2011年09月27日

葛城王朝について

前回に続いて古事記・日本書紀の2回目です
舞台は奈良盆地西南の葛城金剛山麓で、古代にこの葛城地方一帯に繰り広げられたであろう日本最初の王朝・葛城王朝について考えてみたいと思います。
この葛城王朝(おそらく3Cの後半まで)は大和王権の発祥の地とされている奈良盆地東南の三輪山麓にあった三輪王朝(4C初頭に成立か?)より以前に成立したというある種フィクションであるかもしれませんが、何らかの意図があってその時代の天皇の系譜が記紀に記されているわけですからそのロマンを追ってみたいと思います。
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白雲たなびく葛城山

記紀では神武天皇崩御の後、第2代綏靖天皇以下第9代の開花天皇までの事績についてあまり詳しく記されていません。したがってこの8人の天皇の実在を怪しむ意見が多く、この間を「欠史8代」とする考え方が有力です。特に戦前の皇国史観への反動からか、第10代の崇神天皇から或いは第15代応神天皇からが実在が確かであるとする意見が多数を占めています。また昭和57年に発行された高校生向けの日本史教科書でも初代天皇は応神天皇としています。
しかしながら単純に考えても崇神天皇や応神天皇は突然現れたのではなく、欠史8代の最後の天皇である開化天皇の息子が崇神天皇であることから、開化天皇は実在しなければつじつまが合いません。
記紀では天皇の系譜を初代神武天皇から途切れることなくたどっていますので8人の天皇が居なかったとすれば現在の平成天皇は125代ではなく116代となり天皇の代位を変えなければなりません。
このことはさておきこの8代の天皇の実在の可能性を追うことにより葛城王朝の実在に迫りたいと思います。
天皇の伝承地
まずこれらの天皇の皇居伝承地と陵墓は次の通りです

   天皇名   皇居(宮殿)所在地      陵墓と所在地
2代 綏靖天皇 葛城高岡宮   御所市    倭桃花鳥田上陵   橿原市
3代 安寧天皇 片塩浮孔宮   高田市    畝傍山南御陰井上陵 橿原市
4代 イ徳天皇 軽曲狭宮    橿原市    畝傍山南繊沙上陵  橿原市
5代 孝昭天皇 腋上池心宮   御所市    腋上博多山上陵   御所市
6代 孝安天皇 室秋津島宮   御所市    玉手山上陵     御所市
7代 孝霊天皇 黒田蘆戸宮   田原本町   片丘上馬坂陵    高田市
8代 孝元天皇 軽境原宮    橿原市    剣池嶋上陵     橿原市
9代 開化天皇 春日率川宮   奈良市    春日率川坂本陵   奈良市

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綏靖天皇 葛城高岡の宮跡

各天皇の皇居跡は今も伝承地として残り、各天皇の陵墓もあるわけです。ということはそこには伝承の根拠となるものがあり、天皇の実在をうかがわせるものと考えます。
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孝安天皇 室秋津島宮跡 後方に宮山古墳がある

上の表からもわかるとおりこれらの天皇の皇居の伝承地と陵墓がこの葛城周辺に集中して残っているのは単なる偶然ではないと思われます。
高岡の宮は御所市森脇(一言主神社北)にあり、池心宮は御所市池内 室秋津島宮は御所市室でいずれも御所市内にその伝承地があり葛城山麓です。それ以外も御所市に隣接する大和高田市や橿原市に伝承地がある。なお一般的には葛城の地は金剛・葛城の山々の東麓地方で、現在の御所市、大和高田市、葛城市および橿原市の西部で奈良盆地の西南辺の南北17キロに及ぶ地域です。

直木幸次郎氏はその著「奈良」の<古墳と豪族・天皇家との婚姻伝説>の中で次のように述べています。
即ち、葛城の地方には元来事代主神の信仰が強く葛城の山並みはその神々の本居(うぶすな)として尊ばれ仰がれていた。このような信仰や伝承を通じてみても葛城の地方が他とは違った一つの地域をなしていたことが伺われる。
また、神武天皇の皇后の出自であるが、古事記では皇后のヒメタタライスケヨリヒメは三輪の大物主神の娘としているが、日本書紀では事代主神(大国主命の子)の娘のヒメタタライスズヒメとしている。すなわち神武の皇后の父は事代主神で葛城を本居としているから、古代の天皇家にとって葛城地方が重要な地域であったと思われる。また第2代綏靖天皇の皇后も事代主神の娘でイスズヨリヒメ。第3代安寧天皇の皇后は鴨王の娘でヌナソコナカツヒメ(鴨王は事代主神の息子で、葛城のもっとも古い豪族)でやはり事代主の系統である ただしこうした系譜が歴史的事実であるという確証はないともされています。
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直木孝次郎 著 「奈良」古代史への旅

葛城王朝論
ここで宗教民俗学者で大阪教育大学教授であった「鳥越憲三郎博士」の葛城王朝実在論を取り上げます。
この葛城王朝実在論は昭和54年5月に朝日新聞社から発刊された「神々と天皇の間」(大和朝廷成立の前夜)で詳しく述べられています。
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鳥越憲三郎 著 「神々と天皇の間」 大和朝廷成立の前夜

そのあらすじは、第10代崇神天皇に始まる大和朝廷つまり三輪王朝より前にこれに先行する王朝が葛城山と大和平野の西南部に存在したのではないかという仮説であります。
まず、古事記日本書紀という文献自体が、受け継がれた伝承を文献化したものと考えられるので、これを全くの作り話として抹殺することは科学に名を借りた独断であるとされています。
そこで伝承を活用して大和朝廷成立の前夜を解明しようとされました。
まず第一に、記紀での神武天皇と崇神天皇の二人の別名ハツクニシラススメラノミコト(初めて天下を治める天皇の意)の存在を認め大和の中に葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在を想定しました。
すなわち神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝に始祖とし三輪王朝に先行して葛城王朝が存在したとしました。
神武から開化に至る9代の天皇の皇居と陵墓は大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中していて、崇神に始まる大和朝廷初期(三輪王朝)の皇居と陵墓が平野の東南部にあったのとは対照的な関係を持つという。
当然これらの皇居や陵墓は実際の物という保証はないがその伝承記録は何らかの真実の根拠に拠ったものと考えるとされています。
次に葛城山麓には古い神社がずらりと並んでいる。
延喜式で格付けされる名神大社で勅使がお詣りになる最高位の神社が5社もある。
火雷神社、一言主神社、鴨都波神社、天彦神社、高鴨神社、大歳神社であり、これに匹敵する平野東南部では大神神社、穴師神社、大国魂神社、石上神社、の4社しかない。
葛城山麓と三輪山麓、大和の中で東と西に隔たった二つの山麓にだけ最高の社格を持った古い神社が集中している。この神社の配置から見ても東西二つの地域が古代の文化と政治の中心となっていたことが分かる。古代においては神社と部族の関係は密接であり、神々を中心として部族が構成されていた。したがって古い由緒ある神社の所はその神を奉斎していた部族の居住地であったと見てよいとされています。
以上が鳥越博士の葛城王朝実在論のあらすじです。氏の著書ではまだまだ書ききれない詳細な論旨がたくさんあります。
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鴨都波神社
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一言主神社
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大歳神社

葛城の豪族 
葛城地方の古代豪族は鴨氏と葛城氏それに尾張氏であるが葛城氏の後裔には巨勢氏や平群・蘇我氏などがあります。
鴨氏は葛城山麓の高天原に居たが弥生中期頃に平坦地に降りて水稲農耕を営み、田の神である事代主神を祀った。これが高鴨神社や鴨都波神社であり、一般的には鴨社と呼ぶ。ちなみに鴨族は神武天皇東征の案内をしたヤタガラス(鴨建津身命)の子孫であり、鴨王の系統が神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となりました。なお鴨都波神社を中心とした地域には弥生時代の大規模集落遺跡が広がっています。
葛城氏は金剛山の中腹が元の居住地で経済軍事力に優れ、頭角を現した集団が葛城族を名乗ったのではないかとされています。古墳時代以降葛城地方に本拠を置いていた有力な在地豪族で、葛城族の本家は葛城襲津彦です。襲津彦はまた武内宿禰の後裔であるともいわれ、4世紀には実在した人物で神宮皇后の将軍として新羅討伐に朝鮮半島へ派遣されたことが記録に残っています。
襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となり、履中、反正、允恭天皇を生みその後も皇室との婚姻関係を持つなど密接な関係にあったが、雄略天皇により滅ぼされたとされています。
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宮山古墳

なお襲津彦の墳墓は葛城地方最大の宮山古墳とされ、この古墳の北方にある秋津島遺跡からは2010年に古墳時代の祭祀の場とみられる施設跡が「囲型埴輪」と共に出土し葛城氏につながる施設とみられています。
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秋津島遺跡発掘調査現場 2010年1月
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囲形埴輪(心合寺山古墳出土物)塀の巡らせ方などが秋津島遺跡の物と酷似している

司馬遼太郎氏は「街道を行く」の葛城道のなかで「この葛城山麓で古代に栄えた王朝ー葛城国家と言っていいーが、その後大和盆地で成立する天皇家より当然古いという印象は、あくまで印象だが、どの古代史家も否定できないであろう」と述べておられます。

葛城王朝実在の可能性について歴史家の主張を採り入れ考えてきましたが、要するに記紀の記述は全くの作り話ではなく古代からの伝承と何らかの事実を今の私たちに伝えようとして著したのではないでしょうか。
物的事実に乏しいものを否定するのは易しいが、これを事実として肯定するのは至って困難であるということです。ただ最近の考古発掘の成果はこの事実をゆっくりと補ってくれるように思えます。
先週 彼岸の中日にこの葛城山の麓に点在する史跡社寺を再びめぐりました。彼岸花が咲き乱れる中、今も古代とさほど変わらない姿の金剛葛城山を仰ぎ、広大な山すそを眺めますとここで栄えた古代葛城王朝の実在がなんとなく実感できました。

奈良まほろばソムリエ友の会 小北博孝


posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:51| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月19日

ホームページについて

いまホームページでは、会員向けと、一般向けに分けています。

でも実際、パスワードをつけていないので、あんまり意味はありません。

要するにどちらも、誰でも見れます。

それに対して個人情報保護の立場から、会員向けにパスワードを設定すべきという意見が寄せられています。

パスワードを作ること自体は問題ないのですが、それを知らせる方法が少し面倒です。

ホームページを見る人はアドレスを持っている人だけだから、アドレスを持っている人だけにメールで知らせたら良いという意見です。

それでも100人以上になります。正直かなりの手間です。

問題はそれ以上に、来年新たにソムリエが恐らく70人ぐらい誕生します。

今年友の会に入っていただいた方で来年は継続しないという人も当然いらっしゃるでしょう。

ということで、毎年パスワードを変えて、連絡する必要が出てきます。

今月の役員会で議題には載せますが、もし会員の方で意見があれば、是非このブログにお寄せください。
posted by 奈良まほろばソムリエ at 10:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月16日

大和の尼寺 三門跡寺院の美と文化展

9月21日から10月3日まで、難波の大阪タカシマヤ グランドホールにて、「大和の尼寺 三門跡寺院の美と文化展」が開催されます。→入場割引券
大阪に先立って開催された横浜会場に行ってまいりました。

奈良検定を受けるときに必ず覚える「三門跡尼寺」の法華寺、中宮寺、円照寺。
三寺院の法具や荘厳具の他、寺院に入った皇女の生活を垣間見る遊び道具などが展示され、門跡尼寺らしい繊細な美しさを存分に鑑賞しました。
展示されているのは時代的には比較的新しいものが多いですが、それがかえって今に伝わる寺の伝統を感じさせてくれます。

法華寺の荘厳具は、さすが光明皇后の寺らしく、正倉院御物の復刻のような豪華さです。
中宮寺からは聖徳太子像や弥勒菩薩の脇に控える阿弥陀如来像も。
江戸時代の小袖裂幡の上品な美しさも印象に残ります。
円照寺の文智女王の頂相と、その頂相で実際に身につけている袈裟などの展示はなかなかの迫力。
その御作という春日神鹿厨子なども必見です。
皇女の遊び道具の中にあった明治時代の人生ゲームのようなすごろく。
その内容は意外にもかなり世俗的で、時代の価値観をあらわすようで面白いです。

展示の他に映像作家メアリー・ルシューさんによる「尼門跡寺院(二寺空間)」という映像の部屋がありました。
真ん中の大きなスクリーンには法華寺の蓮、中宮寺の表御殿の内部が美しく映し出され、左右のモニターには法華寺の雛会式や中宮寺の花まつり(誕生釈迦仏などは実際展示されています)の様子などがそれぞれ違う角度から映し出されます。30分間たっぷりと楽しむことができました。

特に円照寺は拝観できないので、テキストで読んで覚えたのみでしたが、この展示で親しみを感じることができました。
普段はなかなか味わえない門跡尼寺の華やかな中にも静謐な空気を感じてみてはいかがでしょうか。

AYU
posted by 奈良まほろばソムリエ at 17:51| Comment(0) | 他国便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

先月広報部員になりました兵庫県民”まりも”です。

奈良在住期間よりも兵庫在住期間の方が長くなってしまいました(;_;)
ー奈良に帰って毎日奈良の野山をかけめぐるーのが夢です。

広報部の活動を通じて、情報交換がしやすい環境をつくりたいと願い、先月部員に志願しました。

奈良の生家でしていることを外からの視点で眺めると興味深いことが多々あります。
まずは”蛇”と”百足(ムカデ)”について。

家の者は決してしませんが、飼い犬が蛇を殺めてしまったりしたらそれはもう大事です、すぐに三輪さんに”おあやまり”に参ります。
三輪さん信仰は非常に強く、その神の使いですから「巳さん(みぃさん)」と呼び、「今そこにみぃさん、いてはった」といったような敬語を使います。
曾祖母は若いころ兄の病気平癒を祈念し、三輪さんで水行をした折、白い巳さんが滝を上がっていくのを見、その日を境に病気は快方に向かったという話を何度も聞かされました。三輪さんは聖地ですから、お参りするときは「清めの塩持った?ゴミすてたらあかんよ。手洗いも境内では行かへんほうがいい」と細かい指示がでます。

ムカデの扱いも興味深いです。うっかりムカデを退治してしまったりしたら、今度は信貴山へ”おあやまり”に参ります。
ムカデは毘沙門天の使いだということで、信貴山の本堂の扁額にも左右に長い巨大なムカデが描かれていますよね。
私はこの毘沙門天とムカデの関係がよくわからないのです。一説にはお金のことを”お足”というのでムカデはそのお足が多いので財宝神の毘沙門天の眷属になったと説明されますが、どうもピンときません。毘沙門天はその風貌からも日本では武神としての性格が強いように思い、その場合ムカデの”後退しない”ところが勇ましくて眷属になったのでしょうか?和銅発見の秩父の聖明神社に元明天皇がムカデの像を奉納されていることとは関連あるのでしょうか?

・・・と当ブログがこのような疑問にお答え、ご意見いただける場になればいいな、と思っています。
”comment”をクリックして、”コメントを書く”のところに お名前・メールアドレスをお書きになっていただいて、コメントを書き込んでください。
別に正解でなくていいのです、「こんなことを聞いたよ」とか「こんな疑問もある」など気軽に投稿していただけるといいと思います。
また別個にブログ記事を作成していただくこともできます、その場合はトップページの E-mail に書いて送信してください。

奈良が日本の中心であった時代のことは私のような素人でも勝手な想像を許される余地があり、それが奈良学の楽しさだと思います。
是非いろんな謎解きをみんなでしていきませんか?




posted by 奈良まほろばソムリエ at 17:06| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月12日

第6回奈良まほろばソムリエ検定試験

第6回奈良まほろばソムリエ検定試験の期日が発表されている。

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「奈良ファンや奈良に精通している方々を認定するための検定です。
価値ある観光資源を持つ奈良をより多くの人に理解していただく一方、奈良を訪れる皆さんに、そのすばらしさを伝えることができる人材の育成を目指」すとし、平成24年1月8日(日)に試験を実施する。

二級、一級、ソムリエの試験がある。
二級と一級はマークシート択一式の100問。
ソムリエはマークシート択一式が30問、200字の小論文2問、400字の小論文1問が出題される。
従来は択一式で60点、小論文で40点の採点がされてきている。
200字問題は「奈良県の歴史や文化について、専門的な知識」を求め、
400字問題は、与えられた地点を含む見学コースを設定するという、その意味では奈良大和路の語り部としての能力が問われる問題である。

受験の力となる各級の認定支援セミナーも11月に計画されている。
ソムリエ試験対策は、小論文問題の書き方のポイントを来村多加史阪南大学教授が、出題地の考え方は高橋誠一関西大学教授が語る。

講師の話をどう受け止めるかも、一つの力であるから、「聞いたら合格」とはいかないが、受験の重要なヒントがあることは間違いない。
それだけでなく、奈良の地形や歴史をより深く理解する絶好のチャンスでもある。
ガイドをしたりする上での考え方も振り返り反省させてくれる。

僕もこのセミナー、もう一度受けてもいいかなと考えている。
合格者でも受けてもいいよね。

奈良まほろば検定試験。主催は奈良商工会議所である。

by koza
posted by 奈良まほろばソムリエ at 19:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする