2017年04月22日

キトラ・マルコ・高松塚の飛鳥三兄弟古墳を散策

今回の飛鳥地域散策のテーマは、「キトラ・マルコ・高松塚の飛鳥三兄弟古墳を散策〜四神の館と飛鳥の奥津城巡り〜」です。
三兄弟古墳を中心に、飛鳥地域の古墳時代・終末期古墳(7世紀前半)を案内するコースです。3つの終末期古墳の構造上特徴や立地について風水思想の影響、藤原京南西部エリアに広がる聖なるゾーン(陵墓地域)の説明がガイドポイントでした。

<行程>
近鉄飛鳥駅から明日香村東部の高松塚古墳・キトラ古墳を巡り、壺阪山駅から近鉄線を西へ越えて高取町の束明神古墳を巡り、マルコ山古墳ほか明日香村西部の古墳をたずねて、飛鳥駅に帰ってくる周回コースです。
近鉄飛鳥駅→高松塚古墳→檜隈寺跡→キトラ古墳→四神の館(昼食休憩)→(壺阪山駅)→岡宮天皇真弓丘陵→束明神古墳→マルコ山古墳→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅 全行程約10kmで途中登り坂が多い健脚向きコースです。

4月16日(日)朝から晴天に恵まれウオーキング日和です。桜の満開は過ぎましたが、まだ花が残り春の香りが広がっています。距離が長い健脚向きコースで、最高気温25度の天気予報でしたが、67名もの皆さんにご参加をいただきました。
9時40分集合でしたが、近鉄吉野線の本数が少なく待ち時間が長くなるので、早く集まられた方から先に少人数のグループを組んで出発しました。

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<近鉄飛鳥駅から高松塚古墳へ>

まず「高松塚古墳」です。1972年から始まった調査で、石室内部から鮮やかに彩色された壁画が発見され、日本中に考古学ブームを巻き起こしました。これを契機として、「終末期古墳」が認識され始めました。今回の終末期三兄弟古墳の最初の古墳です。
壁画館には入らずに先を急ぎます。
 
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<高松塚古墳 1>

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<高松塚古墳 2>

檜隈寺跡前休憩案内所を経由して、「於美阿志神社・檜隈寺跡」です。於美阿志神社(延喜式内社)は渡来人集団・東漢(やまとのあや)氏の氏寺だった檜隈寺(ひのくまでら)の跡地に位置しています。1979年からの発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが確認されました。

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<於美阿志神社・檜隈寺跡>

「キトラ古墳」は、終末期三兄弟古墳の2つ目の古墳です。高松塚古墳の発見を契機に、1983年ファイバースコープを使用した調査で壁画が確認されました。四神などの壁画のほかに、天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の精緻なものと評価されています。

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<キトラ古墳>

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、昨年9月に開館したキトラ古墳の壁画や出土品を保存管理・展示する施設です。周辺は国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として整備され、休憩設備や芝生、ベンチがあるので、ここで昼食休憩をとりました。

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<キトラ古墳壁画体験館 四神の館前>

昼食休憩の後はあまりなじみのない行程をたどります。壺阪山駅に向かい駅南の陸橋をわたって西側へ、高取町役場の前を通って、途中「森カシ谷遺跡」を遠望しながら、飛鳥の王宮と紀ノ川河口とを結んだ「紀路」に入ります。「岡宮天皇陵」の前を通って、束明神古墳へ。岡宮天皇陵は宮内庁が草壁皇子の墓として管理する陵墓で、草壁皇子は、持統3(689)年に没し、天平宝字2(758)年に岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすらみこと)と諡号を贈られました。

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<壺阪山駅南の陸橋を渡る 1>

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<壺阪山駅南の陸橋を渡る 2>

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<森カシ遺跡を望む>

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<岡宮天皇真弓丘陵>

しばらく上りが続く難所の行程に向かいます。丘陵の途中にある佐田集落の中を抜けて、一番奥にある春日神社への百段ほどの階段を上ります。「束明神古墳」は、春日神社境内に残る終末期古墳で、八角形墳と推定され、真の草壁皇子陵とする専門家が多いです。
 
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<春日神社・束明神古墳 1>

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<春日神社・束明神古墳 2>

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<佐田集落>

束明神古墳の後、丘陵沿いの山道を通って明日香村にもどり、三兄弟古墳の最後、六角形墳の「マルコ山古墳」に向かいます。高松塚古墳のような壁画が描かれた古墳は他にもないのかということで、1978年に調査されましたが、壁面に漆喰は塗られていたものの壁画はありませんでした。墳丘上に登れ、トイレも設置されています。

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<マルコ山古墳への道 1>

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<マルコ山古墳への道 2>

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<マルコ山古墳>

さらに丘陵沿いの山道を、途中にある「真弓鑵子塚古墳」を遠望しながら、「牽牛子塚古墳」に向かいます。牽牛子とはアサガオの別称で、以前は「あさがおづかこふん」とか「御前塚」と呼ばれていました。牽牛子塚古墳は版築により造成された八角形墳で、斉明天皇の墓の可能性が高いといわれます。ただし、宮内庁は、高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を、斎明天皇の越智崗上陵 (おちのおかのえのみささぎ)として管理しています。
隣接する「越塚御門古墳」の被葬者は、大田皇女(斉明天皇の孫、中大兄皇子の長女)が有力です。

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<牽牛子塚古墳への道 1>

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<牽牛子塚古墳への道 2>

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<牽牛子塚古墳>

今回の行程の最後となる岩屋山古墳は終末期の方形墳です。精緻な花崗岩の切石を積んで構成されている「岩屋山式」と呼ばれる横穴式石室で有名です。墳丘の上には一本桜が咲いていました。

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<岩屋山古墳>

天気予報通り最高気温25度の夏日になりましたが、参加者の皆さんは健脚揃いで一人の脱落者もなく、全員飛鳥駅まで無事戻ってこられました。

お客様のアンケートでは、9割の方から満足という評価をいただきました。距離の点でもちょうど良いというご意見が9割を占めました。
個別には「ガイドの説明が詳しくわかりやすかった。古墳のことがよくわかった。一人では行きにくい駅西側の古墳を廻れてよかった。」などのご意見をいただきました。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

記 石田一雄

posted by 奈良まほろばソムリエ at 14:53| Comment(0) | ガイドG | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

保存継承グループ 甘樫坐神社 盟神探湯神事 見学記

4月2日 明日香村の甘樫丘の北端麓、向原寺(伝豊浦の宮跡)の西隣の甘樫坐(あまかしにます)神社で盟神探湯(くがたち)神事が営まれ、保存継承グループ6名で見学に参加しました。

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(甘樫坐神社正面)          

盟神探湯とは古代の呪術的裁判法で、宗教、法律、道徳が未分化で呪術的観念が支配的な文化段階において正邪を判断するために用いられた方法です。
文字通り、対象となる者に、神に潔白を誓わせた(盟神)後、釜の中で沸騰する熱湯に手を入れさせ(探湯)、その結果により、事の正邪を判断するもので、正しき者は無事で、偽りのある者は大火傷を負うというものです。 

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(境内の案内板)

「日本書紀」には允恭天皇4年(415)に、氏姓の混乱を正すために、甘樫の神前で煮え湯の入った釜に手を入れて盟神探湯が行われたと記載されています。
平城遷都後、明日香は衰運に向かい、その釜も神社と一緒に現在地に移されましたが810年以降いつしか失われてしまいました。 
現在では毎年、4月の第一日曜日に、境内の立石の前に釜を据え、嘘、偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷地区の氏子達が盟神探湯の神事を保存・継承しています。

開始前に甘樫坐神社に行くと、境内には数メートル四方にしめ縄が張られており、立石側のしめ縄近くには古い湯釜が据え置かれていて、近所の人や見学に訪れた人々がしめ縄を囲んで神事の始まりを待ち、拝殿内では既に氏子達が上がってお祓いを授かっている様子です。

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(据えられた古い湯釜「寛政十戊年十二月」とある。(1798年))

14:00になり、来賓の方々の挨拶終了後、甘樫坐神社の飛鳥弘文宮司が板木を鳴らして神事の始まりです。

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(宮司が板木を叩き神事の開始)

宮司が立石の前の湯気の立つ釜に向かい、青竹の大幣で丁寧にお祓いをされます。
その釜の中に、まず白いお皿(白瓮)に盛られた米を入れ、次に大きな瓶子に入ったお神酒を注ぎ、最後に白瓮に盛られた塩を入れます。

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(宮司がお神酒を注ぐ)

その後、白い紙を広げられ、祝詞を読み上げられます。
それから熊笹の大きな束を釜の中に深く、しっかりと浸します。
丁寧に引き上げられた熊笹の束をふんわりと包むように白い湯気が立ち上がります。

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(宮司による熊笹のお祓い)

宮司は熊笹の束を掲げ、境内の参列者や見学者にお祓いをされます。
そしてゆっくりとすべての所作を終えられます。始終無駄な動きなく、真に美しい所作で見とれてしまいました。
さて雰囲気は変わり、飛鳥時代の衣装を着た劇団「時空」の寸劇が始まります。
隣のお寺の仏像が何者かに傷つけられた事件が発生し、3人の容疑者が一人ずつ湯釜に手を入れ裁判が行われ、犯人が判明するというストーリーで、笑いも交えて和やかに分かりやすく盟神探湯神事を再現していました。

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(劇団「時空」の寸劇)

最後に参列者や見学者に熊笹が配られ一人ずつ順にそれを湯釜につけ、身を清めさせていただき全ての儀式が終了しました。
寸劇を見ていた氏子らしき小学生の男の子が「僕はてっきり真ん中の人が犯人と思ったけどなぁ〜」と家族に話す口調が何とも愛らしく、素直でほのぼのとしていて、この子も将来この神事を保存継承してくれる人に成るのだなと感じながら帰途につきました。
道すがら、春の陽気に包まれてミモザの花が満開でした。

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(桜の開花はまだでしたが満開のミモザの花)

私も有り難く熊笹を持ち帰らせていただき、我が家の玄関に祀らせていただいております。嘘、偽りを正し、爽やかな毎日でありますようにと。

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(頂いた熊笹)

文  保存継承グループ 中辻安以子
写真  中辻安以子、亀田幸英
posted by 奈良まほろばソムリエ at 11:49| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

第一回ふれあい交流会

平成29年3月18日(土)午後、南都銀行西大寺銀行クラブで「第一回ふれあい交流会」が開催されました。

奈良まほろばソムリエの会では、さまざまなグループが積極的に活動していますが、グループに属していない会員も多くいます。さらに、グループの枠を超えて交流を図りたいとの希望もあります。こうしたことから、気軽に交流・親睦を深める場として「ふれあい交流会」が設けられました。

当日は、講演会には34名、交流会には29名の参加がありました。遠く東は東京、西は九州から参加された方もいます。

開会挨拶では、鈴木浩理事長から、開催の趣旨や地域再生大賞「優秀賞」受賞の紹介などがありました。

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【鈴木理事長の開会挨拶】

講演の部では、講師の桜井市纏向学研究センター主任研究員の橋本輝彦氏から、「纏向遺跡における調査・研究への取り組みとその成果」に関して1時間半にわたり話がありました。「纏向学研究センターが目指すもの」では単に纏向遺跡の研究に留まらず日本国の成り立ちや文化の原像を解明する学際的総合研究を進めるのが纏向学だと説かれ、纏向学研究センターの体制や活動に関する総論的説明がありました。

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【橋本主任研究員の講演「纏向学研究センター」】

続いて、発掘現場での発見に対する調査・研究に関して、具体的な事例に基づき、豊富な画像を使って詳しい説明がありました(「纏向遺跡第61次太田・李田地区の花粉分析調査」「纏向遺跡第65次尾崎花地区の巾着状絹製品の総合調査」「纏向・大福・脇本遺跡出土破砕銅鐸の調査」「纏向・大福遺跡出土木製仮面・仮面状木製品の調査」「桜井市等彌神社所蔵遺物の調査」「吉野郡大淀町佐名伝 某家所蔵銅鐸の調査」)。橋本さんの調査研究手法に関して、裏話も交えて具体的な説明を聞けたのですから、実に貴重な機会でした。

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【橋本主任研究員の講演「花粉分析調査」】

懇談の部では、参加者が一分間の自己紹介をしました。各人が奈良に対する熱い思いを語り、“「日本のはじまりの地」である奈良は素晴らしい”と言う点で一致しました。また、理事からは、担当するグループの活動紹介や勧誘があり、どのグループで活動しようか迷われた方も多かったと思います。

次回の開催は、9月頃を予定しています。ふれあい交流会への参加を希望される会員の方は、池内まで電子メールで連絡をお願いします(ikeuchi@leto.eonet.ne.jp)。

文 池内 力  写真 鉄田 憲男

posted by 奈良まほろばソムリエ at 14:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

保存継承グループ 調田坐一事尼古神社おんだ祭り見学記

3月6日、葛城市(旧新庄町)疋田の調田坐一事尼古(つくだにますひとことねこ)神社のおんだ祭りを見学させていただきました。

近鉄南大阪線尺土駅から南へ、大田川に沿って10分程歩きます。ほぼ正方形の境界線をもつ疋田の集落の中ほどに位置しています。すぐ隣には公民館もあり、集落の人々の中心的な場であることがうかがえます。

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〈一の鳥居から参道を見る〉

古く『延喜式』神名帳に載せる式内大社で、神護景雲4年(770)には封戸を与えられ、貞観元年(859)には従五位上を与えられた、由緒ある神社です。
時を経て無住となっていましたが、今の宮司様の3代前からは常住されています。
御祭神は一事尼古大神と事代主大神です。前者は一言主神と同神で、「尼古」とは高貴な男神を示す語だそうです。

おんだ祭に先立ち、祈年祭が執り行われました。
本殿前の拝殿内には、20名ほどの氏子代表の方々が参列されていました。

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〈神官や氏子が手水で身を清める〉

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〈拝殿前〉

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〈祈年祭 奥が本殿〉

拝殿の中には、文久元年(1861)の大きな絵馬をはじめとして、現代のものまでたくさんの絵馬が奉納されています。
祈年祭の最後に、御神楽「浦安の舞」が奉納されます。
小学校5年生の女の子が巫女を務めることになっています。

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〈御神楽「浦安の舞」(上に掲げられているのが文久元年の絵馬)〉

祈年祭に続いておんだ祭(御田植え祭)が行われます。
言うまでもなく、春先の農作業の開始前に、五穀豊穣を祈念して、農作業を模擬的に演じる予祝儀礼です。
神社境内に、結界をめぐらした模擬田が作られています。
模擬田の中で、改めて祝詞奏上などを行ったあと、いよいよ牛の登場です。

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〈牛の登場(中に青年2人が入っています)〉

牛は唐犂と馬鍬を引いて、何度も模擬田の中を回ります。田の縁を氏子が、木製の鍬と鋤で耕す所作をします。
そのあと、牛は田をとび出して、境内を歩き回ります。

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〈唐犂・馬鍬・鍬・鋤〉

現在使われている牛面は昭和36年に奉納されたものですが、神社には明治31年に奉納された牛面も残されており、この頃から今のおんだ祭りの形ができあがったのではないかということでした。

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〈左:明治31年に奉納された牛面〉
〈右:昭和36年に奉納された牛面〉

牛が耕したあとは、田植えです。
松葉でできた模造の稲苗を、神官や氏子が模擬田に並べていきます。
杉葉でできた稲苗は、神官によって周りに投げられます。
この模造の稲苗は持ち帰られて、苗代作りの際に水路の水口に供えられ、水路を通じて疫神が入り込まないよう、結界する役割を果たします。

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〈模擬田に並べた松葉の稲苗〉

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〈右が松葉、左が杉葉の稲苗〉

最後がお待ちかねの餅まきです。
境内はビニール袋を手にした人々でいっぱいになります。子供たちもたくさん来ていました。

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〈餅まき〉

もち米2石3斗(約345s)をついて、薄い円盤状の紅白の福餅にしています。作業に8時間ほどかかったとのこと。
櫓の上から休みなく大量の餅がまかれました。その間約15分。
筆者も控えめに(?)後ろのほうにいたのですが、たくさんいただくことができました。

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〈紅白の福餅〉

神社関係者の皆様、お話を聞かせて頂いた上にお餅までいただき、ありがとうございました!

最後にひとこと。最初は「調田」と書いて「つくだ」と読むとは?と思いましたが、「調」は「みつぎ」「みつき」なので、「みつぎだ」「みつきだ」から転じたのではないでしょうか。

PDF形式のレポート → <ここをクリック>

文 保存継承グループ 岡村幸子  写真 岡村幸子・亀田幸英
posted by 奈良まほろばソムリエ at 10:25| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

歴史探訪グループ例会「大和小泉でブラソムリエ」

法隆寺と郡山の間に位置する「大和小泉」。観光客は少なく、ソムリエでもあまり訪れない地味なウォーキングに参加者はなんと31人。さすがソムリエはマニアックな人が多いと感じながら、穏やかな日和の2月26日(日)10時、JR大和小泉駅をスタート。街道沿いの古い街並みや、「太神宮」の灯篭などを見ながらまず「小泉神社」へ。

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小泉の街並み

素戔嗚尊と誉田別命を祀る重文の春日造の本殿を軽妙な話し方の神職の案内で見学。神像の写真も見せていただきました。神社の境内には葉の裏側に文字が書け、葉書の始まりと言われる「タラヨウ」の木も見られます。

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小泉神社本殿

神社を後に北へ向かうと小泉城の堀跡のナギナタ池の向こうに片桐氏二代目の貞昌を祖とする石州流茶道宗家「高林庵」が見えてきます。漆喰の白壁や鯱が乗る屋根が、往時の小泉城を忍ばせます。

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高林庵

高林庵を一回りし「小泉城址」へ、地侍の小泉氏が築城し、江戸時代には片桐氏が治めた小泉城の石碑は高台の縁にありますが、そこには何も残っていません。

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小泉城址

城址から階段を下り、堀跡を見て、「庚申(こうしん)堂」へ。ここは「一国一宇庚申」とされ、大和の庚申信仰の中心です。

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庚申堂で記念撮影

庚申(かのえさる)の夜、三尸(さんし)という虫が人の罪を天帝に告げると早死にするという庚申信仰の身代わりとするため、軒先には、奈良町と同じ赤い「身代わり申(さる)」がぶら下がります。

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軒に下がる身代わり申

庚申堂の本堂の軒丸瓦には猿が描かれ、梵鐘には「見ざる聞かざる言わざる」が鋳出されています。

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庚申堂軒丸瓦の猿

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梵鐘の三猿

その後、弘法大師が掘り、小泉の地名の由来になったともされる「小白水」(”白”・”水”を縦に重ねると”泉”になる)を経て、「小泉大塚古墳」「六道山古墳」へ。

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小白水

どちらの古墳も元は前方後円墳でしたが、前方部分が削平され円墳の様に見えます。また最近樹木が完全に伐採され丸裸の状態。今後の成り行きが気になります。

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小泉大塚古墳

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六道山古墳

全員での本日のコースはここまで慈光院下で解散。希望者で慈光院を参拝し、お庭を眺めながら抹茶をいただきました。

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慈光院

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慈光院の梅
posted by 奈良まほろばソムリエ at 20:05| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする