2019年06月21日

記紀万葉サークル6月例会(屋外活動)「大安寺界隈を歩く」

6月8日(土)出席者27名

当日の行程
JR奈良駅―(バス移動)―神殿―東市想定区域―辰市神社―姫寺廃寺跡−大安寺塔院跡−大安寺―大安寺旧境内―杉山古墳―大安寺墓山古墳−野神古墳(解散)

今回は、久しぶりに大人数でのFWとなった。近場で半日の行程というのも良かったのだろうか。

20190621_01.JPG
(東市跡を行く参加者たち)

今回のエリアは、平城京での位置が判りやすく、現状との対比においても興味深いものだった。

東市は左京八条三坊、八条大路に面して4町を占めたとされる。一方西市は右京八条二坊、八条大路に面して4町を占めた。朱雀大路に対してこの非対称の位置取りは何故だったのか。恐らくは、今は消滅した東堀川をもう一坊西に寄せる困難さに原因があったのか。東堀川の源流が佐保川ではなく菩提川であった左証でもあるだろう。現在の東市跡の景観においては、広大な畑地が大路沿いの古い町家と現代の小規模開発の宅地に侵食されてゆく有様が印象的である。

20190621_02.JPG
(大安寺東塔跡にて)

大安寺は左京六条、七条に跨っておよそ16町を占め、伽藍を3重の僧房が取巻き、800人余の僧侶が居住する大寺院であった。特徴的なのは伽藍配置で、南大門と塔院を六条大路が隔て、南大門から見ると遥か南の塔院に七重の両塔が聳えていた。基壇規模は21m四方、高さ1.8m(現状は1m強が地中に埋まっている形で復原)というから凄い。

20190621_03.JPG
(南門を出る参加者たち)
 
現南門は旧南大門跡に当たる。南大門の規模は正面5間(約25m)奥行き2間(約10m)と朱雀門に匹敵する。現境内北に旧境内の経楼跡・北面中房の跡が復原表示されているが、部分的で判りにくい。

20190621_04.JPG
(杉山2号瓦窯復元模型を見学)

大安寺北方の杉山古墳(5C中頃、150mの前方後円墳)は旧境内に取り込まれ、740年代に成立した「資材帳」には池幷岳と記録されている。前方部には数基の瓦窯が構築され、寺の修理に必要な瓦を焼いたと見られる。2号窯の復元模型が傍らの施設で展示されている。

杉山古墳の東にある大安寺墓山古墳(5C中頃、80mの前方後円墳)は古墳らしい隆起はあるものの、近世からの墓地に隙間なく覆われ、言われなければ古墳とは気付かないだろう。

20190621_05.JPG
(野神古墳の石室と石棺)

更に東の野神古墳(5C中〜末、50〜60mの前方後円墳)である。墳丘はひどく改変されてしまったが、近世まで「野神さん」として祀られていたお陰で後円部が守られたのだろうか。竪穴式石室の天井石(縄掛突起付き)と石室の東側壁が遺存しコンクリートと鉄格子によって保護されている。中には2m程の阿蘇ピンク石製の繰抜式石棺(長持ち型と思われる)が納まっている。市街地にこれだけのものが見られるのは稀有な例である。

上記3基の古墳を築造したのは当然ながら同一氏族だろう。さらにまだこれら古墳の2km圏内に、坂上山(油阪町)・頭塔下(高畑町)・吉備塚(同左)といった同時期の古墳もある。奈良盆地北東部、佐保川の左岸一帯に展開する一つの勢力圏を想定する必要があるだろう。

  
文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘


posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:40| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする