2012年06月28日

下総国府・国分寺跡と真間の万葉旧跡めぐり

6月24日(日)、梅雨の晴間のさわやかな一日を、新メンバーも加えた関東メンバーで、奈良を感じるツアーの第3回、下総の国の国府や国分寺があった市川周辺を散策しました。

東京から行くと、県境の江戸川を渡り千葉県に入ってすぐ。JR市川駅を9時半に出発。まずバスを降りた停留所もその町の名も「国分」。坂道を5分ほど登って台地の上に上がると、住宅の中に「下総国分寺跡」があります。現在も真言宗の「国分寺」という寺院です。

nanndimonn.jpg 国分寺山門
南大門が1/4の大きさ(多分面積)で復元されています。「金光明四天王護国之寺」の扁額も飾られています。

kinen.jpg 本堂をバックに集合写真
現在の本堂は、当時の金堂の上にあるのだそうで、礎石が庭に並べられています。法隆寺式伽藍で、本堂裏の墓地が講堂跡、高さ推定60mの七重塔跡は本堂の左のほうに位置を示す碑のみが立っています。

housougemon.jpg 出土瓦から復元された軒丸瓦
下総国分寺で特徴的なのは、使われた瓦の「宝相華文」。新羅系ともいわれ、復元門はもちろん、本堂にもこの瓦が使われていました。

気持ちのいい台地の上の住宅地を数分歩くと「下総国分尼寺跡」。以前「昔堂」と呼ばれた土地で、金堂、講堂跡は公園になっています。
金堂跡。往時は向こうに国分寺の七重塔が見えていたはずです。
niji.jpg 国分尼寺金堂跡

「国分」の台地を下り、谷を挟んでまた坂を上ると、そこは「国府台(こうのだい)」。
現在スポーツセンターや大学の敷地になっている一帯が国府域で、古代東海道も通っていました。「下総総社跡」の表示だけがここに国府があったことを偲ばせます。
souja.jpg 国府跡(下総総社跡の碑)

この台地には、国府だけでなく、それに先行する勢力だった豪族の古墳も点在します。
大学構内の「法皇塚古墳」を見学しました。6世紀後半の前方後円墳です。
hououzuduka.jpg 法皇塚古墳
犬の散歩にいらした地元に長年住む方に、お話を聞いています。

近くの「里見公園」で、買ってきたお弁当を広げ、その後、戦国時代の城跡である公園内を散策します。土塁の一部となった古墳やその石棺などもあります。

satomikouenn.jpg 里見公園から西方を望む
公園から江戸川の向こうの東京の下町が一望できます。もちろん話題のスカイツリーも。その向こうに富士山が見えることもあるそうです。

「木内ギャラリー」という明治期の洋館を見学したあと、地元の方が「真間山」と呼んで親しむ弘法寺へ。中世以降は日蓮宗寺院になっていますが、寺伝では「行基建立」。すぐ裏が国府跡の遺構がある大学ですから、国府に関連する古代寺院だったかもしれません。
guhouji.jpg 弘法寺仁王門

弘法寺の急な階段を降りると、そこがかつては入り江がはいりこんでいたという万葉の故地「勝鹿の真間」です。この地に複数の男性から言い寄られて自ら命を絶った「手児名」という美女がいた。そのことが山部赤人や高橋虫麻呂がこの地を訪れたときには、すでに伝説になっていたというのです。
勝鹿の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ(万葉集巻3-433)
という赤人の歌に代表される「真間」の歌が数首あります。文亀元年(1501)に建立された「手児奈霊堂」のほか、手児名が水を汲んでいた井戸、なんてものもあって、永い時を越えてきた伝説を今に伝えています。

tugihasi.jpg 真間の継橋
足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ(万葉集巻14-3387)
の歌に詠まれた「継橋」が霊堂近くに再建されています。下に川は流れていないのですが。

tennbou.jpg I-linkタウン展望デッキより
最後に、市川駅近くの展望台へ登り、45階の空から総復習。江戸川と国府台台地、その手前が真間の町です。東京の隣の町を歩いた、盛りだくさんの一日でした。

AYU
posted by 奈良まほろばソムリエ at 13:17| Comment(0) | 他国便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月18日

女たちの守る寺A―「多武峰街道に隠れ古寺を訪ね、丁石道を歩く」

開催日 平成24年5月17日(木)

 9時過ぎに参加者15名全員が桜井駅南口に集合。9時25分発談山神社行きのバスを乗り過ごすと次は10時50分になるのでバス利用の行事では時間厳守はありがたい。乗車時刻までの時間に、今回案内をお願いした地元桜井市でボランティアガイドをされている仲間のSさんと初参加の2名の方の紹介をさせていただいた。
 バスの乗客は、私たち15名のほかは「赤鳥居」で下車された3名という少なさに、地元行政からの支援でなんとか維持運営されているコミュニティバスの実態を目の当たりにする。下居(おりい)までは乗車時間13分。バスは空で談山神社に走り去る。  
 バス道の県道から音羽山への分岐には、平成に制作された十一面千手観音像がはめ込まれた道標が立っている。ここからSさんを先頭に寺川を渡り一路観音寺を目指す。
otowa01.jpg 石仏はめ込み道標

 寺川を渡ればすぐに上り道に入る。この辺は、かつてはウワミズザクラで小鼓胴をつくる人が多かったために「鼓の里」と呼ばれたが、ウワミズザクラの白い花穂を見ることはなかった。新緑のなかの赤紫の平戸ツツジや白色のオオデマリの花が目に鮮やかに映る。バスを降りてすぐの上りで息が上がるが、道端に立てられている楽しい標識に元気をいただく。これは地元の女性の作品とのこと。
otowa02.jpg ユーモアあふれる標識

 15分ほど歩くと百市と観音寺の分岐にあたる。ここに駐車場があり、既に10台ほどの車が止まっている。ここから先、参詣者は誰でも歩かねばならないので、数十本の杖が用意されている。ここは少し広い場所があり、Sさんが録音してこられたラジオ体操の音楽に合わせて準備体操をして体をほぐす。こうして複数の仲間と音楽に合わせてラジオ体操をするのは小学校の夏休み以来か、音楽の効用で徐々に楽しい気分が盛り上がってくる。
otowa03.jpg ラジオ体操

 全員が杖を片手に分岐点から左側の急坂を登る。観音寺まで17の笠灯籠形式の丁石についてSさんから解説をいただくが、段々息が上がって説明を聞くどころではなくなってくる。覚えているのは、「この丁石には、寄進者は田原本の十六面屋と彫られているが、田原本は国中の水運の中心であった。賤ヶ岳七本槍の一人平野長泰が田原本村を拝領したが、平野氏は米の石高の他に水運の運上金収入があって豊かだった…」ぐらいだ。あとは下を向いて1kmをただただ人の後ろに付いて登るのみ。道は傾斜がきついがモルタル舗装された一本道で迷うことはない。かつてはまず音羽山にお参りしてから多武峰に参ったようで、音羽山参詣道から右手の谷川へ降りて多武峰へ登る分岐道が通じていたという。ゆっくりと登ったので山門と天を突くお葉つき銀杏が見えてきたのは11時前であった。既に観音縁日の法話は終わったらしく、20名ほどの信者さんと住職さんが楽しげに会話を交わしておられる。

 神仏混淆の名残りか門をくぐった右側に石の手水があり、それを4体の力士が支えている。石の力士像は、野見宿禰の五輪塔のある初瀬谷出雲地区の「十二柱神社」の狛犬台座とここでしか見られないものだ。境内には九輪草が咲き乱れ、少し時季は過ぎたがシャクナゲの花も見ることができた。
otowa04.jpg 九輪草

otowa05.jpg シャクナゲとお葉つき銀杏

 ご住職は「ご一緒に般若心経をあげましょう」と全員に般若心経を1枚紙に刷ったものを配って下さる。全員で般若心経をあげた後、ご住職から寺の由来をお聞きする。貞観年間の「音羽流れ」という山津浪で殆どのものが痕も残さず流されたので詳しいことは分からないが、「香法寺」や「興法寺」と書かれた文書もあり、「善法寺」とも呼ばれるという。宗旨も多武峰妙楽寺と同じ天台宗から法相宗、真言宗、無住の時代と変遷をしてきたという。現在は融通念仏宗のお寺なのに般若心経や十一面観音の真言を唱えられる理由が飲み込めた。

 当寺は檀家寺ではなく、信者寺で談山神社からの支援と地元の方々のご奉仕と遠くの信者によって維持されているとのこと。丁石や町石も「チョウいし」と重箱読みするということも教えていただいた。ご住職はこの寺に入られて24年という。若々しい笑顔と明るいお話に皆はすっかり魅了される。本堂の階に置かれた人形とご住職を撮影させていただく。この人形も参詣道に置かれた標識も同じ女性の作品という。芯がペットボトルで軽く出来ている。優れものだ。
otowa06.jpg ご住職と住職人形
 
 私たちは弁当を持参していたが、17日の観音縁日には「お接待」があるということで、庫裡の食堂に案内される。庫裡の玄関には、山道を歩いて信書を配達される郵便屋さんに宛てた「ありがとうございます」という感謝の言葉と御礼のジュースの缶が置かれている。ここには女性らしい細やかで優しい心遣いが溢れている。広い食堂の机には、信者の方が用意された味噌汁や山菜の料理が溢れんばかりに並んでいる。「山の水で炊いたご飯は美味しいですよ」との誘いで一口いただくと至福の味、全員が一膳をいただくことになる。さらに食後にはコーヒーが出る。これも水の違いが大きいのだろう、一味違う。眼病に霊験あらたかなのは水にホウ酸成分が含まれているからということだが、これが味にも効いているのだろうか。毎月17日の観音縁日にはこのような無償のお接待をされているのだという。急坂を登っての信者さんによる用意の大変さを思い頭が下がる。

 談山神社発桜井駅行きのバスは11時26分の次は13時26分。これに乗るために名残は尽きないが12時半にはお暇せねばならない。ご住職と尼僧さんは、私たちの姿が見えなくなるまで山門で見送って下さる。「この山道は厳しいが、庵主さんに逢うためにまた来たい」との声が女性参加者から漏れ聞こえてくる。お二人のさわやかな魅力は、冬にはマイナス8度を越えるこの厳しい山の中の精進から生まれてくるのだろう。お二人の元気な笑顔からいただいた「気」と美味しい料理とコーヒーに大満足の一行の帰路の足取りは軽く、あっという間にバス停に着く。
otowa07.jpg お二人のお見送り

 下居から聖林寺までバス停四つだが、交通量の多い県道を避けてバスに乗る。乗車時間五分、ほかの乗客は無く貸切バスだ。聖林寺は希望者だけの自由参拝。当寺は天台系の多武峰との関係が深いのに大神神社の神宮寺(平等寺、大御輪寺)との結びつきが強く真言宗であるのが面白い。参拝の方が戻られるまで、ごぼう積み石垣上部の「七つ石の出っ張り」について甲論乙駁。ガイドブックに出ていないことについて、あれこれ意見交換できるのがこういう会の良さである。

 聖林寺から北に向かうと寺川の南には「法華塔」、さらに下ると右側に笑っておられるような表情の「右片手拝み釈迦石仏」(宝永7年-1710 Sリーダ調べ)、かつては談山神社までの区間52基あったという板碑型町石が目に入る。町石の文字はほとんど判読できない。巨大な談山神社一の鳥居であるが、西端は隣接する家屋火災の影響で一部が落下している。ここから西にゆけば「メスリ山古墳」、東にゆけば露出した阿蘇ピンク石石棺を見ることができる「カブト塚古墳」だが今回は見学を割愛、等彌神社へ急ぐ。
 等彌神社着は午後3時、案内をいただいたSさんにお礼を申し上げてここで一旦は解散とする。
otowa08.jpg 聖林寺門前での集合写真

 希望者10名は鳥見山に登る。片道20分の緩やかな上りだが次第に音羽山の影響を脚に感じてくる。ここのお目当ては山頂の神武天皇による「霊畤」(天皇即位後、初の大嘗会が執り行われた“まつりのにわ”―建国の聖地)とイワレビコ(後の神武天皇)より先に高天原からニギハヤヒが降臨したという「白庭」の石碑だ。当社の所在地は外山(とびやま)、バス停は「神の森」。まさしく『記紀』の世界であり、ヤマト朝廷建国期の呉越同舟の地である。
 同じ山道を等彌神社まで戻る。神武聖蹟碑にあわせて整備された道を西に向い、桜井市立図書館前の「珪化木化石」を見て寺川に沿って駅を目指す。寺川中洲の迂回水路と堰について、「水車を利用した三輪素麺の家内工場か」など意見を交わしながら歩くこと15分、駅に到着したのは4時20分であった。

                            文責 藤村清彦
posted by 奈良まほろばソムリエ at 12:44| Comment(0) | 交流G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月17日

産経新聞奈良版「観光と文化振興へNPO目指す」

奈良まほろばソムリエ友の会事務局長の鉄田でございます。6/14付の産経新聞奈良版「大和ひと点描」に取り上げていただき、また小北会長から会員の皆さんにメールでお知らせいただき、恐縮しております。私は会長に、うっかり高圧縮のJPEGデータを送ってしまい、会員の方から「ちゃんと読めない」というお声をいただきましたので、記事全文を打ち込むことにいたしました。

NPO法人化に向けて進んでいこうという時期に、こういう形で新聞に紹介していただき、大変有り難く思っています。記事を読まれた方から「それなら、ソムリエに観光案内や講演を頼んでみよう」という声が上がることも考えられますし、これを機にソムリエ資格取得をめざす方が増えるかも知れません。NPO化の暁には、奈良の観光と文化の振興をめざす「社会貢献事業」に、鋭意取り組んでまいりたいと思います。以下、新聞からの引用(全文)です。

産経新聞-2.jpg

「観光と文化振興へNPO目指す」
奈良まほろばソムリエ友の会事務局長 鉄田憲男さん(58)

「tetsudaブログ『日々ほぼ好日』」というインターネットブログをご存じだろうか。奈良のイベントや観光スポット、グルメの話題などが盛りだくさん。記事は毎日追加され、1日1800人が閲覧し、推定5千人がブックマークしている人気サイトだ。ブログで根強い人気があるのは、飲食店や奈良の食文化にもふれるグルメの話題だ。飲食店の紹介は「本当においしい店だけを載せています」という。

勤務先の同僚や知人などからの口コミや、散策中に見つけた店に足を運び、料理の写真を撮って店主にも取材。内容は詳しく、大げさではなく抑制された文章が食欲をそそる。このブログに掲載されたことがきっかけで繁盛した店もあり、取材依頼が舞い込むこともあるそうだ。「『よくネタが続くなあ』といわれるんですが、ネタがあり過ぎて書く時間がないんですよ」

関ヶ原の戦いで西軍にいた真田幸村が大坂冬の陣・夏の陣に出陣するまで隠棲していた和歌山県九度山町出身。真田幸村や高野山が身近にあった関係で郷土の歴史に親しんだ。大阪大経済学部と早大文学部を卒業し、昭和53年に南都銀行に入行した。現在は総合企画部副参事。これまで主に広報を担当し、10年以上前からボランティア団体やまちづくりグループと関わるようになった。「県などの指定金融機関ということもあって、県や市町村と密接な関わりがある。地域を元気にしたいという考えは、銀行の狙いとも合っている」。インターネットが一般に普及し始めた十数年前から奈良の話題をネット新聞などに投稿し、平成17年11月に現在のブログを誕生させた。

「奈良にうまいものなし」とはかつて文豪が言った言葉に由来するが、「そんなことは思ったことがない」という。「奈良県民は自分たちのことをわざと悪く言うところがある。すばらしいものがたくさんあるのにそれではもったいない。『つまらないものですが』なんて和歌山生まれの私は言わない。『これおいしいですよ』と言いますよ」 そんな奈良の県民性からか、おいしい店は目立たない場所にあり、見つけるのも難しい。「大阪みたいに集中していない。でも、その方が希少価値があって探す楽しみもある」。地元の人が見落としているところにスポットを当てたいのだという。

活動はブログにとどまらない。22年の平城遷都1300年祭を機に南都銀行の退職者に声をかけ「ナント・なら応援団」を発足させた。県内の秘宝・秘仏を特別公開する企画があるが人手が足りない、と聞いたのがきっかけだった。小規模の寺院では解説や誘導などに人員を割く余裕はない。メンバーは大学教授などからの研修を受け、現場に立った。元銀行員なので接客の経験も豊富。親切な対応で観光客や寺院側から好評だったという。

奈良まほろばソムリエ検定のソムリエ合格者でつくる「奈良まほろばソムリエ友の会」のメンバーも約200人に増えた。ツアーガイドやセミナー講師として活躍の場が広がっており、NPO法人化を目指している「ソムリエの豊富な知識を生かし、奈良の観光と文化振興に役立てたい」(中島高幸)

奈良まほろばソムリエ検定  奈良に精通した人を認定するため、奈良商工会議所が平成19年から毎年実施している。奈良通2級、奈良通1級、奈良まほろばソムリエの順で難しい。これまでの「ソムリエ」の合格者は県内外の計272人となっている。
posted by 奈良まほろばソムリエ at 06:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月16日

水間街道 田原の里 〜お茶の始まり・古事記の始まりを旅しょう〜

平成24年6月9日(土) 天候:午前中小雨
 前日からの雨で実施が危ぶまれていたので、朝のNHKで天気予報を確認。降水確率午前50%、午後30%。まずはクリアー。急ぎ集合場所に向かうと、すでに数名待って居られ、その意気込みに負けたかのように、雨も小やみになりました。
前日の雨がたたり、5名欠席でしたが、総勢25名でバスに乗車、田原御陵を目指しました。

 小雨の中、春日宮天皇陵の前で解説を聞き、田園風景が広がる街道沿いを歩き、此瀬町太安麿侶の墓に向かいました。
下からは、見上げるほどの急斜面、その中腹に史跡 太安麿侶の墓の碑が見えます。

 なぜこんな場所を選んだのかと、息も荒く、やっと墓の前にたどり着く。説明を聞き、かの古事記に思いをはせて、ふと振り返ると茶畑の緑が目に飛び込み、自然豊かな田原の里の、この場所に眠る意味がなんとなく解る風景でした。

tahara01.jpg 太安麿侶の墓

tahara02.jpg 光仁天皇陵

光仁天皇陵、殯の森のロケ地から今井堂天満神宮へ。雨もやみ、昼食をとりながらの自己紹介。初めて参加の方も多く、和やかで、寛いだ一時を過ごしました。
午後のメインイベント「遊茶庵で一服のお茶を」と、急ぎ出発です。

tahara03.jpg

 遊茶庵で、冷たいお茶でまずは渇いたのどを潤す。次に出されたお菓子を早速口に。「誰?」すると優しくも厳しい声で、「お濃茶は、お茶が濃いので、先ずお菓子を食べてお茶を飲みますが、今日のお茶は、お茶を味わって頂きたいので、お菓子は後で召し上がって下さい。」ソムリエ失格。レッドカード1枚。

 一服目。慣れぬ手つきで教えられるままに注いで、口に含み、したり顔で肯く、顔 顔 顔。二服目・三服目・四服目とお茶を味わい、最後は残った茶滓にお酢を少しかけて食べて下さい、とのこと。きれいな緑の茶の葉、初めて食した感想は?

tahara04.jpg

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 もう少しお茶談義を聞きたいところ、バスの時間の関係で早々にお暇し、天満神社を素通りして帰路に就きました。希望者は途中下車し白毫寺へ。

 昼食時には雨も上がり、自然豊かな田原の里で、大和茶と古事記の一日でした。

【後記】
 近鉄奈良駅でバスを降り、一寸一休み。5人で喫茶店に入り、コーヒーを一口飲んで、誰が言うともなく、「やっぱりコーヒーの方が気持ちが落ち着くね」(笑う)
 そういえば、遊茶庵の女将さんも話の中で、「実はコーヒー党なの」とポロリ。レッドカードですよ。

                 交流部会・歴史地理サークル 豊田 敏雄
posted by 奈良まほろばソムリエ at 22:48| Comment(0) | 交流G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする