を出されました」と紹介されました。「商店街の松森さんです!」(拍手〜‼)

松森さんは、10年くらい前から(毎日新聞−やまと歌壇−に高校時代の先生が選者に出られているのを見つけたことをきっかけに)短歌を始められたそうです。(実は賞もたくさん取っていらっしゃる)「今までの500首くらいが貯まりましたので、歌集にどうかと前から言われておりまして、この度発行しました。」と。奈良愛に溢れた短歌を写真映像でいくつか紹介され、保山さんを詠んだ歌『奈良の美を映像に撮り奈良の良さ伝うる君の仕事讃えん』をお披露目されました。(会場は「うわぁ〜」とほんわか温かい空気に包まれます)
保山さんは「もう、褒めごろしです!」と照れ笑い。

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そして「松森さんのこの本は、あの万葉集の解説で有名な奈良大学上野誠先生も『オール大和、大和応援歌。しかし、声高に語らないのが松森流』と言ってはるんですよ」と。

また、平成19年に夢CUBEをオープンし、それをきっかけに若い人達が戻ってきたという夢CUBEの写真、30年前の商店街の写真が映し出されます。
保山さん「誰も歩いていなかった絵にかいたような商店街でした。それが今やこれ‼」と言われ → 『もいちど夜市』のにぎやかな人・人・人でいっぱいの商店街の写真。(会場は「え〜!」「すごい〜」「ほぉ〜」と、どよめきの声)

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そして、オープニング生演奏は、すみかおりさんのオリジナル曲で始まります。

― 映像   藤原京のコスモス ― 

「さぁ、それでは素敵なゲストをお迎えします!」とならどっとFM中川直子局長が、今や全国各地で演奏されるハープ奏者、川島憂子さん(桜井市の標高600mくらいの所にお住まい)をご紹介。上映会初めての生のハープ演奏です。

― 映像   月の光   ―

そして、保山さんのお話。
「月はむずかしい。電球を撮るようなもので、でも撮らなくてはいけないのがプロ!月を安物のカメラで、どうしたらうまく撮れるのかをずっと考えて…。一か月で満月と新月がこんなにも変わる。月が太っていって…この前、満月やったのに、もうこんな月」
「僕は月齢一日目の細い細い月でないと心が動かないんです。今日はそんな月、本当にゾク~っとする月!有明の月、夜明け前の月!世の中にこれ以上美しいものはない‼今は月に魅せられています」と。

―   映像 大和の月   ―

平岩雅子さんのソプラノ『月の砂漠』と野上朝生(ともお)さんのピアノ演奏が、私たちを保山さんの世界に深く誘います。(会場ではすすり泣く声も・・・)
ピアノ演奏の野上さんいわく「保山さんの投げかける風に、僕の演奏は風鈴や鈴のようになれば」と。

さぁ、そして、次は、春日大社元権宮司・岡本彰夫先生とスペシャルゲスト・スペインを拠点にご活躍の世界的なピアニスト川上ミネさんの対談です。
まずは、川上さんのピアノ演奏で
   ―   映像 祈りの桜 長谷寺   ―

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川上さんは、3歳からピアノを始め、やりたい音楽を探し求めてスペイン・京都に拠点を置かれます。今回の対談で、岡本先生が、御神楽のこと等、実演もされながら詳しく教えて下さいました。川上さんは、メトロノームで割り切れない音楽、五線譜に書けない日本古来の音楽・御神楽の話に目が輝き、興味深々です。そして「日本の音楽には間があって、遊びがある。これが大切!」ということに共感されていました。
岡本先生がおっしゃるには「御神楽はね、適当に打つんです。これが大事!『適』したところをカンで『当』てる」「拍子はゆとりが出ると遊べるんです。西洋音楽にはない。西洋にはわからない次元です」(日本古来の音楽の素晴らしさを改めて知ったお客様方は「へぇ」「なるほど〜」と盛んに感心しているご様子)

そして川上さんは「保山さんの映像には『絶対的な適当』があるんです。それらはすべて保山さんの体に染みついて、だから腑に落ちて感動するんです」と。

そして、岡本先生は「ある時、すべてが嫌になって放浪に出られたんですよね。」と川上さんに質問されます。川上さんは「鍵盤のサイズは西洋人だけで決めたサイズ。東洋人の体に合っていない。五線に書いた音符は合ってない。視力は悪化するし、楽譜は、当時は重くて持ち運びがたいへんだったし」などなど。

岡本先生「しかし、よく捨てられましたなぁ」
川上さん「捨てた時、実は何も要らない。自然があって、風、雨、虫がいて・・・楽譜が無くてもいいのではないかと…」
岡本先生「すごいところまでいきましたなぁ。普通の人は、できませんな」などとおっしゃられていました。(もう、お二人のお話は次元が高すぎて凄すぎます)
そして、川上ミネさんのピアノ演奏で、
―   映像 やまとの季節 七十二候   ―

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そして、そこに保山さんも登場され「めざしているものは自然。自然って作為がないんです。」と。岡本先生は「こんな天才二人の組み合わせに気づいたプロデューサーが凄い!神の域に近いと思うくらいの音楽と映像のコラボ!」と大絶賛されていました。
保山さんは「奈良とご縁のあるこんな素晴らしい人をなぜ呼ばないか、ムジークフェスタ!ウイーン少年合唱団より破格に安い‼」と会場の笑いを誘っていました。

そして、シンガーソングライター氷置晋さんの新曲「やまとし うるわし」の映像後

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― 保山さん映像詩 平城宮跡  ×  氷置さんの歌「あしあと」 ―

そのあと、氷置さんのギターに合わせて、会場の皆さんと全員で「ふるさと」を大合唱。そしてここで素敵なサプライズ!岡本彰夫先生のハッピーバースデイ―‼皆でお祝いすることになりました。シンガーソングライターの大垣知哉さんが花束を持って登場。出演者は壇上でクラッカー!そして岡本先生の似顔絵のバースデイケーキ‼岡本先生は恐縮して照れておられましたが、会場は和やかな雰囲気で笑顔いっぱいでした。

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さぁ、そして、第2部『奈良百寺巡礼』
今回は般若寺・工藤良任ご住職と当会石田一雄理事がご登壇。般若寺の激動の歴史と春の山吹、春秋のコスモス、冬の水仙など花のお寺としても有名であることを話されました。

 ―  映像  般若寺 コスモス  ―

石田理事は、「般若寺は、『奈良百寺巡礼』で一番初めに出てきます。そして、奈良のお寺で一番ご住職に会いやすい。というのは、受付に座っておられる。たまにユンボを運転している。本堂によく似た人が座っていますが、弟さんです(笑)」と始まりました。

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工藤良任ご住職は「お寺で生まれて、住職になったのは私が初めて。」とのことで、数々の運命を背負い、時代を耐え抜いてきた般若寺。その中で、波乱万丈の人生を送られた工藤ご住職。東大寺南大門すぐ横の学校へ通っていた時、園芸部をご指導されていた東大寺のお坊さんだったという先生に出会います。

そこで初めて花を育てることを教えられ、それが今にいきているそうです。
「花は生き物。根を生やしてやらないといけない。ということは、土づくりが大事。土づくりが花をさかせる秘訣です。そういうことも教わりました」と。

そして、コスモスへの想い‐株分けからお寺の復興に至るまで一役をかってくれたコスモスのお陰で復興ができた話‐など詳しく教えて下さいました。

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「お寺も私も波瀾万丈。それを結びつけてくれているのがコスモスなんです。」とご住職は今、季節の花を楽しめるようにと、それはそれは愛情いっぱいにお世話をされていらっしゃるようです。

また、昭和39年石塔解体修理の際、塔内より発見された秘仏・30pほどの小さい白鳳時代の阿弥陀仏の話や5pほどの大日如来像を含む胎内仏三尊や多数の納入宝物が見つかったことなど驚きの事実が次々と現れた時の話などして下さいました。

司会の村上有利さんは、「虫眼鏡で見ないとみられないほどの小さな仏像です。コスモスの時に合わせていらして下さいね。ご住職、普段は受付におられますが、この時はお堂の奥におられますよ」と締め括られました。

さぁ、そして最後は、岡本先生の直筆の色紙をいただけるという大争奪ジャンケン大会!おおいに盛り上がって、終了となりました。

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次回は12月7日(土)吉野山・金峯山寺です。『奈良百寺巡礼』は長岳寺!当会からは保存継承グループでご活躍の久門たつお理事が登壇されます。さて、今度はどんな素敵な上映、トーク、企画があるのでしょうか楽しみです。毎回何が飛び出すかワクワクの保山さんの月イチ上映会、たくさんの方が次回チケットを購入して帰って行かれました。

写真: 松森重博理事、広報G増田優子     文: 広報G増田優子


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保存継承グループ 奈良市:興福寺の「慈恩会(じおんね)」見学記

南都七大寺の古刹、世界遺産でもある法相宗大本山の興福寺と薬師寺では、1年交代で宗祖・慈恩大師の正忌日の11月13日に、法相宗の僧侶が一堂に会し忌日法要「慈恩会」が営まれます。今年は興福寺の仮講堂で開催されました。

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<法要を待つ静かな仮講堂と五重塔>

慈恩大師(632-682)は中国・長安に生まれ、玄奘三蔵の弟子となり、唯識を体系づけ、教理を確立したことから、法相宗の初祖とされる高僧です。姓が尉遅(うっち)、名は窺基(きき)または基(き)と伝わります。
慈恩会は、天暦5年(951)興福寺第14世別当・空晴(こうじょう)の発願で始められ、明治44年(1911)に再興された重要な法会です。興福寺では、身の丈6尺5寸、顔は満月のごとく張り、両眼は雷光のごとく輝く偉丈夫だったと伝わる大師の立像が描かれた重要文化財「慈恩大師画像」の昭和模本を本尊の前に掲げて遺徳を称え、その前で論義問答が営まれます。
森鴎外は大正10年(1921)に興福寺の慈恩会に参列し、『本尊を隠す画像の尉達基は我よりわかく死にける男』と詠んでいます。

まず、本坊で行事に先立って「夢見の儀」と呼ばれる作法が行われ、春日明神より夢中で論題を授かるとされ、夜には仮講堂で論義法要が執り行われます。

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昼間、多くの観光客で賑わいを見せた興福寺境内が静寂を取り戻す午後7時過ぎ、春日山方向の十六夜(いざよい)の月が照らす中、本坊、五重塔の方から、提灯や松明に先導された式衆が、興福寺の名と寺紋が染められた幕をくぐり、入堂されます。薬師寺から17名、興福寺から11名の合計28名が参列されたとのことです。

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<いただいた「慈恩会次第」>

通常の年は、夢見の儀でもらった論題の問答の激しくもユーモアのある「番論義」のあと、総礼で終わりとなりますが、今年は生涯に一度だけ受験できる口頭試問「竪義(りゅうぎ)」が併せて行われました。興福寺では8年ぶりで、前回、先輩僧の竪義の補佐「童子(どうし)」を務めたドイツ出身のザイレ暁映さんが自らの竪義に挑まれました。
当日までに約3週間にわたって前加行(ぜんけぎょう)が行われ、加行部屋の半畳ほどの結界の中で、教義や経典に関する問答を暗記し、大廻(まわ)りという境内堂塔、春日大社諸社、市中の社にもお参りするなどの厳しい修行を経て、竪義当日は教義に関する問答を2時間近く執り行う難関の試験です。合格すると、寺の子院、塔頭の住職になる資格を得ることができます。この竪義が行われるという緊張感が、堂外から見学している私たちにも伝わってきました。

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真っ白な僧衣を着たザイレさんが、「影向戸(ようごうのと)」と呼ばれる扉から入堂されました。私たちは残念ながら、終了まで見届けられずに境内を退出しましたが、お寺の方々も合格間違いないと予想されたとおり、翌朝には『異例の外国人僧侶、僧の難関合格』の新聞記事やニュース報道が届きました。
今回は古くから伝えられ続ける僧になるための厳しい行などの奈良仏教の側面に触れる機会になりました。新たにその難行を満了される僧侶が誕生したことに改めて敬意を感じると共に、その場に僅かでも立ち会えたことに感謝したくなるような見学となりました。
          
文・写真 保存継承グループ 石井宏子

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2019年11月16日

サクサクわかる万葉講座!第3回「万葉人の暮らし」

山ア愛子さん

10月26日(土)、新大宮南都商事5階において、第3回サクサクわかる万葉講座が行われました。今回の講師は、奈良を愛するあまり奈良に引っ越して来られたという山アさん。ガイドでも講師でもご活躍で、今回は初心者にもわかりやすい「万葉人の暮らし」のお話をして下さいました。

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まずは大自然のなかで、農耕を営んできた古代の人は四季の変化に敏感であったというところから。奈良時代には、万葉集でも季節の歌が盛んに詠まれたことをご解説。
春のところでは、特に大伴家持のことを詳しくお話され、家持が佐保にあった自邸で詠んだ彼の代表作『春愁三首』『絶唱三首』「春の野に霞たなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも」などを紹介されました。
そして、「美しい春であるのに、悲しい気持ちになる。現代人である私達にも通じる感情です」と話されていました。

また、山アさんは、「小学校の時の学校の取り組みが、小3から始まって、小5で百人一首を全て覚えました。その時に覚えたことが、今から思えば良かったです。」とおっしゃっていました。そして、万葉人が親しんだ鳥や身近な動物のこともご紹介。

秋は、山上憶良の秋の七草の歌を読まれました。七つの草を詠んだ理由、漢語や仏典では、『七』を特別な数とすることや、めでたい喜びの数であったことなどご解説。そして秋と言えば、「月」。秋の夜を感傷的なものとして捉える感覚は、万葉集ではあまり例がないそうで、これは平安時代以降の古今集の頃からだそうです。月の満ち欠けと呼称を月の図を使って詳しく紹介されました。当時の人々は、太陰暦だったので、月の満ち欠けには敏感だったとか。「私達も月の形をもっと知っていれば面白いだろうなぁ」とおっしゃっていました。

また、大伴家持が因幡(島根県)の国司だった時の宴の歌「新しき 年の始めの 初春の 今日の降る雪の いや重け吉事」というこれからもおめでたい事が重なっていきますようにという歌をご紹介。『歳旦立春』元旦と立春が重なるおめでたい日の話もありました。

「万葉集の歌は、さまざまな場所で歌われているが、その多くが宴で歌われたと考えられている」とのこと。「宴はもともと神を迎え酒食をふるまい、もてなす場であった。曲水の宴、七夕の詩宴、天皇の行幸先での宴など、だんだんと酒食を楽しみ、歌をうたう場になっていった」などを解説されました。

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また、山上憶良の家族を想う歌や庶民の貧しい暮らしぶりの歌もご紹介。家族の歌では「前書きに、『人が子を愛することは、お釈迦様もその例外ではなく、それが人の性であり、煩悩である』と書かれています」とのことで、子どもへの深い愛情があふれる二首「瓜食めば
子ども思ほゆ 栗食めば まして思はゆ〜」と、反歌の「銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子に及かめやも」を紹介されました。また、食に関しても貴族、上級役人と下級役人の復元された食事の写真をご解説。

最後に、歌人別ランキングでまとめ、大伴家持が歌数では479首で圧倒的に多く、次いで柿本人麻呂、坂上郎女、山上憶良、大伴旅人らを紹介されましたが、作者未詳が約2000首もあることも強調され、「万葉人は、みんな歌人だった」と締め括られました。

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万葉人の日常生活から宴の歌、恋の歌、家族愛の歌など四季のうつろいや月の満ち欠けを交えながら楽しく学ぶことができました。山アさん、ありがとうございました。

さて、いよいよこの『サクサクわかる万葉講座』も残すところあと2回です。無料で学べる何ともありがたい講座、なかなかこのような機会はありません。皆様どうぞこのチャンスを活かして万葉集をお楽しみ下さいませ。

写真:専務理事 鉄田憲男    文:広報G 増田優子


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2019年11月11日

奈良の歩き方講座(ナラニクル) 「大和路」の発見と創造〜和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、堀辰雄『大和路』を読む〜

講師:池川愼一さん

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令和元年9月15日(日)ナラニクル(奈良市観光協会)において、標記講演会が開催されました。講師は当会の池川愼一さんです。『古寺巡礼』『大和古寺風物詩』『大和路・信濃路』。「奈良・大和路」のイメージを作るのに貢献した3冊です、筆者は奈良・大和路に何を期待したのか?読者はどのように受け入れたのか?名作の魅力をお話下さいました。

まずは、参加者にそれぞれ読んだことがありますか?と聞かれます…さすが!ここに来られる参加者の方は読んだことがある人が多く、池川さんも感心されていました。以下、お話、レジメ、ブログより抜粋しながら、当日の講演の要旨をまとめさせていただきました。

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1.『古寺巡礼』和辻哲郎
和辻哲郎
兵庫県姫路生まれ、1889(明治22)年〜1960(昭和35)年。倫理学者。夏目漱石門下で京大・東大教授を務めました。1918(大正8)年、著者30歳のとき奈良旅行を行い、その紀行文を翌年に出版したのが『古寺巡礼』です。初めての本格的な奈良古美術ガイド、仏教を美術品として鑑賞するすべを定着させたと評価されました。これは和辻の独創ではなく、明治時代後半には、仏像を美術品として鑑賞する習慣が芽生えていました。

聖林寺 十一面観音像
『古寺巡礼』の特徴としてまず挙げられるのは、インターナショナルな視点です。和辻はギリシャ古典を正統とする美意識になじみ、ギリシャ古典への憧れがありました。仏像の起源、伝播ルートへの関心があり、ギリシャ古典文化→ガンダーラ美術→西域→中国→日本という流れの中で異文化の交流と影響を重視しました。

和辻が絶賛した仏像は、聖林寺の十一面観音像です。岩波文庫『古寺巡礼』には5ページにわたって記述されます。池川さんは、その一部を朗読されました。「ギリシャ・インド・中国・日本の文化がこの仏像に融合していると説くのは和辻らしい。感覚的な印象を言葉でうまく表現するのは難しいのに、和辻はものすごい知識・想像力をもって流麗な文章で巧みに表現してくれる。それで感動はさらに深まるでしょう。難しい文章ですが、むしろそういう文章を好んだ読者層(当時の旧制高校学校生や大学生など)がいたのです」。

仏像鑑賞と人格主義
薬師寺聖観音立像、薬師寺薬師如来坐像、中宮寺半跏思惟像、法隆寺金堂壁画観音菩薩像などにも和辻は惹かれます。これらは健康的で理想的な美しさがあります。和辻の美意識の表れです。和辻は仏像は美術品と言いながら、仏教の教義に触れて法悦に浸っているかのように表現します。そこがまた、精神性を求めた人々の心をつかみました。

しかし和辻は、宗教は観念、美術は感覚とけじめをつけて峻別します。和辻の立場を支えたのは、大正教養主義と一体になった人格主義だそうです。人格主義は「仏像を含む偉大な芸術に感動することは、自らの人格を陶冶し高めていく」という考えであり、「だからこそ和辻は、仏像の美術的鑑賞を堂々と宣言できたのでしょう」と。

法隆寺中門のエンタシス
和辻は建築にも力を入れて紹介しました。「伽藍などの建築物も美術的鑑賞になったことは、古寺ガイドとして本書の価値を高めたでしょう」。新薬師寺本堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺三月堂、法隆寺西院伽藍の建物の印象が述べられています。

「法隆寺五重塔は、いろいろな場所から近づいたり遠ざかったり、周囲を回って屋根や軒、組物の変化自在な動きを観察します。それを参考に自分もやってみたいと思わせるような場面です」と。

また、法隆寺中門の柱の胴張りにギリシャのエンタシスの影響が推測されます。ここは有名な箇所ですが、専門家には評判が悪い。これらを結びつける物的な証拠がないからです。他の国にはそのような古い建築が残っていません。エンタシスと胴張りのつながりを否定する説が有力ですが、影響説もまた否定できないということです。

『古寺巡礼』への批判
美術史家の町田甲一は、その著書『大和古寺巡歴』の中で和辻の観照(鑑賞)態度を批判しています。「主観的文学的哲学的観照であって、正しく理解しようとする観照ではない。…作者の作因・美的意図を無視し、それらを越えて、観照者の極めて主観的に誇張された感情を持って極端な受け取り方をしている」と厳しく指摘しました。 町田は、十代から『古寺巡礼』を懐に仏像を巡ったが、だんだん疑問を持ち美術史家として批判するようになったそうです。(この本のことは知らない人も多く、新鮮な驚き・発見だったと感想をおっしゃる方もいました。)

また、文芸評論家の保田与重郎も「伝統的な信仰心から遊離している」と和辻を批判しました。しかし「これらの批判は『古寺巡礼』の魅力と表裏一体の関係で、主観的でも信仰心がなくても仏像鑑賞はできることを示した」と池川さんはおっしゃいました。

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2.『大和古寺風物誌』 亀井勝一郎
亀井勝一郎
北海道函館生まれ、1907(明治40)年〜1966(昭和41)年。東京帝大美学科在学中「新人会」に加わり、大学を中退。1928(昭和3)年、治安維持法違反の疑いで検挙される。保釈後、日本プロレタリア作家同盟に所属するが転向。1935年同人誌『日本浪漫派』を創刊。文芸評論家の道に進む。戦後、宗教的立場から文明批評を試みたという方だそうです。

『大和古寺風物誌』
亀井と大和の出会いは1937(昭和12)年30歳の時。社会運動の挫折から思想的な模索や人生への探求が渦巻いていた時期でした。亀井のこの時期の心境は新潮文庫『大和古寺風物詩』72ページの「仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ずギリシャ彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加を目論んでいたのである。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろう」に示されています。

「この心境は『古寺巡礼』の古美術と向きあう姿勢と一致している。『古寺巡礼』がモデルとなって亀井の旅が始まったのだろう。」というのが池川さんの推測です。それから毎年、春と秋にお寺を巡り、1942年に書きためた紀行をまとめて出版しました。

法隆寺 百済観音像
亀井は美術品としての仏像を鑑賞するつもりで出かけたのですが、思わぬことが起きました。法隆寺百済観音との出会いです。本書58ページの一節を朗読されました。「ほの暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持ちになる。大地から燃え上がった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった」。

「運命的な出会いだった」と池川さん。「仏像は仏である」ことに亀井は目覚めます。亀井の中で信仰が目覚めたということです。仏像を拝観しながら信仰を深めていくという物語が生まれ、求道の書として独自性を持つようになった。そこが読者に強くアピールしたのではないかということです。

美と信仰の両立
この本では、法隆寺百済観音、中宮寺半跏思惟観音、法輪寺虚空蔵菩薩、薬師寺薬師三尊、東大寺三月堂不空羂索観音等が絶賛されます。和辻が美と信仰の峻別に厳しいのに対して、亀井は「美しくなければその信仰を疑う」として美と信仰を両立させました。だから亀井の『大和古寺風物詩』も『古寺巡礼』と同様に仏像の美術的鑑賞の書という性格を持つようになりました。

歴史への強い関心
亀井の関心が強かったのは歴史で、『日本書紀』『続日本紀』を読んで勉強したそうです。『大和古寺風物詩』は、飛鳥時代から白鳳期、奈良時代にかけての古代史の知識が仏像鑑賞に大切であることを教えました。特に聖徳太子と上宮王家の自己犠牲に菩薩行の実践をみて、太子に帰依せんとする心情をつづったとのことでした。

斑鳩の里と西の京の風景
亀井は斑鳩の里と西の京の風景をとても好んだようです。西の京の風景を記した一節を朗読されて、入江泰吉の写真を連想させると指摘されました。入江泰吉は『大和古寺風物誌』を持ってお寺を巡ったらしく、この本が入江の風景の捉え方に影響を与えたというのが池川さんの意見です。

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3.『大和路・信濃路』堀辰雄
堀辰雄
東京生まれ、1904(明治37)年〜1953(昭和28)年。東京帝大文学部国文科卒。旧制第一高の時から室生犀星、芥川龍之介の知遇を受けて文学を志す。フランス文学の影響。日本の王朝文学も。堀が初めて奈良を訪ねたのは1937(昭和12)年だそうで、6回奈良旅行をしています。

興福寺阿修羅像
「『大和路・信濃路』は前述の他の2冊と違って寺院はあまり取り上げません。取り上げても視点が違います」。そのようにことわって、池川さんは新潮文庫『大和路・信濃路』の101ページの阿修羅像のくだりを朗読されます。「堀が一番感動したのは阿修羅像。阿修羅を評価したところが堀らしい。和辻と亀井は仏像の神々しさに感動し、堀は仏像の人間性に共感した」と。

唐招提寺金堂
次は、本書110ページの堀が唐招提寺金堂の柱に手を触れ匂いを嗅ぐ場面を朗読されました。和辻・亀井・堀は三者三様に金堂について取り上げました。「和辻は金堂の屋根、柱、軒の組み物のバランス、亀井は金堂、講堂、舎利殿、鼓楼の伽藍配置に注目し、堀は嗅覚と触覚で建物を味わう。三人の個性が表れます」と。

万葉挽歌=大和への関心
堀はなぜ大和に関心を抱いたのでしょうか。彼は折口信夫の『古代研究』の愛読者です。『死者の書』に感激して二上山を訪ねています。古代人の他界観に興味を持ち、万葉集の挽歌にも非常に惹かれました。だから大和をぜひ見たかったということです。堀は寺を見ても万葉集と結びつかず、大和の山野や村をブラブラと歩くようになって求めていた大和と出会いました。「堀はやはり小説家。大和を舞台にした古代小説を構想したのですが、病気はその完成を許しませんでした」。

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4.「大和路」の発見と創造
「大和路」の発見
「以上3冊を紹介しましたが、これらをもとにテーマを発展させていきます」と池川さん。3人の著者はいずれも大和の自然と、村落の景観の美しさを賞賛します。そこに安らぎと懐かしさを見いだします。古代以来の歴史が刻みこまれている景観です。

人間の作ったものが廃れ自然に返る。その繰り返しの中で、自然と人工が調和した風景ができあがります。住んでいる人達はとくに美を意識しませんが、近代的な知性と感性の塊のような人たちが近代化によって失われる直前の景観の美しさを発見しました。そして「大和路のイメージは、これらの作品から作られた」ということです。

戦前の大和の景観がどのようなものであったかは、入江泰吉の昭和20年代、30年代のモノクロ写真を示して説明されました。「斑鳩の里の白い道、人間や牛が何百年と踏み固めてできた道。西の京の一木一草にしみこんだ古都の余香。人肌が街並みに溶け込んでいるような奈良町の風景。何もない平城宮跡の上に広がる大空。これら入江が写した風景が、和辻や亀井や堀も見た風景です」。

「大和路」の変遷と消滅
「大和路」のイメージは、戦後の奈良観光の大衆化で利用され流布します。「多くの観光ガイドの出版物や観光ポスターは現在も「大和路」のイメージに依拠して観光客を誘っています」。

しかし、1960年代の高度経済成長に入ると、奈良はもちろん日本中の風景が変わり始めます。「いわゆる俗化・観光地化が進行して、大規模開発がそれに拍車をかけた」と。「これにより、土地に刻みつけられてきた歴史が一夜にして消滅し、自然とは調和しないケバケバしい景観に変化しました。和辻や亀井や堀が賛美した景観がどんどん消えていきました」という。古都保存法のような法律もでき規制がかけられましたが、圧倒的な近代化・観光地化の波には無力でした。美学者で明日香保存に力を尽くした寺尾勇さんは1968年に『ほろびゆく大和』を著して、現状を嘆きました。

「大和路」の創造
「入江泰吉は、大和路が現実に存在した頃から、それが変遷し消滅するまでの40年間を大和路の写真家として生きました。モノクロ写真には現実の大和路を記録しましたが、カラー写真を撮るようになった60年代は、大和路が滅びに向かう時期です。画面から人が消え、現代の風俗が入らないアングルを選んで大和の風景を撮るようになります。入江が写したのは歴史の『気配』です。史跡や社寺の歴史的遺構が写っているから歴史があるのではなく、そこからにじみ出る気配を捉えました。80年代に入るともはやそのような気配を引き出せる風景は存在しなくなります。現実の大和路は消滅します。しかし入江が写真の中に創造した大和路は永遠に残るでしょう」と締めくくられました。

最後に
池川さんのブログ「奈良歴史漫歩」(http://awonitan.hatenablog.com/)は、まるで小説のように読み物として楽しめる上に、とても詳しいのにわかりやすくまとめて下さっています。ぜひこの機会に奈良を愛する書物やブログの中に入って、古き良き奈良を旅してみてはいかがでしょうか。池川さん、美しい奥深い奈良・大和路の文学をご紹介いただきありがとうございました。

文:広報グループ増田優子 写真: 鉄田専務理事
  
posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

奈良の歩き方講座 万葉歌人の人間関係と歴史的事件

米谷潔さん

10月20日(日)ナラニクルで、「〜万葉集とその時代〜」シリーズ6回が始まりました。今回は第1回、当会「奈良まほろばかるた」の制作提案・読み札解説文の原案作成者の米谷さん、今回もまたまた興味深い内容でスタートを切って下さいました。

まずは「万葉集は文学と歴史学との接点。いろいろな説のある歌集で、逆にそれが素人でも面白く読める歌集です」とその解釈の楽しさを教えて下さり、「今は歌碑も多く立ち、その風土を見て回ることができるので、その場で万葉集を歌えばなお楽し!」と。そして、「人の心は1200年、1300年経っても変わっていないので、そういうところをみてもらえたらなぁ」とおっしゃっていました。

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<三角関係>
「大きな政治事件の根底には男女の三角関係あり」だそうで、まずは壬申の乱の中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・額田王から。『香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より〜』の歌の大和三山はどれが男山?女山?という問題で解釈が変わってくるとか…。そして米谷さんは、香具山を男山と考え、その根拠を5つもご解説。(なるほど〜‼)と。また額田王の『あかねさす 紫野行き 標野行き〜』と大海人皇子『紫草のにほへる妹を憎くあらば〜』の応酬歌も。「壬申の乱というのは、その根底に額田王をめぐる愛のもつれがあったとさえ言われています」と、歴史と万葉集のつながりをお話されました。

また「大津皇子事件には、草壁皇子と大津皇子の石川郎女をめぐる争いも一因と考えられる」という深〜く掘り下げた解説もありました。

<姉弟愛>
万葉集で姉弟愛といえば、大津皇子と大伯皇女。『わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて〜』『二人行けど行き過ぎ難き秋山を〜』の二首をご紹介。この題詞には大津皇子が「ひそかに伊勢の神宮(かむみや)に下りて」とありますが、なぜ「ひそかに」という語がつかわれたかを読み解かれます。また、『うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む』の歌の苦しく悲し大来皇女の胸の内を語られました。

<親愛関係>
1. 系図を使って、高市皇子と十市皇女の歴史的背景も交えてのお話。
『山振(やまぶき)の立ち儀(よそ)ひたる山清水〜』の歌を黄泉の国が関係している等深い読み取りも教えて下さいました。

2. 穂積皇子と但馬皇女
こちらも系図を使って「二人が密かに通じていたことが人々に知られてしまった時に作った歌」→『人言を繁み言痛み 己が世に 〜』を読まれます。そして穂積皇子の正妻であった大伴坂上郎女の娘の大伴坂上大嬢(おおいらつめ)は家持の従妹ですが、のちに家持の正妻(つまりいとこ同士の結婚)となり、なんとも複雑な当時の人間関係を説明されました。

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<ライバル関係>
有間皇子と中大兄皇子
まずはこちらも系図と歴史的背景のお話から。「『磐代の浜松が枝を引き結び〜』と『家にあれば笥に盛る飯を〜』の二首は今までと違ってきています。これらはあくまでも祈りの二首の歌で神に頼るしかない、と犬養先生もこの説を取られています」とご解説。「事件から数十年を経ているのに忘れがたい出来事を歌っているところに、大伴家持が有間皇子に同情していたのでは…。」と米谷さん。そして草壁皇子と大津皇子についても話されました。

<片思い関係>
大伴家持と笠女郎
大伴家持は「歌を交わした女性は、女王一人、女郎七人、娘子(おとめ)七人。その中で熱烈に恋をしたのは笠女郎!」だったとか。『君に恋ひ 甚(いた)も術(すべ)なみ 平山(ならやま)の 小松が下に 立ち嘆くかも』など、天平5年から家持への恋の歌を贈り続け、計29首だそうです。米谷さんは笠女郎のことを「ここまで一途に家持を想っている人がいじらしくなってしまう。」と言われ、その中で時を知らせるものとして、鐘と鼓がある等のお話がありました。

<上下関係>
大伴旅人と山上憶良
大宰府に赴任していた旅人は、約3年間憶良の上司だったそうで、憶良は旅人が昇進して奈良へ帰るときに送別の歌を詠んで自分の任期後の身の振り方を頼んでいる歌『吾が主の御霊〜』を紹介されました。米谷さんは「階級制度が整った令の官僚組織の中では、官人にとってその昇進だけが生活を良くしたと考えられます。」とおっしゃられていました。
そして、「万葉の時代も現代も変わらない人間関係の思いと行動があることがわかります」と締め括られました。

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奈良の人達にもっと奈良の良さを知ってほしいと米谷さん。今日もわかりやすく、また趣向を変えてお話いただきありがとうございました。出席者の皆さんは一生懸命耳を澄ませて聞き入っておられました。万葉集ブームのお陰で、古代への興味はますます湧いてきます。まだまだ続く当会の万葉講座、あちらこちらでいろいろな形で開催されます。もちろん初心者も大歓迎!皆様ご家族お友達お誘いあわせの上、お一人様でもどうぞお気楽にご参加下さいませ。

写真、文:広報部 増田優子


posted by 奈良まほろばソムリエ at 20:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする