2012年10月28日

茶筅づくりの里に鷹山氏の足跡を訪ねる

        交流部会・奈良再発見サークル
        10月21日(日)実施 参加者20名


秋らしいさわやかな好天にめぐまれました。
今回のコースは、近鉄富雄駅→高山城跡→高山竹林園(茶筅づくり実演見学・お抹茶)→円楽寺墓地→(昼食)→高山八幡宮→長弓寺拝観(ご住職の法話)→解散となりました。

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 高山城祉入口と鈴木リーダーによるコースの説明

鷹山氏・・・
・鷹飼いに由来、鬼退治で有名な清和源氏源頼光を祖とする。
・江戸時代東大寺大仏殿と大仏復興を担った公慶上人(父は、鷹山頼茂)は、この一族、鷹山氏は、松永久秀方に与していたといわれ、その負い目が上人の大仏復興の原動力になったという説もある。
・鷹山氏本流には、代々コブがあり、これを正当性の証拠としたといわれ、公慶上人にもあったという。

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    高山城祉の九頭神社と十三重石塔

九頭神社と十三重石塔
・由来は、不明
・十二重目以上が風か地震の力を受けて45度回転しています。コンクリートで修復されていますから、倒壊はしないでしょう?

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         高山竹林園

・茶筅は、15世紀半ばに鷹山氏城主の二男宗砌[そうぜい]が茶の湯の道具としたのが始まり。
・称名寺の村田珠光が宗砌が献上した茶筅を後土御門天皇の天覧に浴したところ「高穂」の銘を賜ったところから茶筅つくりが始まったとされる。「高穂」が次第に有名になり、これにちなんで鷹山から高山に姓を改めたとも・・・

takayama05.jpg 茶筅づくりの実演

ご夫婦で実演されていました。
これが「一子相伝」ですか?・・「昔は長男だけに引き継いだんですが・・」後継者不足そして育成もしなけばならないのが現実だそうです。
海外製は、長持ちしないとのことです。また、その海外製は、竹の加工時に薬品を使い、アク抜きをしているとのこと。←要注意

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         まさしく「匠」の技です。
                  
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 作成の工程が展示されていました

☆☆☆高山竹林館☆☆☆
☆ 休館日・・・年末年始12月27日から1月5日
☆ 茶筅実演・・第1日曜日と第3日曜日、10時と13時
☆ 抹茶コーナー・・土曜12時から16時
☆         日曜・祝日10時から16時 ☆☆☆☆☆

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高山八幡宮参拝
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 「子供みこし」の楽しさに思わず、シャッターを押してしまいました

・この日、10月の第三日曜日の例大祭でした。「惣」の先駆をなす宮座によって執り行われるそうです。

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 この日の参加メンバーの写真です。みなさん秋を満喫しています

高山八幡宮・・・
・天平勝宝元年[749年]宇佐八幡大神を手向山八幡に迎える途中、この地で仮宮(頓宮)とそれたのが起源。
・嘉永4年(1851年)の棟札には、11座の名前がみられる。西座、中谷座、池田座、大北座、新座の5座と東座、榊座、大東座、宮方座、芝座、茶筅座(無人足座)・新座の6座、現在では、7座が継承されている。
※無人足座とは、鷹山氏の家臣の末裔で、茶筅師となった・・。鷹山氏の名誉ため、現在では、4/12の公慶上人忌には、代表参列、聖武天皇祭のお練りには、僧兵役として役割を担っておられます。

takayama13.jpg 長弓寺拝観

長弓寺・・・真言律宗。本尊十一面観音像(平安後期、重文)、聖武天皇の勅願により僧「行基」が開創したと伝わる。弘安2年(1279年)に建てられた入母屋造り檜皮葺の本堂は、国宝。

 ご住職のご講話をいただき、本尊は光なしで、拝観させていただきました。ちょっとお得?でした。

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脱落者なく解散です。

 この後、「真弓塚」へ行かれた方も・・・
※富雄の豪族真弓長弓が子の長麻呂を連れて聖武天皇の鳥狩に従い、鳥を追い出していたところ、長麻呂の矢にあたり、命を落とした。天皇はその悲運を聞き行基に命じてこの寺を建立させたという伝承があります。

 この近くに「真弓塚」があります。住宅街の山の上にあるとのこと。表示が全くないのが残念。

 今回で「お茶シリーズ」は終了ですが、4/11今井町に今井宗久を求め、4/18大和茶発祥の地佛隆寺に弘法大師の茶臼を確認、6/9お茶の里田原を訪ね、今回10/21茶筅の里高山を訪ねました。
 あと村田珠光の称名寺は心残りですが、来年1月頃、西大寺大茶盛で締めくくりの予定です。

      写真と文・・小林俊夫
       ※解説は当日配布資料から参照させていただきました。

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2012年10月26日

関東の国府・国分寺を訪ねる<下野編>

 関東国分寺めぐりも四回目となる今回は、10月13日(土)、栃木県南部の下野を訪ねた。地名の元となった毛野(ケヌ)氏の支配下にあった下野は、国府・国分寺・尼寺に加え三戒壇と道鏡の配流で知られる下野薬師寺が近くにある。しかし、歩くには遠くバス便もないので、自家用車2台の乗り合いで周ることになった。
 10:10栃木駅に総勢11名(内ソムリエ8人)が集合。まず下野国庁跡を目指した。

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     前殿が復元された下野国庁跡

 下野国庁跡は、思川沿いに広がる田畑の中に忽然と現れた。平安時代の「和名類聚抄」の「国府在都賀郡」記述から、4年間の地道な調査の結果、1979年8月に国庁跡と確定したというから新しい発見といえる。今は、「前殿(ぜんでん)」が復元されているほか、東西の「脇殿」を示すコンクリートの藤棚も作られている。

 「前殿」の柱は、手斧や槍鉋を使って削られ丹塗り、連子窓は緑青塗り、屋根は簡素な組み物ながら鬼瓦・軒の丸瓦・平瓦とも発掘品を元に丁寧に復元されている。「前殿」の後ろには本来「正殿」が配置されているらしいが、今は神社があり未発掘だそうだが、もし発見できれば、しっかり形の整った国庁が復元されるのではないか。 隣接する「下野国庁跡資料館」では、瓦など出土品と復元模型が展示されていた。

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     下野国分尼寺中門跡から金堂基壇を見る

 栃木市から思川を渡って下野市に入ると、姿川と挟まれた微高地に谷を挟んで東西に国分寺跡と尼寺跡が配されている。きめ細かく肥沃な黒土の台地に二寺跡がある。

 尼寺跡の脇の林の中に静かに佇む「しもつけ風土記の丘資料館」の谷中さんに二つの寺跡を案内してもらった。尼寺は南大門、中門、金堂、講堂と南北に一直線に配置されていたのだが、今は中門と金堂の礎石が確認されている。ただ中門基壇は、後年大きく削り取られ、正確な高さは不明との事。基壇の縁石も柱礎石も栃木県産の大谷石が使われていたのにはびっくりしたが、当時も大谷石が使われていたそうだ。

 尼寺跡の周りは形のきれいな「薄墨桜」の古木で囲まれ、谷中さんによると花の咲く三月末頃は見事で人気のスポットだという。

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     下野国分寺跡講堂基壇

 国分寺跡は、寺域を示す堀跡の砂利敷き、南門、中門、回廊、金堂、講堂、経蔵などの基壇がきれいに復元されている。谷中さんが、大谷石で敷き詰められた講堂基壇の表面が軒先あたりから外に向かって傾斜がついていることを教えてくれた。なるほど、軒先からの雫が効率よく基壇外に流れ出すよう僅かに傾斜している。先人の細かい気遣いといったところか。

 国分寺の塔といえば七重塔。中門の東に基壇が復元されていた。一辺が約18m、この基壇の上に高さ60mの塔が建っていたというのだが、想像できないでいると、谷中さんが周りの木の高さに例えて、四つ分ですよと説明してくれた。直径90cmという心柱と四天柱の礎石の様子も復元されていており、資料館には復元された心柱の下部の原寸模型が展示されている。これは見逃さないようにしたい。

 国分寺跡の南西隣には、帆立貝型前方後円墳(6世紀後半)「甲塚古墳」がこんもりとした森と共に佇んでいる。ここから出土した大型の馬の埴輪のレプリカが資料館に展示されいる。

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     歴史館屋上から眺めた下野薬師寺伽藍跡

 東北新幹線の自治医大駅を挟んで東に下野薬師寺跡がある。日光男体山や筑波山がよく見渡せる小高い丘の上に「下野薬師寺歴史館」があり、その屋上から下野薬師寺の全景を眺めてから見てみるのが良いかもしれない。

 下野薬師寺は、国分寺が建設される半世紀も前、7世紀末に作られ始めている。この時期は丁度、土地の豪族出身の下毛野朝臣古麻呂が中央政界で活躍した時期とも重なる。古麻呂が死んだ後、730年ごろに国の機関「下野薬師寺造寺司」が設置され官寺となり、その後日本三戒壇の一つとなるのだが、下野薬師寺はそれよりはるか前に作られていることがわかる。

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     六角堂での集合写真

 下野薬師寺跡の中心部には現在「安国寺」があり、中心部の発掘はまだ進んでいないようだ。しかし、回廊など周辺部の発掘は進み、北西角の回廊が一部復元されている。国庁の「前殿」と同じように丹塗りと緑青塗りが施されている。創建時の五重塔の土壇は森の中に復元されているが、再建の塔跡は県道を挟んだところに未整備のままの崩れた状態で残っている。

 土壇だけ残る東側建物跡と対になった西側建物跡あたりに、安国寺六角堂(江戸時代)が建っている。八角堂は各地にあるが六角堂は珍しい。軒下が高いので開放的な印象をうけるが、きれいな落ち着いた六角堂だ。ただ、六角堂と同じ場所に「戒壇跡」の石碑が建っているのだが、戒壇跡の位置はいまだ確定していない。元の寺域内の東北部分とあったと見られているらしいがまだ見つかっていない。この石碑は少々観光匂がしていただけない。

 次に下野薬師寺跡の南東数百メートルにある、下野薬師寺の子院と称する龍興寺を訪ねた。境内に「道鏡塚」と戒壇つながりで鑑真和上の供養碑があった。木立の塚の前に、地元の市民団体「道鏡を守る会」が「道鏡の徳を守る」と記した解説板が立っている。

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     龍興寺境内にある道鏡塚石碑

 更にもうひとつ道鏡つながりで、JR石橋駅から西に1km程の所にある「孝謙天皇神社」まで足を延ばした。畑の中に地味な祠と鳥居があるだけで、地元の人も分かっている人は少ないのではないかと思われた。

 というわけで、今回の国分寺めぐりも前回下総に続きてんこ盛り企画でした。全国の皆様も是非足を伸ばしてみては如何でしょうか。

                  (関東サークルメンバー 原 英男)

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2012年10月20日

記紀万葉にみる忍坂・粟原地区を体験する

     「記紀万葉サークル」10月例会 10月13日(土) 参加者25名

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(スタート前の集合風景)

 秋らしい爽やかな好天に恵まれました。粟原バス停から、いきなり前半の最高地点である粟原寺跡(白鳳〜奈良時代)まで一気に登り、粟原寺三重塔伏鉢(国宝、奈良国立博蔵)に刻まれ銘文に「寺壹院四至 限東竹原谷東岑 限南大峯 限(西)樫村谷西峯 限北忍坂川」とある寺領を目の当りにしました。

 それにしても銘文にある建立者比売朝臣額田とは何者でしょう。やはり謎は残ります。 塔跡などに累々と残る礎石に私達の意識は奈良時代に瞬間移動します。

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(粟原寺跡での説明風景)

 続いて越塚古墳・赤坂天王山古墳と巡ります。築造年代は同じ6世紀ですが後者の方がやや下ります。寝転んでやっと入れる天王山古墳の開口部はタイムトンネルです。6畳間を少し細長くしたような巨石積みの玄室はもう6世紀末の世界です。懐中電灯の明りに浮び上る重量感溢れる繰抜き式の家形石棺に心臓を鷲掴みにされるような感銘を受けるのです。この立派な方墳は、立地からしても崇峻天皇倉梯岡陵として腑に落ちるものです。
 
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(天王山古墳 説明風景と玄室の繰抜き式家形石棺)

 忍坂区の石位寺では重文の三尊石仏(白鳳期)を特別間近で拝観させて貰いました。元々粟原寺にあったものだと言う説があります。粟原流れと伝わる仏像は意外に多く、隣の外山(とび)区報恩寺に伝わる丈六の阿弥陀如来坐像(奈良国博寄託、平安中期)もその一つです。

 石位寺で昼食と休憩を摂り舒明天皇陵などを巡った後、愈々本日最後の難関である外鎌山越えに挑みました。

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(流れの中の万葉歌碑「秋山の木の下隠り行く水の・・」と登山中の一行)

 外鎌山は横大路の東の目標であったとされる形の良い300m程の山です。急峻な30分の山道は「敬老会ご一行」にはかなり過酷な試練でありましたが、結局全員揃って山頂に立つことが出来ました。

 この日、山頂からの眺めは本当に素晴らしいもので、奈良盆地の南半分が一望できました。足下には西に外山・磐余そして北に纒向・磯城・朝倉と王権揺籃の地が鎮まります。

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(外鎌山より西、北を望む)

 この忍坂の地が初瀬谷、粟原谷という盆地への東の進入路を分ける要衝に当ることを改めて実感した次第です。やはり弥生時代後期の覇者は此処から侵入しこの辺りに拠点を持ったのでしょう(この部分は独り言です)。

 大和朝倉駅への帰着は予定より30分程遅くなりました。しかし天候が素晴らしく、見所も多い今回の催しは参加の皆さんにとって充実した1日になったことと思います。
 
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(西方より外鎌山を望む)

                   10月16日 「記紀万葉サークル」田中昌弘

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2012年10月17日

まほろばソムリエと巡る大和路ツアーNHK取材体験談

                       有本 喬

 9月28日、ツアーのトップバッター「葛城古道―神話の神々と古代天皇・古代豪族の古里を歩く」は、概ね60〜70歳で9名(男4・女5名)のお客様を迎え、素晴らしい秋晴れの下で実施され、多くの皆様からご好評を頂きました。

 NHK奈良支局製作番組で、「奈良まほろばソムリエ友の会」の活動状況が紹介(当日のツアー取材を中心)されることとなり、鉄田事務局長・安井永・田原敏明・有本による事前打ち合わせなど準備にも何かと気を遣いました。

 ツアー当日は、葛城コースの開発者の一人:田原が主なポイント紹介をしながらのNHK同行、小生がメインガイドを務めたほか、栗栖勲・西川誠・入矢啓のサポート部会メンバーが応援しました。

nhkkatu1.jpg 蜘蛛窟

 取材内容は、@友の会がツアーで目指すもの Aコース選定の経緯 B葛城コースのポイントは何? Cツアー客へのインタビュー などでした。

nhkkatu2.jpg 一言主神社での取材風景

 NHK総合テレビで、10月3日夕方の「ならナビ」と10月5日「ぐるっと関西おひるまえ」で、それぞれ5分間放送されましたので、会員の皆様にもご覧頂けたのではないでしょうか? 番組放映後、担当キャスターさんからも、『楽しそうなツアーだなー』との声が局内であったとの報告を頂きました。このNHK番組放映に感謝したいと思います。放映後問い合わせなどが続いたようですが、産経新聞による記事掲載も含めてマスコミの協力が、ツアーの活性化につながることを願っています。


※今回参加いただいた方の声です

Q1:今回のツアーに参加して、いかがでしたか?(4段階評価)
A1:1.大変よかった

Q2:今回のツアーでよかったのは、どんなところですか?
A2:お決まりコースではなく、“まほろばソムリエ”さんの“こだわり”の所への
 案内と説明。非常にわかり易い説明でありがたく感じました。

Q3:今回のツアーで、気になった点、改善したほうが良いと思った点は、
 どんなところですか?
A3:とてもよかったので、特にありませんが、強いて言うならば10人以上に
 なると“人員点呼”が気の毒に思いました。

Q4:その他、お感じになったことをご記入ください。
A4:文献の少ないテーマを素人でもわかり易く説明頂いて感謝しています。
posted by 奈良まほろばソムリエ at 07:28| Comment(2) | ガイドG | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月15日

まほろばソムリエと巡る大和路−山の辺の道コース

 2012年10月5日(金)実施  快晴
 ガイド  奈良まほろばソムリエ友の会 富田、河井
 参加者  北川さん、麦林さん(お二人とも河井の高校の同窓生)
 ※麦林さんから以下のツアー体験記をいただきましたので掲載します


 9時30分 JR柳本駅に集合。孫の急病で参加者が1名減ってしまい、ガイドさん2名に対し参加者2名という、古の大王並みの贅沢な散策となった。

 上つ道を横切り、織田有楽斎、柳本陣屋の説明を受けて黒塚古墳と古墳展示館へ。古墳頂上から見渡す景色は一見の価値あり。但し絶景はこの後の行程にも多々あり。画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡の紀年銘鏡について各説の解説を聞く。展示館を出て、169号線沿いにあるコンビニで昼食をゲット。

 行燈山古墳(第10代崇神天皇陵)を遥拝し、多段式濠の水位差を実見。櫛山古墳の双方中円墳の形を眺めつつ渋谷向山古墳(第12代景行天皇陵)に向かう。夏草が茂る細道で蛇に遭遇。色と頭の形状と大きさからは蝮だろう。三輪山の近隣であり、この辺りでは蛇が出ても当たり前なのだ。臆病者の小生は以後、4人縦隊の最後尾を歩くことにする。

 古代史初心者にとって、古代は謎だらけ。古墳の向きがバラバラなのもその中の一つ。黒塚、行燈山、櫛山、渋谷向山の各古墳の円部分が山側、前方部が平野部に向いているのは自然の地形を造墳に利用したからと、自分なりに勝手に理解。

 ともあれ、大津京への遷都に際し額田王が詠んだといわれる「三輪山を しかもかくすか….」の歌碑を過ぎ、穴師の丘の相撲神社に到着。当社は第11代垂仁天皇の御世に、野見宿禰、当麻蹴速が闘った日本初の天覧相撲の場。木立に囲まれた境内は、秋の強い日差しを受けて歩いてきた後だけに ほっと一息。相撲神社から坂道を登ると兵主神社。滋賀県にも琵琶湖西岸に穴太の地あり。その対岸の中主に兵主神社あり。兵主神は中国の軍事神らしいが謎の多い神。今回は参拝せず。

 坂道を少し下ると第12代景行天皇 纏向日代宮跡へ。本日のメンバー全員の日頃の善行のせいか、素晴らしい秋晴で、宮跡からの眺望は超絶景。奈良国中の全景の向こうに 生駒、二上山、葛城山、金剛山が一望。最高の国見ができました。
 
 檜原神社までは三輪山の山裾の道ですが、著名人の揮毫で多くの万葉の歌碑あり。残念ながら小生は万葉集は不勉強で、今後の課題。予定時間より約15分遅れで、檜原神社に到着。第10代崇神天皇の御世に宮中で祀っていた天照大神を三輪山麓の笠縫の当地に移設、崇神の皇女 豊鍬入姫が奉斎。その後各地を巡り現伊勢神宮の地に鎮座する。各地を巡った理由は謎ですが、小生の勝手な理解は、征服領域に対する示威行動でもあったのか? 檜原神社の注連柱の向こうは、二上山がくっきりと望める素晴らしい眺望。昼食は檜原神社から坂道を下った所にある私設公園。

20121005p1.jpg 池に映る三輪山と巻向山

 昼食後は坂道を下り 井寺池の堤へ。川端康成の書体で構成された倭健命の「大和は国のまほろば….」の歌碑。この地でも素晴らしい眺望を楽しみ、ホケノ山古墳へ。当古墳は前方部がバチ形に広がり、葺石あり。石囲い木槨埋葬施設で有名。魏史倭人伝では倭人の埋葬法として「死ぬと棺に納めるが、槨は作らず、土を盛り上げて塚をつくる」とある。当古墳は3世紀初めの築造と言われるが、実際には卑弥呼の時代よりは下る年代の古墳なのか??

 箸墓古墳は、自然の地形を活用したものではなく人工的につくられた古墳。宮内庁では第7代孝霊天皇の皇女 倭迹迹日襲姫の陵墓に、日本書紀では第8代孝元天皇の姉妹の倭迹迹日襲姫と記載。典型的な前方後円墳で、葺石は二上山の石を人々が手渡しで運んだと、紀には記載。但し古事記では第7代孝霊天皇の皇女に夜麻登登母々曾毘売の名はあるが、造墓記事は無し。出土土器による年代測定、年輪年代測定法や、炭素14年代測定法による測定結果により、箸墓を卑弥呼の墓とする説もあるが、検体の種類による誤差、測定値誤差の大きさ等により、卑弥呼の墓否定説もある。古代史ファンにとって興味の尽きない古墳である。

20121005p2.jpg 箸墓古墳

 JR纏向駅のホームの端から、纏向遺跡の説明を受ける。卑弥呼の宮殿跡との説もあるが、箸墓古墳同様に年代論的に異論を唱える説もある。魏史倭人伝の王の住居は「宮殿、物見楼、城柵などは厳重に設けられ..」と記載されている。現在までの当遺跡の発掘では物見楼、城柵、鉄製武器が未発掘であるのに対し、吉野ヶ里遺跡ではこれ等がセットで発掘されている。但し、吉野ヶ里遺跡は卑弥呼時代の遺跡とは言えるが、他の理由で邪馬台国ではない。纏向遺跡の今後の発掘発見に期待。また当遺跡からは、銅鐸破片も出土しており、これはどのように解釈すればよいのか?

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     巻向駅ホームから纏向遺跡を見る

 二人のガイドさんの解りやすい解説、立ち位置まで教えて頂いた各ビューポイント。お陰で有意義な一日が過ごせました。有難うございました。奈良は奥が深く、今回の訪問でまたまた新たな謎が発生。謎が謎を呼ぶ古代史の迷路に入り込んで、興味が尽きません。また行きます。
                             完。麦林 2012/10/07
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