2016年05月30日

保存継承グループ「大和の祭礼見学・5月」(蛇綱曳き・汁掛祭)

御所市蛇穴の「蛇綱曳き・汁掛祭」=5月5日実施

蛇穴と書いて「さらぎ」と読むのだが、何とも怪異で不思議な地名である。祭りの名称の通り、ワラで作った蛇綱(じゃづな)を地区の人たちが一緒になって曳くもので、そのスタート前に地区の野口神社で神職が参拝者や蛇綱に味噌汁を振り掛けて邪気を払うとともに、五穀豊穣を祈願する。

故事によると、その昔、修験道の開祖とされる役行者(7世紀から8世紀にかけての実在の人物)が茅原(現在の吉祥草寺のある地区)から市部(いちぶ、現在の蛇穴)を通って葛城山での修行に励んでいた。市部に住む長者の娘が役行者を恋慕ったが、役行者は修行の妨げと女性を追い払った。女性は怨念から遂に大蛇と化し、村の森の中の穴に隠れたという。
ちょうど田植え時期で、村人が森の近くを通りかかると、口から火を吹くその大蛇に出くわした。驚いて持っていた味噌汁を蛇にかけて逃げ帰った。その後、大勢で見に来ると、大蛇は井戸の中でおとなしくしており、村人たちは巨石で井戸を覆った。後にその場所に野口神社が建てられ、祭礼として女性の霊を鎮めるための「蛇綱曳き・汁掛祭」が行われてきた、とされる。
 
蛇綱は、野口神社境内で地区の大人がワラで5月4日に蛇の頭部を、翌5日早朝から胴体と尾を制作する。全長約14bで、頭部の両目と口は赤色。胴体の首から尾にかけては、同じわらで長さ約1bの握り綱が約20本取り付けられる。

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<野口神社境内で5月5日昼前にできた蛇綱>

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<蛇綱の横で行われた味噌汁の炊き出し>

地区約140世帯のうち14世帯が祭礼世話役の頭屋(「とうや」または「とや」)となる伝統があり、毎年2世帯がペアで務めている。祭礼当日は正午前の神事で野口神社宮司を兼ねる鴨都波(かもつば)神社宮司がスギの葉を束ねたお祓い串で境内の大釜で炊かれたワカメの味噌汁を参拝者と蛇綱に振り掛けた。

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<野口神社前を出発する蛇綱曳き。背景は役行者ゆかりの葛城山>

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<曳き綱の持ち手には子供たちも>
 
正午ちょうどに合図の花火が鳴り響き、法被姿の大人、子供による蛇綱曳きが神社を出発。太鼓と笛を鳴らす青年団員らが先導し、蛇綱を曳く約20人は地区内の全戸を順に回り、家々の前で邪気払い、無病息災を願って「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声と共に蛇綱を3回、1bほどの高さまで持ち上げる。蛇綱を曳く際は頭を北向きにしないという決まりがあり、南北の道では頭を南向きにして進んでいく。

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<家々の前では邪気払いの願い込めた蛇綱持ち上げのパフォーマンス>

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<大勢の人で蛇穴地区の家々を練り回る蛇綱曳き>

地区内を3時間余りかけて回る長丁場のため握り綱を持つ役目も交替しながらの練り歩き。蛇綱が通った道にはワラくずが散らばる。通過した後で掃き掃除をしていた70歳代の婦人はにこやかに「多くの住民の思いがこもった伝統行事で、私は掃除で参加させてもらっています」。

地区内を回り終えた人たちは蛇綱と共に野口神社に戻り、境内にある井戸を模した石組みの蛇塚の上に蛇綱を巻いて奉納。参加者には紅白の餅が振る舞われた。最後に来年の頭屋にとぐろを巻いた蛇のご神体を引き継いで祭礼を終えた。

御所市の無形民俗文化財に指定されている「蛇綱曳き・汁掛祭」。お祭りに大蛇を使うのは中国伝来の行事とする説もある。市部という地名がいつごろ蛇穴に変わったのか、蛇穴と書いて「さらぎ」と呼ぶようになったのはなぜか。謎の多い地の故事に彩られた奇祭だが、世代を超えた住民の一体感あふれるお祭りでもある。

(文・写真 保存継承グループ 久門たつお)

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2016年05月24日

記紀万葉サークル5月例会「大和高原の夜明け」

5月14日(土)参加者26名

行程: 氷室神社・氷室旧跡・復原氷室 〜 針テラス(昼食休憩) 〜 都祁水分神社 〜 来迎寺 〜 三陵墓古墳 〜 葛神社 〜 毛原廃寺跡  
マイクロバスを使用して、大和高原の主要な史跡を1日でまわる内容の濃い勉強会となりました。

福住町の氷室神社周囲の山には数カ所の氷室群が知られています。水はけのよい尾根の先端に3基1セットとして残る室山の氷室跡は深さも十分で分り易いものでした。仁徳紀の記述は仮託としても、長屋王家木簡に見るように飛鳥〜奈良時代には朝廷(主水司)との関わりにおいて稼働していたものと思われます。

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<室山の氷室跡>

都祁水分神社辺りは大和川水系・木津川水系が源を発する所です。木津川には布目川・笠間川(→名張川)を経て合流します。水分神社境内には、聖武天皇の伊勢行幸における堀越頓宮伝承地や万葉集に詠われた(長田王)山辺御井の伝承地があり、

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<山辺御井伝承地にて>

この辺りが霊亀元年(715)に開かれた「都祁山道」の中継点であった可能性があります。水分神社が10世紀初めに旧社地から当地に遷坐した背景とも考えられます。平安時代には、斎王の帰路に際して都介頓宮が設置されています。瑞垣に囲まれた重文の本殿前に安置された、小さいながら迫力満点の狛犬一対は鎌倉期のものです。

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<鎌倉期の狛犬一対>

小治田安萬侶墓は日当たりのよい南斜面にあります。墓誌にある「右京三條二坊」は現在の大宮通りと秋篠川が交わる辺り、本照寺の北側に当ります。宮に近い好い所に居宅を構えていたわけです。

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<小治田安萬侶墓にて>

来迎寺は現地では無住状態で、近くの檀家さんが管理しておられます。前もって開扉をお願いし、本尊阿弥陀如来坐像(平安後期)・重文の善導大師坐像(鎌倉初期)を拝観することが出来ました。昨年改修された本堂でしたが、古材を巧みに利用した立派なお堂でした。桜井市の瀧川寺社建築が手掛けたそうです。平安時代以降、清和源氏の流れを汲む大和多田一族(宇陀市室生区多田に居住)の菩提寺となっており、境内には2.6mの重文の宝塔や多くの五輪塔が残されています。大和における多様性の一端を垣間見ました。

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<来迎寺門前>

都祁水分神社〜小治田安萬侶墓〜来迎寺〜三陵墓の間はマイクロバスの通行に問題があり、徒歩行程としました。うららかな日差しとそよ風の中、3km程のあいだ都祁野の風景を楽しみました。

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<都祁南之庄辺りを歩く>

都祁野にも幾らかの古墳がありますが、三陵墓はその規模において図抜けています。全長110mの三陵墓東古墳は大和高原・宇陀山地を通じて最大の前方後円墳(5世紀)です。古墳公園として整備された広大な一画では、朝廷の委嘱を受けて長くこの地域を統治した都祁直一族の威勢が甦えり辺りを圧する感がありました。

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<三陵墓東古墳後円部へ>

最終目的地、毛原廃寺跡へは笠間川沿いに30分近くを要します。もう2〜3km先が名張川への合流地点で、まさに僻地まで来た感じです。このような所に突如巨大な礎石群が出現します。記録には全く現れない謎の寺院跡です。鄙びた周囲の情景と礎石群の圧倒的な存在感のコントラストがたまりません。奈良時代のこの辺りは、東大寺要録や東大寺文書に見える笠間庄や板蝿杣(天平勝宝7年、用材確保のため東大寺に施入された)といった東大寺の荘園の中心的位置にあったと思います。寺院は、それら荘園の管理センターのような役割を果たしていたのではないかと考えます。

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<毛原廃寺金堂跡にて>

行程の終りに当り、この辺りが「都祁山道」の出口に相当するように思えてきたものです。この日のFWの成果としたいと思います。東へ下るともう夏見廃寺のある名張です。青山越えをすれば伊勢に至る最短のコースを辿ることになります。

            
(文・写真)記紀万葉サークル 田中昌弘

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2016年05月07日

保存継承グループ「大和の祭礼見学・4月」(新薬師寺おたいまつ)

4月8日実施 参加者5名  

桜の咲く時期に行われる「おたいまつ」があります。奈良市の新薬師寺の修二会において、お堂に入る僧の方たちの足元を照らす火のことです。
去る4月8日。明るいうちから撮影の場所取りの人がちらほら集まり始めました。通常拝観が終わると境内が解放され、参拝客が幾重にも取り囲む広場の向こうには、薬師如来を拝むことができます。

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(正面が開扉された本堂)

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(籠松明が準備されている)
 
19時頃、雅楽が奏され合図の鐘の音が鳴り響くと、燃えさかる松明が一本ずつ、本堂前を向かって左から右へとやって来ます。華厳宗のこのお寺の修二会には東大寺からもお坊さんが来られ、童子の方が時々松明を回して火の粉を振り落とす様も二月堂のお水取りと同じです。ただ、東大寺の場合と異なるのは、それが地上、私たちのすぐ目の前で行われるということ。最前列にいるとかなりの迫力です。燃えやすい素材の服やよそ行きは着て行かない方が安全かも知れません。

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(松明の後ろに僧侶の姿)

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(人々の前で火の粉が振り落とされる)

新薬師寺のおたいまつは計11本、ラストが少し大きい籠松明で、これだけ音も違うように感じました。僧の方々が全員中に入られるとおたいまつは終了し、ここで半数以上の人が帰って行きます。が、私たちは本堂の中へと入ります。これから神名帳が読み上げられるのです。
東大寺では、聴聞できるのは外陣から、女性であればさらに隔たった場所からとなります。ここでは過去帳の読み上げはないのですが、朗々と響き渡る「〇〇大明神…」を間近で体験することができました。
この行事はご本尊の薬師如来に過ちを悔い、また世が安らかであるよう祈るもので、桜のもとで行われるせいか、小規模ではあるもののどことなく華やいだ雰囲気があります。20時半頃には残っていた参拝者も散華や松明の燃えさしを手にお堂を後にしました。

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(籠松明と夜桜)

なお、この日は新薬師寺前の田んぼを見ておくこともグループの目的でした。ここが開発され、施設が建つ計画が進んでいます。地域の、ひいては奈良の財産でもあるこの一帯を何とか守れないかと保存活動も行われていますが、来年のおたいまつの時には風景が一変してしまっているのでしょうか。

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(建設予定地の田んぼ、奥右が新薬師寺、左が鏡神社)

(文・写真 保存継承グループ 梁川さやか)

posted by 奈良まほろばソムリエ at 10:20| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする