2017年06月14日

保存継承グループ 田原本町鍵・今里の蛇巻き行事見学記

6月4日(日)、保存継承グループメンバー3名で田原本町鍵・今里の蛇巻行事を見学しました。グループの見学は今里だけでしたが、せっかくですので一人だけ鍵も見に行きました。ソムリエの会のカリスマガイド雑賀さんと偶然現場で会いました。

「大和の野神行事」として「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に昭和58年文化庁より指定されている行事です。「この行事は、稲作農耕の守護神の1つである野神を祀る行事である。端午の節供に集中して行われ、子ども集団がその主体となる例が多いが、なかにはジャ(蛇)と呼ぶ藁の作り物を担いでむらをまわった後、野神に供えたり、鍬・鋤などの模型を作って奉納するなど、伝承地により様々な内容のものがみられる。」(文化庁)

「鍵の蛇(じゃ)巻き」は、「毎年6月の第1日曜日に、豊饒祈願と共に男子の聖人を祝う節句行事。(旧暦5月5日の行事) 藁で作った蛇形の綱の頭を17歳の男子が担ぎ、他の少年たちが後ろの綱を引っ張ってお互いに引き合いながら村中を練り歩く。(これは17歳の者が少年の仲間から離脱する儀礼) 巡行の後、榎の木に頭を下にして蛇体を上へと巻き付けることから、鍵の蛇巻きは降り龍とも言われる。」(現地解説板)

「今里の蛇巻き」とは、「農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成人を祝う節句行事である。 毎年6月の第1日曜日(旧暦のときは5月5日の男の節句の日)に、蛇の形をした長さ18mの蛇綱を、新麦わらで作り、13才から15才の男の子が蛇綱の頭を担ぎ、それより年下の男の子と、当屋の男たちが胴を持って、村中の家々を大声で「おめでとう」と言って、祝福して回る。その道中で、誰彼の区別なく、蛇綱で人を巻き込んだりする。」(現地解説板)

同日に行われるのですが、時間帯にずれがあり、両地区は隣接しているので、両方の行事を見学することが可能です。午前中から準備が始まる「鍵の蛇巻き」を午前中の準備から巡行の途中まで見て、「今里の蛇巻き」の準備から巡行・巻きつけまで見るという行程です。

「鍵の蛇巻き」
午前7時30分頃〜11時30分頃 八坂神社で蛇製作準備
午後2時頃〜 神事の後、鍵の村中を練り歩く
・・・その後、「はったはん」(北中学校前)の木に巻きつけ

「今里の蛇巻き」
午後1時頃〜午後2時30分頃 杵築神社にて蛇の製作
午後4時頃〜午後5時頃 今里の大字全戸をまわる
・・・その後、杵築神社の榎に巻きつけ
交通:近鉄石見駅下車 徒歩10〜15分


「鍵の蛇巻き」

鍵の八坂神社へ午前10時半ごろ着きましたが、準備作業はかなり進んでいました。鳥居の下にあるのが、出来上がった蛇の頭です。作業は午前7時半頃から始まったとのことでした。

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鍵の八坂神社

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蛇の頭

作業は、その年の当屋が行います。蛇の頭は稲わらの大束5つを下から2・2・1と積み重ねて縛ってあります。重さは300kgあるとのことです。
頭には長い尾がついています。3本の縄で、これに稲わらと麦わらを6:4の割合で混ぜて編み込んでいきます。出来上がった姿は、蛇の鱗をあらわしているようです。11時半ごろ尾が完成し昼休みにはいります。

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蛇の頭に尾がついている

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頭を後ろから見た姿

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尾に藁を差し込んでいく

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蛇の完成

午後2時いよいよ本番です。最初に神主による神事が行われます。蛇の頭の上には、ボンサン膳(お供え物)や、ドサン箱が置かれています。祝詞の奏上、蛇・関係者のお祓い、米、塩を蛇の頭部と胴体に振りまき、酒を頭部に注ぎます。

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頭の上にボンサン膳とドサン箱

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神事

神事が終わると蛇巻きのスタートです。
鍵の地区内で、今年祝い事のある家にドサン箱を先端につけた竹棒を担いで行きます。祝いとは、新居・結婚・出産(男児)などで、今年は1軒だけ。ドサン箱の中には、当日の朝に頭(かしら・子供たちの年長当番)が社務所に集まり、境内のヨノミの木の枝で農具のミニチュア(鎌・鍬・鋤など)を作って入れてあります。頭に入った新入り2名が祝いの家に回ります。竹棒を家の玄関に入れ頭と子ども達が手を叩いて祝し、祝儀をいただきます。

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ドサン箱を先端に付けた竹棒を運ぶ

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蛇の頭をかついで巡行

蛇を担ぐのは当屋と14〜17歳までの男子が中心で、17歳の青年は、これが終わると成人の仲間入りとなり、元服の儀式でもあります。後ろの綱は、14歳以下の子供が担ぎ、引っ張って進む邪魔をしながら地区内の家々を回って行きます。
回り終わると、北中学校の前にある「はったはん」と言う場所があり、ここに蛇の頭を置き、胴体を木に吊します。尾の先端は、その年の恵方と決められています。今年は北北西。最後の神事が行われ終了します。鍵は頭が下なので降り龍といわれています。今里は頭が上なので昇り龍といわれています。

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後ろの綱は引っ張って邪魔をする

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「はったはん」に供えられた蛇
(巡行の途中で、今里へ移動しました。「はったはん」の写真は当日後でとったものです。)


今里の蛇巻き

鍵から歩いて10分ほど、午後2時40分すぎに今里の杵築神社に到着しました。午後1時から始まった作業は終盤にさしかかっていました。
神社の拝殿前に、蛇の頭がつるされており、そこから尾(縄)がのばされて、麦わらを編み込んでいる途中でした。全体の長さは約18m。
鍵では地面の上での作業でしたが、今里では2本の木棒を綱でとめたものを三角に立てた台を連ね、その上に蛇をのせ全員で作業しています。また鍵は稲わらと麦わらを混ぜていましたが、今里は麦わらだけで作ります。

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今里の杵築神社の拝殿前

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全員で麦わらを編み込む

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麦わらの編み込み

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樫の枝と笹竹で飾られる

祭事を行うのは迎え当屋・本当屋・送り当屋各3軒計9軒で行います。今里地区の家々が順番に当屋になっていきます。本当屋は祭事の準備や食事など全般を取り仕切ります。
蛇が完成すると、参加する男子には拝殿で直会が行われます。直会の途中に蛇の頭に御神酒を注ぎ、清めます。

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大量のワカメの味噌煮

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味噌煮を丸く巻いて藁で縛ってある

その後、ワカメの味噌煮のご接待があります。これは縁起物で参列者にもふるまわれます。煮たワカメを小さく巻いてわらで縛ってあります。
海のない大和で御馳走であるワカメがふるまわれるのは、今里の土地柄です。寺川にあった今里の浜は、江戸時代、田原本の川港として栄えたところで、大阪から海のものも運ばれてきたとのことです。
午後4時前、蛇の支えがはずされると、蛇巻きの始まりです。地区の家々を一軒ずつ回っていきます。蛇巻きに参加するのは、当屋と十人衆(世話人)と子供会です。蛇の頭は、本来13〜15歳の男子が担ぐのですが、今ではもう少し年齢の幅があるようです。頭が家々の玄関に入り大声で「おめでとう」といいます。

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蛇巻きのスタート

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頭が家の玄関に入っていく

途中で広い場所があれば、蛇が人を巻き込んでいきます。蛇に巻かれると、無病息災になるといわれています。以前は当屋が決めた場所で誰彼なしに巻き込んでいたようですが、現在は危険な為、場所も決められ、巻き込まれるのも担いでいるメンバーに限られているようです。
午後5時ごろ杵築神社に戻って来ると蛇は神社の南側にある榎の枝に、頭を上にして昇り龍のように巻きつけられます。巻きつける枝の方角は今年の恵方(北北西)です。巻きつけるのにはクレーン車が使われます。終わると根元の祠の前で、参加者全員で村の平和と繁栄を祈ります。祠には、絵馬と農具のミニチュアが祀られています。終了は午後6時頃です。

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蛇が巻き込んでいるところ

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絵馬と農具のミニチュア

(蛇巻きの巡行は1時間ほどかけて地区内をくまなく回りましたが、最後までいると遅くなるので途中で見学を終了しました。最後の写真は昨年撮ったものです。)

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巻きつけられた蛇(2016年7月撮影)

文・写真 保存継承グループ 石田一雄
posted by 奈良まほろばソムリエ at 20:48| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月11日

女性グループ(ソムリエンヌ)活動報告「筋違道と三宅古墳群―ミヤケの夜明け―」

6月3日(土)、梅雨入り前の爽やかな青空のもと、近鉄橿原線結崎駅前に集合しました。
結崎駅から西に1q余りの糸井神社から、筋違道(太子道)を南へ黒田大塚古墳まで歩き、午後は太子道の西側にあたる三宅古墳群を訪ねながら北上するコースです。

案内は、このツアーを企画・準備して下さった寺田麻美さんです。また、三宅町ボランティアガイドの寺田良清さんも同行して下さり、こちらからも丁寧な説明を頂きました。

【行程】
近鉄結崎駅―糸井神社―≪筋違道≫―黒田大塚古墳(昼食)―天王塚古墳―芝ぞえ古墳―瓢箪山古墳―アンノ山古墳―高山古墳―茄子塚古墳―寺の前古墳―島の山古墳―比売久波神社―近鉄結崎駅

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≪あざさ(学名 アサザ)≫

『万葉集』に詠われ、『日本書紀』にも登場するあざさが見頃を迎えていました。
初夏から初秋にかけて咲く水草ですが、準絶滅危惧種に指定されています。

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≪糸井神社≫

糸井神社のご祭神は豊鋤入姫命とされていますが、社伝には機織り技術集団の神を祀ったとも伝えられています。
社名からも織物と関わっていたことが想像されます。

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≪下が、雨乞いなもで踊りの絵馬≫

この地域は、飛鳥川や寺川などが大和川に注ぐ低湿地の穀倉地帯でありながら、後背の山地が深くないので、日照りが続くと深刻な水不足に悩まされていました。
糸井神社に奉納された絵馬には、雨乞いのためのものもありました。上の雨乞いなもで踊りの絵馬では太鼓をたたき、村人がお揃いの衣装で踊っています。
また、池にお寺の鐘を放り込む様子を描いた絵馬もありました。これは他所の雨乞いでも見られた行為のようです。

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≪伴堂杵築神社に奉納された、おかげ踊り絵馬≫

糸井神社以外にも、太子道沿いの伴堂杵築神社や屏風杵築神社に、おかげ踊りやおかげ参りなどの絵馬が奉納されていました。

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≪桑の実≫

太子道沿いには桑の木があって、赤く色づいていました。食べられるのは黒くなってきた実ですが、甘酸っぱくて、ちょっと病み付きになってしまいました。

ところで、太子道は、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を往来した道との伝承があり、条里制の地割りに北から西に約20度振れているので、筋違道とも呼ばれています。
この太子道建設に、秦氏が関わったのではないかと考える研究者もいます。
私たちが最後に訪れた「比売久波(ひめくわ)神社」は桑の葉を祭神としていますし、糸井神社の存在と言い、養蚕や機織りに関係の深かった秦氏が関係していたとしても不思議ではありません。

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≪忍性菩薩御誕生之地の石碑の前で≫

忍性(1217〜1303)は三宅町屏風の生まれで、叡尊の弟子となり、ハンセン病患者等のために北山十八間戸を創設するなど、慈善救済事業に精進した高僧です。
平成13年に、太子道沿いに誕生の地の石碑が建てられました。
石碑の前で、三宅町ボランティアガイドの会長森内さんとそのお嬢さんが、忍性の生涯を描いた紙芝居を上演して下さいました。絵もとても上手で、楽しく聞かせていただきました。

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≪シーフードカレー弁当≫

昼食は、三宅町伴堂の「やまぐち 菜彩(さいさい)」で予約しておいたお弁当を、近鉄田原本線黒田駅近くの黒田大塚古墳でいただきました。
お肉系orお魚系かが選べます。写真のサイズで500円、もう一回り小さいレディスサイズが440円で、おかずが充実していて美味しい、イチ押しのお弁当です。

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≪田んぼの広がる低地に古墳が点在≫

午後は、黒田大塚古墳(所在は田原本町)から古墳巡りを開始しました。
飛鳥川と寺川にはさまれた標高45〜50mほどの沖積地に古墳が点在しているので、道も平坦で歩きやすく、田園風景を楽しむことができました。

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≪三宅古墳群の位置 「倭屯倉地帯の古墳群」より≫

『和名類聚抄』に見える「城下郡三宅郷」が現在の三宅町一帯であり、三宅郷には大和朝廷の大王の直轄地「倭屯倉」が置かれていたと考えられています。
現在17基からなる三宅古墳群は、ほとんどが小規模ながら前方後円墳が8基で、その割合が高いことが特徴です。
被葬者については、倭屯倉と何らかの関係があった人物たちと考えられています。

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≪黒田大塚古墳≫

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≪黒田大塚古墳『前方後円墳集成』より≫

6世紀前半頃の前方後円墳で、奈良県史跡に指定されています。
よく整備されていて、墳丘上に上ることもできましたが、著しく削平されています。復元(上図の点線部分)では墳丘全長70mですが、現在の全長は約55mです。
円筒形、朝顔形などの埴輪や木製品が出土しています。

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≪天王塚古墳≫

現在は直径16mの円墳ですが、築造時期などは不明です。

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≪芝ぞえ古墳≫

芝ぞえ古墳は上部を大きく削平されて、現在は畑地になっています。
現在は直径約30mの不整円形で、前方後円墳の後円部かとも考えられているものの、詳しいことはわかっていません。

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≪瓢箪山古墳≫

瓢箪山古墳は前方後円墳でありながら削平が大きいために、現在は墳丘全長35mの細長い楕円形になっています。
草をかきわけて上ることができました。上に祠があります。

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≪平成28年の瓢箪山古墳現地説明会資料より≫

瓢箪山古墳は、近年、三宅町として初の学術調査が行われた古墳です。
特に第2次調査では、女性の人物埴輪や犬の埴輪が出土しました。
調査の結果、築造時期が6世紀前半に絞られるとともに、墳丘全長約40mの上図のような姿であることがわかりました。
他の古墳についても三宅町が順次調査をしていく予定とはいえ、全ての古墳が調査対象となっているわけではありません。実態把握と保存のためにも、調査が広く進むことが望まれます。

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≪アンノ山古墳の後円部≫

アンノ山古墳は、現在墳丘全長40.5mの盾形になっており、わずかに後円部の丸みが前方後円墳の形を残しています。
築造時期等、詳しいことはわかっていません。
周濠だったと思われる所は田んぼになっていて、田植えをされていました。

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≪高山古墳≫

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≪高山古墳『大和前方後円墳集成』より≫

高山古墳は北側が町道で削られているものの、三宅町内では唯一前方後円形を残しています。
しかし、柵越しにしか見られず、木も茂っているので全体の形は確認できませんでした。
墳丘全長51m。5世紀末の築造と推定されています。

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≪茄子塚古墳≫

周囲はすっかり田畑になっており、直径18mの墳丘が残っているだけなので、円墳か前方後円墳かもわかっていません。
出土した須恵器から、5世紀後半から6世紀初頭の築造と考えられています。

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≪寺の前古墳≫

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≪寺の前古墳『大和前方後円墳集成』より≫

寺の前古墳も削平のため楕円形になっていますが、前方後円墳です。現在の墳丘全長は34m。
円筒埴輪片や家形埴輪片が出土しており、6世紀初頭の築造と考えられます。
明治初期に盗掘にあった際の記録によれば、花崗岩の石室に凝灰岩の石棺があり、冑も発見されていたとあります。

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≪島の山古墳≫

三宅古墳群の中では最も北に位置し(所在は川西町)、墳丘全長190mの巨大前方後円墳で、国史跡です。
今回訪ねた古墳群の中で、唯一水をたたえた周濠をもつ、別格の大きさの古墳でした。
約2500の玉類、150近くの緑色凝灰岩製の腕飾類が出土したことで有名です。
被葬者は女性司祭者であった可能性が高いとされていますが、具体的には絞られていません。
4世紀末から5世紀初頭の築造だと考えられています。

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≪比売久波神社境内にある天井石≫

島の山古墳のすぐ横にある比売久波神社では、島の山古墳の石棺の天井石が、敷石として転用されています。

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≪説明して下さる寺田さん≫

比売久波神社を最後に、太子道&三宅古墳群を巡る行程を終えました。
三宅町は面積4.06㎢の、奈良県で最も狭い市町村とのことですが、条里制の地割も残っており、今回は訪問できなかった所も含めて、古代の大和が凝縮されている地域であると感じました。
今後、多くの方達がこちらを訪問され、またさらに遺跡調査などが進められることを期待いたします。
最後になりましたが、お世話になりました三宅町ボランティアガイドの森内さん、寺田さんにお礼申し上げます。


文 女性グループ  岡村幸子
写真 同  岡村幸子 道崎美幸 寺田麻美

posted by 奈良まほろばソムリエ at 19:42| Comment(0) | 女性G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする