2016年01月30日

東京都内で奈良を感じる企画展

千代田線千駄木駅から、団子坂を200mほど登ったところに文京区立森鷗外記念館があります。
同館コレクション展「奈良、京都の鷗外―今日オクラガアキマシタ。」が、展示室2で開催中です。 2月7日(日)まで。 開館時間や交通案内など詳細は記念館HPでご確認くださいませ。

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【展示会チラシ】

展示物は撮影不可でしたので、展覧会のチラシを添え、奈良関連の展示物を報告します。
受付をすませ、エントランスの鷗外の胸像を見て階段を下ってまずは展示室1へ。
ここでは鷗外の生涯を紹介する内容でした。

森鷗外(1862-1922)は現在の島根県津和野町に、津和野藩の御典医を務めた森家の長男として生まれ、10歳で上京。
東京医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。在学中には和歌も学んでいたらしい。
卒業後は陸軍軍医となり、ドイツ留学を経験。日清戦争、日露戦争にも出征。
帰国後は軍医をしながら、翻訳や小説・詩歌などを創作した明治・大正期の文豪。
小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』、歴史小説『高瀬舟』など代表作をあげてみると文芸活動の幅広さがわかります。

奈良との関わりを感じたことは…
万葉集の研究者で知られる佐佐木信綱(1872-1963)と親交があり、鷗外が日露戦争へ出征する際には万葉集の本を贈ったのだそう。書簡や信綱揮毫の書幅などが展示されていました。
日露戦争帰国後に鷗外が歌人を自宅に招き歌会を催した際には、橋渡し役を勤めたのも信綱。信綱をはじめ、与謝野鉄幹、石川啄木、北原白秋、上田敏、斉藤茂吉などが参加したのだそう…幅広い交際をうかがい知ることができます。このときの歌会はのちに観潮楼歌会と呼ばれるようになりました。
自宅2階から東京湾が遠くに眺められたため、鷗外が自宅を「観潮楼」と名付け、多くの文人が集った社交場でもあったそうです。この記念館は鷗外旧居「観潮楼」跡地に建てられたもの。

晩年の鷗外は奈良との関わりが深くなっていきます。
1916(大正5)年に陸軍を退職。
1917(大正6)年12月、55才のときに帝室博物館総長兼図書頭となり、翌年から大正10年まで、奈良を訪れて正倉院曝涼に立ちあいました。
このときの宝物の調査などの公務や公務の合間に南都社寺を巡礼したことが、日記『委蛇録』に書かれ、「奈良五十首」はこの4年間に歌われたもの。1首をご紹介します。

 夢の國燃ゆべきものの燃えぬ國木の校倉のとはに立つ國

ときは、明治の廃仏毀釈による社寺衰退の跡が感じられるころの正倉院開封だったこと想像してみる…夢の国だったんだろうなぁ。
他にもいくつか紹介されています。残りの歌や歌意などは、平山城児著『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)に詳しくあります。

日記や「奈良五十首」が発表された『明星』大正11年1月号など展示の一部はデジタルコンテツで見ることが可能でした。漢文で書かれた日記には正倉院に立ちあった人物の名があったりします。どんな人物が入倉したのか探してみるのも面白いかもしれません。

出張中に宿泊した奈良帝室博物館敷地内の官舎の写真、留守番をする子供たち家族に宛てた当時の絵はがきなどもあり、大正初期の奈良を鷗外と旅した気分を味わうことができました。
楽しい企画展をありがとうございました。


posted by 奈良まほろばソムリエ at 11:43| Comment(0) | 他国便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月16日

記紀万葉サークル1月例会「再見・細見、奈良公園周辺」

1月9日(土) 参加者25名

散策地:東大寺境内・奈良女子大学・猿沢の池周辺・奈良ホテル周辺・奈良教育大学構内・ならまち(十輪院など)

お正月の松の内が明けたばかりの1月例会。 思いの他、たくさんの方が参加されました。かく言う私も久し振りの参加です。最初に今日の案内役、伊藤和雄さんから当日訪れる箇所の案内レジュメをいただきました。訪問場所数だけで54箇所、かなりの数です。

最初に東大寺境内、ここは私達夫婦が散歩で良く訪れる場所です。東塔跡は昨年11月に発掘調査の現地説明会があり、話題になったので、場所は良く知っていました。今回は更に西塔の後も見学出来ました。東塔は平氏の焼き討ちにあった後、鎌倉時代に、より大きい塔に再建され、その後落雷によって焼失しました。西塔は、平安時代に落雷によって焼失したままの様です。いつもの散歩道のすぐ脇に残る西塔跡の小山に登り、往時を偲びました。

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(東大寺東塔の基壇)

法華堂の建物の説明もありました。向かって左半分は天平時代の建物と良く言われていますが、伊藤さんによれば平安期以降の建物に見られる床下の白い盛り上がり「亀腹」があるので、どうなのだろう?とのことです。その後の歴史とかも詳細に調べないと真実はわからないと思いますが、面白い視点だと思いました。

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(二月堂・法華堂前にて)

焼門跡を出て奈良女子大学に向かう途中は佐保川の暗渠の説明がありました。いままで知っていた範囲よりかなり広く驚きました。
奈良女子大学では大学のスケジュールと合わず、学生食堂での昼食とはなりませんでしたが、重要文化財の記念館、守衛室、国の登録有形文化財の佐保会館の外観、奉安殿を見学しました。ちなみに今年3月までは佐保会館で、4月以降は記念館で月1回ランチタイムコンサートが開かれ、2階の大ホールをご覧いただけます。レトロな雰囲気の椅子、天井、窓が楽しめます。地域の一般の方対象ですので、どなたでもご自由に。日にちは奈良女子大学のホームページで御調べ下さい。

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(奈良女子大学構内を行く)

奈良県文化会館で昼食をいただいた後、奈良県庁の屋上から奈良市内を眺めました。天気が良かったので耳成山、大極殿など、遠くまで見渡すことが出来ました。

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(奈良県庁屋上より東を望む)

猿沢の池周辺から奈良ホテルへは近くの瑜伽神社が印象に残りました。
社伝によれば、飛鳥神奈備が平城遷都とともにこの地に移り、この山を平城の飛鳥山と呼んだといいます。高い石段の上にそびえるお社です。飛鳥と平城、都が移り、昔を懐かしむ歴史が繰り返されます。伊藤さんの話ではこの山は隣の奈良ホテルのある山と続いていたとか。真ん中を道路の為に掘り下げられたとのことです。地形も人間の都合でいろいろと変えられていったのが分かります。

奈良教育大学では吉備塚、2008年に発掘調査された新薬師寺金堂跡を見学しました。知識としては知っていても現物を見るのは、実感が湧いて良い物です。教育大学はちょっと殺風景で女子大とはまた違った雰囲気を感じました。 

ならまちでは以前から拝観したいと思っていた石仏龕を見ることが出来ました。写真で想像していたよりも大きく、釈迦如来、地蔵菩薩、弥勒菩薩の表す意味もお坊さんの説明で良く分かりました。

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(十輪院本堂前で時間待ち)

とにかく、たくさんの場所を見学したので書ききれなかった所もたくさんあります。印象に残った所だけを感想として記させていただきました。
3人の人が万歩計を持っていたので、最後に歩いた距離を比べました。人によって10kmから15kmと差がありました。万歩計の精度、設定している歩幅による差と思われますので大体13km程でしょうか。入り組んだ道では回り道もしたので、かなりの距離を歩きました。また奈良盆地東側の山沿いの地域ですので、断層も含め、かなりの高低がある工程でした。長い距離と登り下り、今日は良く眠れそうです。

この散策のため、伊藤さんには半年前から資料や工程の準備を入念にしていただきました。改めて、お礼を申し上げます。

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(奈良県庁玄関前で)

(文)記紀万葉サークル 清水千津子 (写真)同 田中昌弘


posted by 奈良まほろばソムリエ at 16:10| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする