2019年11月11日

奈良の歩き方講座(ナラニクル) 「大和路」の発見と創造〜和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、堀辰雄『大和路』を読む〜

講師:池川愼一さん

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令和元年9月15日(日)ナラニクル(奈良市観光協会)において、標記講演会が開催されました。講師は当会の池川愼一さんです。『古寺巡礼』『大和古寺風物詩』『大和路・信濃路』。「奈良・大和路」のイメージを作るのに貢献した3冊です、筆者は奈良・大和路に何を期待したのか?読者はどのように受け入れたのか?名作の魅力をお話下さいました。

まずは、参加者にそれぞれ読んだことがありますか?と聞かれます…さすが!ここに来られる参加者の方は読んだことがある人が多く、池川さんも感心されていました。以下、お話、レジメ、ブログより抜粋しながら、当日の講演の要旨をまとめさせていただきました。

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1.『古寺巡礼』和辻哲郎
和辻哲郎
兵庫県姫路生まれ、1889(明治22)年〜1960(昭和35)年。倫理学者。夏目漱石門下で京大・東大教授を務めました。1918(大正8)年、著者30歳のとき奈良旅行を行い、その紀行文を翌年に出版したのが『古寺巡礼』です。初めての本格的な奈良古美術ガイド、仏教を美術品として鑑賞するすべを定着させたと評価されました。これは和辻の独創ではなく、明治時代後半には、仏像を美術品として鑑賞する習慣が芽生えていました。

聖林寺 十一面観音像
『古寺巡礼』の特徴としてまず挙げられるのは、インターナショナルな視点です。和辻はギリシャ古典を正統とする美意識になじみ、ギリシャ古典への憧れがありました。仏像の起源、伝播ルートへの関心があり、ギリシャ古典文化→ガンダーラ美術→西域→中国→日本という流れの中で異文化の交流と影響を重視しました。

和辻が絶賛した仏像は、聖林寺の十一面観音像です。岩波文庫『古寺巡礼』には5ページにわたって記述されます。池川さんは、その一部を朗読されました。「ギリシャ・インド・中国・日本の文化がこの仏像に融合していると説くのは和辻らしい。感覚的な印象を言葉でうまく表現するのは難しいのに、和辻はものすごい知識・想像力をもって流麗な文章で巧みに表現してくれる。それで感動はさらに深まるでしょう。難しい文章ですが、むしろそういう文章を好んだ読者層(当時の旧制高校学校生や大学生など)がいたのです」。

仏像鑑賞と人格主義
薬師寺聖観音立像、薬師寺薬師如来坐像、中宮寺半跏思惟像、法隆寺金堂壁画観音菩薩像などにも和辻は惹かれます。これらは健康的で理想的な美しさがあります。和辻の美意識の表れです。和辻は仏像は美術品と言いながら、仏教の教義に触れて法悦に浸っているかのように表現します。そこがまた、精神性を求めた人々の心をつかみました。

しかし和辻は、宗教は観念、美術は感覚とけじめをつけて峻別します。和辻の立場を支えたのは、大正教養主義と一体になった人格主義だそうです。人格主義は「仏像を含む偉大な芸術に感動することは、自らの人格を陶冶し高めていく」という考えであり、「だからこそ和辻は、仏像の美術的鑑賞を堂々と宣言できたのでしょう」と。

法隆寺中門のエンタシス
和辻は建築にも力を入れて紹介しました。「伽藍などの建築物も美術的鑑賞になったことは、古寺ガイドとして本書の価値を高めたでしょう」。新薬師寺本堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺三月堂、法隆寺西院伽藍の建物の印象が述べられています。

「法隆寺五重塔は、いろいろな場所から近づいたり遠ざかったり、周囲を回って屋根や軒、組物の変化自在な動きを観察します。それを参考に自分もやってみたいと思わせるような場面です」と。

また、法隆寺中門の柱の胴張りにギリシャのエンタシスの影響が推測されます。ここは有名な箇所ですが、専門家には評判が悪い。これらを結びつける物的な証拠がないからです。他の国にはそのような古い建築が残っていません。エンタシスと胴張りのつながりを否定する説が有力ですが、影響説もまた否定できないということです。

『古寺巡礼』への批判
美術史家の町田甲一は、その著書『大和古寺巡歴』の中で和辻の観照(鑑賞)態度を批判しています。「主観的文学的哲学的観照であって、正しく理解しようとする観照ではない。…作者の作因・美的意図を無視し、それらを越えて、観照者の極めて主観的に誇張された感情を持って極端な受け取り方をしている」と厳しく指摘しました。 町田は、十代から『古寺巡礼』を懐に仏像を巡ったが、だんだん疑問を持ち美術史家として批判するようになったそうです。(この本のことは知らない人も多く、新鮮な驚き・発見だったと感想をおっしゃる方もいました。)

また、文芸評論家の保田与重郎も「伝統的な信仰心から遊離している」と和辻を批判しました。しかし「これらの批判は『古寺巡礼』の魅力と表裏一体の関係で、主観的でも信仰心がなくても仏像鑑賞はできることを示した」と池川さんはおっしゃいました。

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2.『大和古寺風物誌』 亀井勝一郎
亀井勝一郎
北海道函館生まれ、1907(明治40)年〜1966(昭和41)年。東京帝大美学科在学中「新人会」に加わり、大学を中退。1928(昭和3)年、治安維持法違反の疑いで検挙される。保釈後、日本プロレタリア作家同盟に所属するが転向。1935年同人誌『日本浪漫派』を創刊。文芸評論家の道に進む。戦後、宗教的立場から文明批評を試みたという方だそうです。

『大和古寺風物誌』
亀井と大和の出会いは1937(昭和12)年30歳の時。社会運動の挫折から思想的な模索や人生への探求が渦巻いていた時期でした。亀井のこの時期の心境は新潮文庫『大和古寺風物詩』72ページの「仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ずギリシャ彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加を目論んでいたのである。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろう」に示されています。

「この心境は『古寺巡礼』の古美術と向きあう姿勢と一致している。『古寺巡礼』がモデルとなって亀井の旅が始まったのだろう。」というのが池川さんの推測です。それから毎年、春と秋にお寺を巡り、1942年に書きためた紀行をまとめて出版しました。

法隆寺 百済観音像
亀井は美術品としての仏像を鑑賞するつもりで出かけたのですが、思わぬことが起きました。法隆寺百済観音との出会いです。本書58ページの一節を朗読されました。「ほの暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持ちになる。大地から燃え上がった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった」。

「運命的な出会いだった」と池川さん。「仏像は仏である」ことに亀井は目覚めます。亀井の中で信仰が目覚めたということです。仏像を拝観しながら信仰を深めていくという物語が生まれ、求道の書として独自性を持つようになった。そこが読者に強くアピールしたのではないかということです。

美と信仰の両立
この本では、法隆寺百済観音、中宮寺半跏思惟観音、法輪寺虚空蔵菩薩、薬師寺薬師三尊、東大寺三月堂不空羂索観音等が絶賛されます。和辻が美と信仰の峻別に厳しいのに対して、亀井は「美しくなければその信仰を疑う」として美と信仰を両立させました。だから亀井の『大和古寺風物詩』も『古寺巡礼』と同様に仏像の美術的鑑賞の書という性格を持つようになりました。

歴史への強い関心
亀井の関心が強かったのは歴史で、『日本書紀』『続日本紀』を読んで勉強したそうです。『大和古寺風物詩』は、飛鳥時代から白鳳期、奈良時代にかけての古代史の知識が仏像鑑賞に大切であることを教えました。特に聖徳太子と上宮王家の自己犠牲に菩薩行の実践をみて、太子に帰依せんとする心情をつづったとのことでした。

斑鳩の里と西の京の風景
亀井は斑鳩の里と西の京の風景をとても好んだようです。西の京の風景を記した一節を朗読されて、入江泰吉の写真を連想させると指摘されました。入江泰吉は『大和古寺風物誌』を持ってお寺を巡ったらしく、この本が入江の風景の捉え方に影響を与えたというのが池川さんの意見です。

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3.『大和路・信濃路』堀辰雄
堀辰雄
東京生まれ、1904(明治37)年〜1953(昭和28)年。東京帝大文学部国文科卒。旧制第一高の時から室生犀星、芥川龍之介の知遇を受けて文学を志す。フランス文学の影響。日本の王朝文学も。堀が初めて奈良を訪ねたのは1937(昭和12)年だそうで、6回奈良旅行をしています。

興福寺阿修羅像
「『大和路・信濃路』は前述の他の2冊と違って寺院はあまり取り上げません。取り上げても視点が違います」。そのようにことわって、池川さんは新潮文庫『大和路・信濃路』の101ページの阿修羅像のくだりを朗読されます。「堀が一番感動したのは阿修羅像。阿修羅を評価したところが堀らしい。和辻と亀井は仏像の神々しさに感動し、堀は仏像の人間性に共感した」と。

唐招提寺金堂
次は、本書110ページの堀が唐招提寺金堂の柱に手を触れ匂いを嗅ぐ場面を朗読されました。和辻・亀井・堀は三者三様に金堂について取り上げました。「和辻は金堂の屋根、柱、軒の組み物のバランス、亀井は金堂、講堂、舎利殿、鼓楼の伽藍配置に注目し、堀は嗅覚と触覚で建物を味わう。三人の個性が表れます」と。

万葉挽歌=大和への関心
堀はなぜ大和に関心を抱いたのでしょうか。彼は折口信夫の『古代研究』の愛読者です。『死者の書』に感激して二上山を訪ねています。古代人の他界観に興味を持ち、万葉集の挽歌にも非常に惹かれました。だから大和をぜひ見たかったということです。堀は寺を見ても万葉集と結びつかず、大和の山野や村をブラブラと歩くようになって求めていた大和と出会いました。「堀はやはり小説家。大和を舞台にした古代小説を構想したのですが、病気はその完成を許しませんでした」。

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4.「大和路」の発見と創造
「大和路」の発見
「以上3冊を紹介しましたが、これらをもとにテーマを発展させていきます」と池川さん。3人の著者はいずれも大和の自然と、村落の景観の美しさを賞賛します。そこに安らぎと懐かしさを見いだします。古代以来の歴史が刻みこまれている景観です。

人間の作ったものが廃れ自然に返る。その繰り返しの中で、自然と人工が調和した風景ができあがります。住んでいる人達はとくに美を意識しませんが、近代的な知性と感性の塊のような人たちが近代化によって失われる直前の景観の美しさを発見しました。そして「大和路のイメージは、これらの作品から作られた」ということです。

戦前の大和の景観がどのようなものであったかは、入江泰吉の昭和20年代、30年代のモノクロ写真を示して説明されました。「斑鳩の里の白い道、人間や牛が何百年と踏み固めてできた道。西の京の一木一草にしみこんだ古都の余香。人肌が街並みに溶け込んでいるような奈良町の風景。何もない平城宮跡の上に広がる大空。これら入江が写した風景が、和辻や亀井や堀も見た風景です」。

「大和路」の変遷と消滅
「大和路」のイメージは、戦後の奈良観光の大衆化で利用され流布します。「多くの観光ガイドの出版物や観光ポスターは現在も「大和路」のイメージに依拠して観光客を誘っています」。

しかし、1960年代の高度経済成長に入ると、奈良はもちろん日本中の風景が変わり始めます。「いわゆる俗化・観光地化が進行して、大規模開発がそれに拍車をかけた」と。「これにより、土地に刻みつけられてきた歴史が一夜にして消滅し、自然とは調和しないケバケバしい景観に変化しました。和辻や亀井や堀が賛美した景観がどんどん消えていきました」という。古都保存法のような法律もでき規制がかけられましたが、圧倒的な近代化・観光地化の波には無力でした。美学者で明日香保存に力を尽くした寺尾勇さんは1968年に『ほろびゆく大和』を著して、現状を嘆きました。

「大和路」の創造
「入江泰吉は、大和路が現実に存在した頃から、それが変遷し消滅するまでの40年間を大和路の写真家として生きました。モノクロ写真には現実の大和路を記録しましたが、カラー写真を撮るようになった60年代は、大和路が滅びに向かう時期です。画面から人が消え、現代の風俗が入らないアングルを選んで大和の風景を撮るようになります。入江が写したのは歴史の『気配』です。史跡や社寺の歴史的遺構が写っているから歴史があるのではなく、そこからにじみ出る気配を捉えました。80年代に入るともはやそのような気配を引き出せる風景は存在しなくなります。現実の大和路は消滅します。しかし入江が写真の中に創造した大和路は永遠に残るでしょう」と締めくくられました。

最後に
池川さんのブログ「奈良歴史漫歩」(http://awonitan.hatenablog.com/)は、まるで小説のように読み物として楽しめる上に、とても詳しいのにわかりやすくまとめて下さっています。ぜひこの機会に奈良を愛する書物やブログの中に入って、古き良き奈良を旅してみてはいかがでしょうか。池川さん、美しい奥深い奈良・大和路の文学をご紹介いただきありがとうございました。

文:広報グループ増田優子 写真: 鉄田専務理事
  
posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする