2017年06月14日

保存継承グループ 田原本町鍵・今里の蛇巻き行事見学記

6月4日(日)、保存継承グループメンバー3名で田原本町鍵・今里の蛇巻行事を見学しました。グループの見学は今里だけでしたが、せっかくですので一人だけ鍵も見に行きました。ソムリエの会のカリスマガイド雑賀さんと偶然現場で会いました。

「大和の野神行事」として「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に昭和58年文化庁より指定されている行事です。「この行事は、稲作農耕の守護神の1つである野神を祀る行事である。端午の節供に集中して行われ、子ども集団がその主体となる例が多いが、なかにはジャ(蛇)と呼ぶ藁の作り物を担いでむらをまわった後、野神に供えたり、鍬・鋤などの模型を作って奉納するなど、伝承地により様々な内容のものがみられる。」(文化庁)

「鍵の蛇(じゃ)巻き」は、「毎年6月の第1日曜日に、豊饒祈願と共に男子の聖人を祝う節句行事。(旧暦5月5日の行事) 藁で作った蛇形の綱の頭を17歳の男子が担ぎ、他の少年たちが後ろの綱を引っ張ってお互いに引き合いながら村中を練り歩く。(これは17歳の者が少年の仲間から離脱する儀礼) 巡行の後、榎の木に頭を下にして蛇体を上へと巻き付けることから、鍵の蛇巻きは降り龍とも言われる。」(現地解説板)

「今里の蛇巻き」とは、「農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成人を祝う節句行事である。 毎年6月の第1日曜日(旧暦のときは5月5日の男の節句の日)に、蛇の形をした長さ18mの蛇綱を、新麦わらで作り、13才から15才の男の子が蛇綱の頭を担ぎ、それより年下の男の子と、当屋の男たちが胴を持って、村中の家々を大声で「おめでとう」と言って、祝福して回る。その道中で、誰彼の区別なく、蛇綱で人を巻き込んだりする。」(現地解説板)

同日に行われるのですが、時間帯にずれがあり、両地区は隣接しているので、両方の行事を見学することが可能です。午前中から準備が始まる「鍵の蛇巻き」を午前中の準備から巡行の途中まで見て、「今里の蛇巻き」の準備から巡行・巻きつけまで見るという行程です。

「鍵の蛇巻き」
午前7時30分頃〜11時30分頃 八坂神社で蛇製作準備
午後2時頃〜 神事の後、鍵の村中を練り歩く
・・・その後、「はったはん」(北中学校前)の木に巻きつけ

「今里の蛇巻き」
午後1時頃〜午後2時30分頃 杵築神社にて蛇の製作
午後4時頃〜午後5時頃 今里の大字全戸をまわる
・・・その後、杵築神社の榎に巻きつけ
交通:近鉄石見駅下車 徒歩10〜15分


「鍵の蛇巻き」

鍵の八坂神社へ午前10時半ごろ着きましたが、準備作業はかなり進んでいました。鳥居の下にあるのが、出来上がった蛇の頭です。作業は午前7時半頃から始まったとのことでした。

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鍵の八坂神社

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蛇の頭

作業は、その年の当屋が行います。蛇の頭は稲わらの大束5つを下から2・2・1と積み重ねて縛ってあります。重さは300kgあるとのことです。
頭には長い尾がついています。3本の縄で、これに稲わらと麦わらを6:4の割合で混ぜて編み込んでいきます。出来上がった姿は、蛇の鱗をあらわしているようです。11時半ごろ尾が完成し昼休みにはいります。

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蛇の頭に尾がついている

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頭を後ろから見た姿

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尾に藁を差し込んでいく

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蛇の完成

午後2時いよいよ本番です。最初に神主による神事が行われます。蛇の頭の上には、ボンサン膳(お供え物)や、ドサン箱が置かれています。祝詞の奏上、蛇・関係者のお祓い、米、塩を蛇の頭部と胴体に振りまき、酒を頭部に注ぎます。

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頭の上にボンサン膳とドサン箱

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神事

神事が終わると蛇巻きのスタートです。
鍵の地区内で、今年祝い事のある家にドサン箱を先端につけた竹棒を担いで行きます。祝いとは、新居・結婚・出産(男児)などで、今年は1軒だけ。ドサン箱の中には、当日の朝に頭(かしら・子供たちの年長当番)が社務所に集まり、境内のヨノミの木の枝で農具のミニチュア(鎌・鍬・鋤など)を作って入れてあります。頭に入った新入り2名が祝いの家に回ります。竹棒を家の玄関に入れ頭と子ども達が手を叩いて祝し、祝儀をいただきます。

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ドサン箱を先端に付けた竹棒を運ぶ

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蛇の頭をかついで巡行

蛇を担ぐのは当屋と14〜17歳までの男子が中心で、17歳の青年は、これが終わると成人の仲間入りとなり、元服の儀式でもあります。後ろの綱は、14歳以下の子供が担ぎ、引っ張って進む邪魔をしながら地区内の家々を回って行きます。
回り終わると、北中学校の前にある「はったはん」と言う場所があり、ここに蛇の頭を置き、胴体を木に吊します。尾の先端は、その年の恵方と決められています。今年は北北西。最後の神事が行われ終了します。鍵は頭が下なので降り龍といわれています。今里は頭が上なので昇り龍といわれています。

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後ろの綱は引っ張って邪魔をする

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「はったはん」に供えられた蛇
(巡行の途中で、今里へ移動しました。「はったはん」の写真は当日後でとったものです。)


今里の蛇巻き

鍵から歩いて10分ほど、午後2時40分すぎに今里の杵築神社に到着しました。午後1時から始まった作業は終盤にさしかかっていました。
神社の拝殿前に、蛇の頭がつるされており、そこから尾(縄)がのばされて、麦わらを編み込んでいる途中でした。全体の長さは約18m。
鍵では地面の上での作業でしたが、今里では2本の木棒を綱でとめたものを三角に立てた台を連ね、その上に蛇をのせ全員で作業しています。また鍵は稲わらと麦わらを混ぜていましたが、今里は麦わらだけで作ります。

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今里の杵築神社の拝殿前

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全員で麦わらを編み込む

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麦わらの編み込み

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樫の枝と笹竹で飾られる

祭事を行うのは迎え当屋・本当屋・送り当屋各3軒計9軒で行います。今里地区の家々が順番に当屋になっていきます。本当屋は祭事の準備や食事など全般を取り仕切ります。
蛇が完成すると、参加する男子には拝殿で直会が行われます。直会の途中に蛇の頭に御神酒を注ぎ、清めます。

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大量のワカメの味噌煮

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味噌煮を丸く巻いて藁で縛ってある

その後、ワカメの味噌煮のご接待があります。これは縁起物で参列者にもふるまわれます。煮たワカメを小さく巻いてわらで縛ってあります。
海のない大和で御馳走であるワカメがふるまわれるのは、今里の土地柄です。寺川にあった今里の浜は、江戸時代、田原本の川港として栄えたところで、大阪から海のものも運ばれてきたとのことです。
午後4時前、蛇の支えがはずされると、蛇巻きの始まりです。地区の家々を一軒ずつ回っていきます。蛇巻きに参加するのは、当屋と十人衆(世話人)と子供会です。蛇の頭は、本来13〜15歳の男子が担ぐのですが、今ではもう少し年齢の幅があるようです。頭が家々の玄関に入り大声で「おめでとう」といいます。

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蛇巻きのスタート

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頭が家の玄関に入っていく

途中で広い場所があれば、蛇が人を巻き込んでいきます。蛇に巻かれると、無病息災になるといわれています。以前は当屋が決めた場所で誰彼なしに巻き込んでいたようですが、現在は危険な為、場所も決められ、巻き込まれるのも担いでいるメンバーに限られているようです。
午後5時ごろ杵築神社に戻って来ると蛇は神社の南側にある榎の枝に、頭を上にして昇り龍のように巻きつけられます。巻きつける枝の方角は今年の恵方(北北西)です。巻きつけるのにはクレーン車が使われます。終わると根元の祠の前で、参加者全員で村の平和と繁栄を祈ります。祠には、絵馬と農具のミニチュアが祀られています。終了は午後6時頃です。

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蛇が巻き込んでいるところ

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絵馬と農具のミニチュア

(蛇巻きの巡行は1時間ほどかけて地区内をくまなく回りましたが、最後までいると遅くなるので途中で見学を終了しました。最後の写真は昨年撮ったものです。)

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巻きつけられた蛇(2016年7月撮影)

文・写真 保存継承グループ 石田一雄
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2017年06月11日

女性グループ(ソムリエンヌ)活動報告「筋違道と三宅古墳群―ミヤケの夜明け―」

6月3日(土)、梅雨入り前の爽やかな青空のもと、近鉄橿原線結崎駅前に集合しました。
結崎駅から西に1q余りの糸井神社から、筋違道(太子道)を南へ黒田大塚古墳まで歩き、午後は太子道の西側にあたる三宅古墳群を訪ねながら北上するコースです。

案内は、このツアーを企画・準備して下さった寺田麻美さんです。また、三宅町ボランティアガイドの寺田良清さんも同行して下さり、こちらからも丁寧な説明を頂きました。

【行程】
近鉄結崎駅―糸井神社―≪筋違道≫―黒田大塚古墳(昼食)―天王塚古墳―芝ぞえ古墳―瓢箪山古墳―アンノ山古墳―高山古墳―茄子塚古墳―寺の前古墳―島の山古墳―比売久波神社―近鉄結崎駅

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≪あざさ(学名 アサザ)≫

『万葉集』に詠われ、『日本書紀』にも登場するあざさが見頃を迎えていました。
初夏から初秋にかけて咲く水草ですが、準絶滅危惧種に指定されています。

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≪糸井神社≫

糸井神社のご祭神は豊鋤入姫命とされていますが、社伝には機織り技術集団の神を祀ったとも伝えられています。
社名からも織物と関わっていたことが想像されます。

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≪下が、雨乞いなもで踊りの絵馬≫

この地域は、飛鳥川や寺川などが大和川に注ぐ低湿地の穀倉地帯でありながら、後背の山地が深くないので、日照りが続くと深刻な水不足に悩まされていました。
糸井神社に奉納された絵馬には、雨乞いのためのものもありました。上の雨乞いなもで踊りの絵馬では太鼓をたたき、村人がお揃いの衣装で踊っています。
また、池にお寺の鐘を放り込む様子を描いた絵馬もありました。これは他所の雨乞いでも見られた行為のようです。

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≪伴堂杵築神社に奉納された、おかげ踊り絵馬≫

糸井神社以外にも、太子道沿いの伴堂杵築神社や屏風杵築神社に、おかげ踊りやおかげ参りなどの絵馬が奉納されていました。

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≪桑の実≫

太子道沿いには桑の木があって、赤く色づいていました。食べられるのは黒くなってきた実ですが、甘酸っぱくて、ちょっと病み付きになってしまいました。

ところで、太子道は、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を往来した道との伝承があり、条里制の地割りに北から西に約20度振れているので、筋違道とも呼ばれています。
この太子道建設に、秦氏が関わったのではないかと考える研究者もいます。
私たちが最後に訪れた「比売久波(ひめくわ)神社」は桑の葉を祭神としていますし、糸井神社の存在と言い、養蚕や機織りに関係の深かった秦氏が関係していたとしても不思議ではありません。

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≪忍性菩薩御誕生之地の石碑の前で≫

忍性(1217〜1303)は三宅町屏風の生まれで、叡尊の弟子となり、ハンセン病患者等のために北山十八間戸を創設するなど、慈善救済事業に精進した高僧です。
平成13年に、太子道沿いに誕生の地の石碑が建てられました。
石碑の前で、三宅町ボランティアガイドの会長森内さんとそのお嬢さんが、忍性の生涯を描いた紙芝居を上演して下さいました。絵もとても上手で、楽しく聞かせていただきました。

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≪シーフードカレー弁当≫

昼食は、三宅町伴堂の「やまぐち 菜彩(さいさい)」で予約しておいたお弁当を、近鉄田原本線黒田駅近くの黒田大塚古墳でいただきました。
お肉系orお魚系かが選べます。写真のサイズで500円、もう一回り小さいレディスサイズが440円で、おかずが充実していて美味しい、イチ押しのお弁当です。

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≪田んぼの広がる低地に古墳が点在≫

午後は、黒田大塚古墳(所在は田原本町)から古墳巡りを開始しました。
飛鳥川と寺川にはさまれた標高45〜50mほどの沖積地に古墳が点在しているので、道も平坦で歩きやすく、田園風景を楽しむことができました。

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≪三宅古墳群の位置 「倭屯倉地帯の古墳群」より≫

『和名類聚抄』に見える「城下郡三宅郷」が現在の三宅町一帯であり、三宅郷には大和朝廷の大王の直轄地「倭屯倉」が置かれていたと考えられています。
現在17基からなる三宅古墳群は、ほとんどが小規模ながら前方後円墳が8基で、その割合が高いことが特徴です。
被葬者については、倭屯倉と何らかの関係があった人物たちと考えられています。

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≪黒田大塚古墳≫

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≪黒田大塚古墳『前方後円墳集成』より≫

6世紀前半頃の前方後円墳で、奈良県史跡に指定されています。
よく整備されていて、墳丘上に上ることもできましたが、著しく削平されています。復元(上図の点線部分)では墳丘全長70mですが、現在の全長は約55mです。
円筒形、朝顔形などの埴輪や木製品が出土しています。

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≪天王塚古墳≫

現在は直径16mの円墳ですが、築造時期などは不明です。

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≪芝ぞえ古墳≫

芝ぞえ古墳は上部を大きく削平されて、現在は畑地になっています。
現在は直径約30mの不整円形で、前方後円墳の後円部かとも考えられているものの、詳しいことはわかっていません。

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≪瓢箪山古墳≫

瓢箪山古墳は前方後円墳でありながら削平が大きいために、現在は墳丘全長35mの細長い楕円形になっています。
草をかきわけて上ることができました。上に祠があります。

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≪平成28年の瓢箪山古墳現地説明会資料より≫

瓢箪山古墳は、近年、三宅町として初の学術調査が行われた古墳です。
特に第2次調査では、女性の人物埴輪や犬の埴輪が出土しました。
調査の結果、築造時期が6世紀前半に絞られるとともに、墳丘全長約40mの上図のような姿であることがわかりました。
他の古墳についても三宅町が順次調査をしていく予定とはいえ、全ての古墳が調査対象となっているわけではありません。実態把握と保存のためにも、調査が広く進むことが望まれます。

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≪アンノ山古墳の後円部≫

アンノ山古墳は、現在墳丘全長40.5mの盾形になっており、わずかに後円部の丸みが前方後円墳の形を残しています。
築造時期等、詳しいことはわかっていません。
周濠だったと思われる所は田んぼになっていて、田植えをされていました。

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≪高山古墳≫

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≪高山古墳『大和前方後円墳集成』より≫

高山古墳は北側が町道で削られているものの、三宅町内では唯一前方後円形を残しています。
しかし、柵越しにしか見られず、木も茂っているので全体の形は確認できませんでした。
墳丘全長51m。5世紀末の築造と推定されています。

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≪茄子塚古墳≫

周囲はすっかり田畑になっており、直径18mの墳丘が残っているだけなので、円墳か前方後円墳かもわかっていません。
出土した須恵器から、5世紀後半から6世紀初頭の築造と考えられています。

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≪寺の前古墳≫

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≪寺の前古墳『大和前方後円墳集成』より≫

寺の前古墳も削平のため楕円形になっていますが、前方後円墳です。現在の墳丘全長は34m。
円筒埴輪片や家形埴輪片が出土しており、6世紀初頭の築造と考えられます。
明治初期に盗掘にあった際の記録によれば、花崗岩の石室に凝灰岩の石棺があり、冑も発見されていたとあります。

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≪島の山古墳≫

三宅古墳群の中では最も北に位置し(所在は川西町)、墳丘全長190mの巨大前方後円墳で、国史跡です。
今回訪ねた古墳群の中で、唯一水をたたえた周濠をもつ、別格の大きさの古墳でした。
約2500の玉類、150近くの緑色凝灰岩製の腕飾類が出土したことで有名です。
被葬者は女性司祭者であった可能性が高いとされていますが、具体的には絞られていません。
4世紀末から5世紀初頭の築造だと考えられています。

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≪比売久波神社境内にある天井石≫

島の山古墳のすぐ横にある比売久波神社では、島の山古墳の石棺の天井石が、敷石として転用されています。

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≪説明して下さる寺田さん≫

比売久波神社を最後に、太子道&三宅古墳群を巡る行程を終えました。
三宅町は面積4.06㎢の、奈良県で最も狭い市町村とのことですが、条里制の地割も残っており、今回は訪問できなかった所も含めて、古代の大和が凝縮されている地域であると感じました。
今後、多くの方達がこちらを訪問され、またさらに遺跡調査などが進められることを期待いたします。
最後になりましたが、お世話になりました三宅町ボランティアガイドの森内さん、寺田さんにお礼申し上げます。


文 女性グループ  岡村幸子
写真 同  岡村幸子 道崎美幸 寺田麻美

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2017年05月25日

記紀万葉サークル5月例会「蘇我氏ゆかりの地を巡る」

5月13日(土) 参加者24名

5月13日、夜半からの雨が残る中、2月に行われる予定だった例会が催行されました。雨をものともしない熱心な参加者が24名、橿原神宮前駅東口に集合されていました。案内をしていただいたのは、いつもエネルギッシュな富田良一さんです。
今回は、表題の通り、蘇我氏に関連する場所を尋ねるのですが、蘇我氏4代の家だけでも、稲目が「小墾田の家,向原の家、軽の曲殿」馬子が「石川の邸宅,槻曲の家、嶋の家」蝦夷が「豊浦の家、畝傍の家、甘樫の丘・上の宮門」入鹿が「甘樫の丘・谷の宮門」など日本書紀に記載されているだけでも、すごい数です。
集合場所がすでに橿原遺跡・丈六遺跡に含まれていて、蘇我氏の領域の真っただ中に足を踏み入れた感がします。
先ず向かったのは、厩坂宮・厩坂寺伝承地です。コンビニの脇の細いあぜ道を進むと大きな土壇が残されており、ここに大寺が建っていたのかと納得。
厩坂寺は興福寺の前身寺院ですが、馬子の娘の「法提郎娘媛」を妃にしていた34代舒明天皇が半年ほど宮として滞在し、後に寺としたということです。

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<厩坂寺伝承地>

次は、「本明寺」という大軽町の集落の中にひっそりとたたずむ小さなお寺を尋ねました。稲目の「軽の曲殿」また馬子が仏殿を造り、<仏法の始まり>と言われる「石川の邸宅」の跡の伝承地です。
それからまた迷子になりそうな、集落の細い道を進み、着いた所は「法綸寺」と、隣接する「春日神社」です。
ここが、「軽寺」の跡地と考えられています。日本書紀に「檜隈寺、軽寺、大窪寺それぞれに30年を期限として寄進する」との記事が見え相当の大寺であったことがうかがえます。また、境内には15代応神天皇の「軽島豊明宮跡」の伝承地であるという石碑が建っていました。古市古墳群の中にある、応神天皇陵とされる巨大古墳のことが思い起こされ、ひっそりと建つ石碑が対照的に思えました。

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<軽寺跡>

次に案内されたのは、最後の巨大前方後円墳と言われる「五条野丸山古墳」です。
墳長310メートルは、もちろん奈良県1位、全国6位の大きさです。
被葬者は「蘇我稲目」、「稲目の娘であり、欽明天皇の妃の堅塩媛」、「欽明天皇」等が有力視されています。
前方部から東の方角にある、推古天皇と竹田皇子の墓といわれる「植山古墳」を遠望しました。近く公園として公開される予定だそうです。二つの石室があり、家型石棺が置かれていたものと思われます。推古天皇は後に太子町の磯長谷に改葬されました。推古天皇は欽明天皇と堅塩媛の娘で稲目の孫にあたります。

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<丸山古墳後円部へ>

そして、蘇我氏の祖先ともいうべき「竹内宿祢の祖父」とされる、彦太忍信命(ひこふつおしのみこと)の父である8代孝元天皇の陵(剣池嶋上陵)を尋ねました。
陵そのものは文久の修陵時に3つの古墳を一つにしたものです。
竹内宿祢の後裔として、古代地方豪族の、蘇我氏、巨勢氏、平群氏などの名が挙げられています。
剣池を過ぎ、和田廃寺を目指します。丸いこんもりとした、何の変哲もない
塚がそれです。はじめは馬子が建立した寺の塔跡と思われていましたが出土した軒丸瓦が7世紀後半のもので、時代が合わず馬子建立の寺ではないことがわかりました。塚も1辺12.2メートルの基壇の塔跡で「葛城寺」とみる説が有力になっています。「聖徳太子伝暦」に「賜蘇我葛木臣」の記述があり蘇我氏の一族に葛木氏がおり、その氏寺ではないかと考えられています。
次に向かうのは、「古宮土壇」です。当初は小墾田宮跡伝承地とされていましたが、雷丘東方遺跡で「小治田宮」と書かれた墨書土器が出土したことで、小墾田宮ではないことが明らかになっています。発掘調査の際には飛鳥時代前半の掘立柱建物や庭園の跡が見つかり、蘇我氏の邸宅跡ではないかと考えられるようになっています。土壇も調査で中世のものと判明しています。

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<古宮土壇で説明する富田さん>

いよいよ飛鳥の中心部に入っていきます。稲目が「向原の家」を仏堂とし、592年には、推古天皇の宮となり、ここに即位をしました。そののち、603年に推古天皇が小墾田宮に移り、豊浦寺になったと思われます。現在、向原寺が法灯をつないでおり、飛鳥時代の遺構を見ることができます。また、蝦夷は「豊浦大臣(とゆらのおおおみ)」と呼ばれており、このあたりに邸宅を構えていたのではないかと思われています。
そして、古代の裁判である「盟神探湯(くがたち)」神事が行われる甘樫坐神社に立ち寄り、今日の昼食場所の甘樫丘休憩所に到着です。

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<豊浦寺石敷と豊浦宮遺構(下層部分)>

さて、午後からは甘樫丘の遊歩道を展望台まで登ります。雨も上がり、雨に濡れた木々がしっとりと新緑に輝いて本当に美しく、爽やかな空気を思い切り吸って、次の目的地に向かいます。
展望台からは東の足下に飛鳥寺、入鹿の首塚、右に視線を向けると、飛鳥京跡、さらに奥には島庄遺跡、石舞台古墳、都塚古墳、などなど蘇我氏の遺跡の中でも最も有名な場所がずらりと並んでいますが、今回は遠望するのみでした。
甘樫丘の尾根を歩いて向かうのは甘樫丘東麓遺跡です。ここは日本書紀に書かれている蝦夷の「上の宮門」、入鹿の「谷の宮門」と呼ばれた、それぞれの邸宅があった場所とされています。
乙巳の変の際、蝦夷はこの邸宅に火を放って死んだといわれており、焼土の堆積や、7世紀前半の大規模な整地や石垣の存在、7世紀半ばには再び大規模な整地が行われ、7世紀後半にかけて、建物を建て替えながら継続的に使用された跡がうかがえます。ただ建物の規模が小さく、今後も調査され、全容が解明されるのはまだ先のことかも知れません。

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<甘樫丘へ>

さて、次は2015年1月に発見された小山田古墳に到着。最近では一番大きな話題を呼びました。1辺が約50メートルの方墳で、舒明天皇の初葬墓である「滑谷岡陵」ではないかとされましたが、別の研究者は、蝦夷・入鹿親子が生前に造ったといわれている『今来の双墓』の蘇我蝦夷の「大陵」で、すぐ西にある、菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」にあたるという考えをしています。
ところが今年(2017年1月)に別のところを調査したところ、横穴式の羨道部が見つかり、1辺70メートルという全国でも最大級の巨大方墳と判明しました。橿原考古学研究所は「舒明天皇の初葬墓の可能性がさらに高まった」としています。築造年代も640年ごろと分かり、舒明天皇の崩御の時期(641年)に合うこともわかりました。
そして、すぐ西側の菖蒲池古墳の見学をしました。明治時代は、石室が露出した状態でしたが、今は覆屋があり、竜山石製のくりぬき式家型石棺が2基南北に並んでいます。被葬者についてもいろいろな説がありますが、現在は小山田遺跡との関連が取りざたされています。謎の多い古墳ですね。
次に宮ケ原1・2号墳の話を道端で聞きました。というのも宅地の造成で今は住宅が建っており、完全に地下に埋もれてしまったもので、2基の石室が東西に並んで構築されていました。
これもまた蝦夷と入鹿の「今来の双墓」の可能性も・・・・。
さらに古代の古墳の中で被葬者が確定されている数少ない古墳である「天武・持統合葬陵」を通り、精緻な切石で造られていることが分かっている金塚古墳(平田岩屋古墳)を過ぎ、欽明天皇陵と言われている、「梅山古墳」に到着。ここの周濠も文久の修陵時に造られており、明日香では最大の前方後円墳です。被葬者も欽明天皇、蘇我稲目が挙げられており、葺石が見事だったそうです。
「稲目さんもあちこち言われて忙しいなあ」と富田さん。全くです。
皆さん、大笑い!
次いで、すぐ横の「吉備姫王墓」に行きました。猿石が4体おかれています。これも飛鳥を代表するミステリーストーンの一つです。
「吉備姫王」は天智、天武天皇の祖母で、この方の墓も飛鳥駅のすぐ西にある「岩屋山古墳」が候補に挙げられています。
これにて、今回の「蘇我氏ゆかりの地を巡る」ツアーは終了しました。
盛りだくさんで、よく歩きました!歩数計は2万歩を超えていました。
まだまだ謎の多い明日香、これからどんな大発見があるのでしょう!?
いつもわくわくさせてくれるところです。楽しかった!
                         
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文 西口つねみ  写真 田中昌弘

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2017年05月17日

女性グループ(ソムリエンヌ)活動報告「万葉の植物ウォッチング・奈良公園〜白毫寺」

5月のソムリエンヌの活動は、万葉集に詠まれた植物を観察しながら奈良公園周辺のハイキングです。万葉集には約4500種の歌が収められていますが、そのうちの3分の1に花や植物が詠まれています。ゴールデンウィーク真只中の奈良公園は予想通り観光客で溢れていました。

【行程】
猿沢池―興福寺南円堂―興福寺本坊―江戸三―鷺池―志賀直哉旧居―新薬師寺―昼食「花」―白毫寺―飛鳥中学校前―ささやきの小径―飛火野―雪消の沢解散(歩行距離約10キロ)

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【采女神社にて自己紹介】

5月3日、猿沢池前の采女神社前に集合です。案内は森林インストラクターとしても活躍されている木村洋子さんです。今年ソムリエンヌに入会された大谷さんも参加してくださいました。自己紹介を終えたあと三条通りから興福寺南円堂に通じる参道の階段を登り、南都八景の一つ、南円堂の藤や橘を見学した後、興福寺本坊へと向かいます。

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【興福寺本坊付近にてマツの説明】

0141:磐白の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む
マツは種類が多く、クロマツ(オマツ)とアカマツ(メマツ)が代表的なもので、クロマツの松ぼっくりは成熟するのに2年半かかるそうですが、アカマツは1年半で成熟するとのこと。アカマツとクロマツの簡単な見分け方は樹皮の色を見るか、わかりにくい場合は松葉に触って鋭くて痛いのがクロマツ、柔らかいのがアカマツだそうです。マツはどこに行っても当たり前のように出会うので、このふたつの違いが判るだけでマツに愛着がわきました。

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【江戸三の庭園にて】

人混みを逃れて奈良公園内にある江戸三から浮見堂のある鷺池へと移動します。終わりに近づいていましたが奈良の八重桜が咲いていました。花びらの数が多いのが特徴で、チアガールが持っているボンボンのよう。桜の花の塩漬けに使われるのが八重桜だそうです。奈良の九重桜と花の様子がよく似ていますが、萼(ガク)の数で見分けられるそうです。八重桜は5枚、九重桜は10枚。ちなみにエドヒガン桜(薄墨桜)はガクの下が壺型に丸くなっているのが特徴とか。桜は馴染みの深い花ですが、こんな豆知識を教えてもらいながらウォーキングは盛り上がります。

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【土塀のテイカカズラ】

1046:岩綱のまた変若ちかへりあをによし 奈良の都をまたも見むかも
「岩綱」とはテイカカズラのことで、初夏に良い香りのする白い花を咲かせます。藤原定家が亡くなった後に植物となり、式子内親王の墓に巻きついたのが名前の由来という伝説があるそうです。

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【鷺池の椎の木】

0142:家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る
歌のように葉に飯を盛ったなら、もっと大きな葉を想像するのですが、椎の葉は長さ8〜9cm、幅4〜5cmです。飛鳥時代、有間皇子が旅の途中に心情を詠んだのでしょう。椎の木の果実はいわゆるドングリですが、このドングリは食べられるそうです。アクが強く食べられないのはコナラやクヌギのドングリで、椎の木のドングリは皮を剥いて生でもOK。フライパンで炒っても美味しいそうです。ちなみに奈良公園から春日山遊歩道にかけてドングリのなる木が10種類以上も確認されているそうです。

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【志賀直哉旧居近くにて】

ハウチワカエデ。葉の形が団扇に似ているのが名前の由来です。

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【高畑、小道で小休憩】

柚子味噌田楽の美味しいお店で休憩です。ご年配のお母さんがおられて、とても親切。お話し好きな方で気持ちを和ませてくれます。

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【モッコウバラ】

見事なモッコウバラに思わず立ち止まります。このバラは八重咲きのトゲのないバラで江戸時代に中国から入って来たようですが、秋篠宮真子様のお印に決められてから有名になったそうです。育てやすいバラなので、家の庭先などでよく見かけます。

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【オドリコソウ】

笠をかぶった踊り子が輪になって踊っているように見えることから名付けられた可憐な花です。道中、珍しい草花や樹木に時おり足を止めながら、新薬師寺から南東へ、能登川の小さな橋を渡って昼食場所の「花」に向かいます。

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【野菜と雑穀、糀の店、花にて記念撮影】

人気メニューの花盆ランチは月替わりで料理のテーマが変わるそうです。酵素補給でモヤモヤした体をスッキリさせてくれる健康ランチを頂きました。彩りもきれいで楽しい食事タイムでした。さて、食事を終えウォーキングの再開です。白毫寺の東、寺山霊園祖霊堂から飛鳥中学校前までの静かな里の道を歩きます。

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【ニガイチゴ】

別名山帰来(サンキライ)は茎には鋭いトゲがあり、猿の体に引っかかり嫌うためこのような名前が付いたそうですが、この若葉で柏餅のカシワの代わりに用いる地域もあるそうです。

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【イラクサ・カワラフジ】

3855:かわらふじに延ひおほとれる屎葛 絶ゆることなく宮仕へせむ
かわらふじはジャケツイバラの事だろうと言われています。茎にトゲのある植物ですが、そのかわらふじにまとい付いて延びるヘクソカズラのように、したたかに絶える事無く宮仕えをしようという意味。これは現代にも通用する歌ですね。

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【ウツギ・空木】

枝を折ってみると中が空洞になっています。名前の由来がわかると難しい植物の名前も覚えやすいです。

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【マルミノヤマゴボウ】

ヤマゴボウといえば食べられそうですが、マルミノヤマゴボウは根の部分に毒性があります。山菜として売られているヤマゴボウはアザミの仲間だそうです。ゴボウといえど色々種類があることに驚きでした。高畑まで戻って来たところで、ささやきの小径(下の禰宜道)と呼ばれる馬酔木の原生林のトンネルを抜けて鹿園を目指します。途中鬱蒼とした森の中を歩き、小さな沢をいくつか渡ります。本当にこんな道で大丈夫?と不安になったところで急に視界がパッと開けた場所にたどり着きました。

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【飛火野】

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【飛火野のフジ】

0330:藤波の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君
かつて春日大社の切り畑があった場所に到着です。ここは奈良公園でも観光客とは無縁の穴場中の穴場です。見事な藤が見頃を迎えていました。藤はノダフジとヤマフジ(フジ)の2種類のみで、山にあるからヤマフジ、藤棚にあるからフジというわけではないそうです。一般的にフジと呼ばれるのはノダフジのこと。ノダフジの花が長く垂れ下がるのに対して、ヤマフジの花は短めでコロンとした感じです。またツルの巻く向きも違っており、真上から見るとノダフジは右巻き、ヤマフジは左巻きだそうです。顔を近づけるとほのかに甘い香りがしました。藤に別れを告げ、鹿園を経て解散場所の雪消の沢へと向かいます。

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【雪消の沢古跡】

本日のウォーキングも無事終了です。充実した春の一日を過ごすことができました。普段なにげなく見ている草花の名前や特徴を知ることで、これからの散策が何倍も楽しくなりそうです。木村さんありがとうございました。


文 女性グループ(ソムリエンヌ)道崎美幸
写真 道崎美幸・寺田麻美
posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:48| Comment(0) | 女性G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月13日

現地勉強会「目から鱗の古建築」(啓発G、歴史探訪G共催)

啓発グループ、歴史探訪グループが共催する現地勉強会「目から鱗の古建築」が5月7日、東大寺、春日大社、興福寺などを巡回するコースで開かれました。長年、講演会講師や社寺ガイドに取り組まれてきた京都産業大上席研究員の中江好喜さんが講師を務め、奈良まほろばソムリエの会の29人、一般から2人の計31人が社寺建築を見る際の”ツボ”に耳を傾けました。

昨年10月〜12月に3回にわたって啓発グループが中江さんを講師に古建築の基礎を学ぶ勉強会を開催。しかし座学では分かりづらい面もあり、手近にある世界遺産の建築を見ることで理解を深めようと両グループの初のコラボ企画となりました。

当日はゴールデンウィーク最終日で青空が広がる好天。午後1時すぎ、外国人を含め多くの観光客でにぎわう東大寺から講習がスタートし、手向山八幡宮、春日大社、興福寺の順に巡りました。

中江さんは東大寺の南大門(国宝)の前で「これが大仏様、別名天竺様の門です。全国的に数が少ない」と話し、天井板を張らない腰屋根構造、高さ25b余りで重量のある屋根を支える六手先の挿肘木が特徴と指摘。「重源さんが中国から導入し、建てられて七百年もっている。ニューヨークなどの高層ビルではとても無理」と中江さん。

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<東大寺の南大門前で大仏様の特徴を説明する中江さん(左奥)>

すぐ北の中門(ちゅうもん、重文)前では「これは入母屋式で本瓦葺き、五間三戸の和様の楼門。尾垂木の断面は長方形で、唐様、別名禅宗様の五角形と異なる」と、中江さんは配布した資料の「和様・大仏様・禅宗様の比較」を示しながら解説しました。

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<東大寺中門前は鮮やかな新緑。青空の下、開かれた古建築の現地勉強会>

続く手向山八幡宮の鳥居では笠木、貫、木鼻などパーツの名称を説明した後、柱の形に触れました。「これは下に向かって角度が開いているので明神(みょうじん)鳥居。真っすぐなのは神明(しんめい)鳥居です」。同八幡宮の和様の楼門(県指定文化財)では左右の屋根に付けられたハトの像について「八幡宮の神の使いとされています。日吉大社ではサル、平野神社ではリス、もちろん春日大社はシカですよね」と中江さん。

参加者は春日大社に続く新緑の木立の中の道でさわやかな風をほおに受け、若草山のふもとではシカの群れをよけながら歩を進めました。中江さんも雑談で「今年2月で75歳になり、後期高齢者ですわ」と言いながらも、登りの階段でも歩くスピードは鈍ることもなく元気いっぱい。春日大社では本殿への入口建物について「上部にある唐破風の下に付けられたものを兎毛通と言います。後ろの柱を隠す懸魚の一種です」と中江さん。参加者の中には各建物で次々に登場する専門用語に、つい「なかなか覚えきれへんなぁ」。

最後に訪れた興福寺で中江さんは五重塔、三重塔(ともに国宝)のそれぞれ前で解説。「一階の組物は五重塔で三手先、三重塔では一手先になっている。塔の規模の違いもあるが、三重塔は軸部(左右の幅)が大きいので一手先が可能になっています」などと述べました。

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<興福寺の五重塔前で1階軒下組物の三手先などについて語る中江さん(中央奥)>

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<現地勉強会の参加者の目を楽しませた興福寺南円堂前で咲き誇るフジ>

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<興福寺三重塔前から近くの南円堂の垂木に関する中江さん(中央)の説明に耳を傾ける参加者たち>

移動時間を含め3時間余りにわたった現地勉強会。最後の解説場所の北円堂(国宝)近くで中江さんは「きょう話させてもらったことを、今後、皆さんが社寺を訪ねられる時の参考にしていただければ。資料の読み返しもお忘れなく」と締めくくりました。企画した啓発グループの大山恵功理事、歴史探訪グループの大村隆清理事は「やはり現物を目にして話を聞くと違いますね」と声をそろえていました。

今回の現地勉強会「目から鱗の古建築」。応募者が多く、追加で第2回が6月11日、第3回が7月2日に中江さんを講師に第1回と同じコースで開かれます。定員に達している日もあり、問い合わせ・申し込みは大村理事omukun@mopera.netまで。

文  啓発グループ・保存継承グループ 久門たつお
写真 専務理事 鉄田憲男
posted by 奈良まほろばソムリエ at 11:31| Comment(0) | 啓発G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする