2013年09月22日

記紀万葉サークル9月例会「佐保・佐紀を巡る」

(9月14日(土)、参加者21名)

佐保川べりの万葉歌碑に思う
 「打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尒鶏類鴨」8−1433
 大伴坂上郎女は佐保川に因む歌を数多く詠っています。当時、郎女の宅はやはり佐保川のほど近い所に在ったのでしょう。当時の佐保川は水量も多く、今の様な護岸もなく、川べりの道は川原との高低差が殆ど無かったと思います。
 この歌は、郎女が平城の宮から宅へ帰る際に見た佐保川の情景を詠ったとされています。「打上(うちのぼる)」の主語は郎女です。二条大路を東上して来る郎女が佐保川べりに出るのは、佐保の流路から考えて、三坊大路を越えた辺りです。この歌碑は四坊と五坊の間にありますが、歌はこの辺りの情景を詠んだと考えて大きな間違いは無さそうです。とすれば、彼女の宅は此処より東で、佐保川右岸の丘陵地(坂の上)にあったと考えるのが自然です(法蓮町東部〜多聞町辺り)。そして大伴家持邸は其処から西のさほど遠くない佐保の内、それも一条南大路に門を開ける場所と想像するのです。

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 (万葉歌碑を解説)

不退寺(業平寺)で 
興味を惹かれるものが2つ有ります。1つは本尊「観音菩薩立像」です。平安時代(11C)の木造で像高190cmと称しています。高い宝髻と両耳をよぎる三条の鬢髪、簡素な衣文、そして僅かに腰を左に寄せるなどの特徴が有ります。実は、奈良国博にもこれと酷似した「観音菩薩立像(瑞景寺、10C、木造)」があります。特徴もそっくりで像高は189.8cmです。対称的に僅かに腰を右に寄せています。2体が1具だとすれば、阿弥陀三尊の左右脇侍であった可能性が考えられます。因みに、不退寺と瑞景寺はごく間近い所に在るのです。
 もう1つは、庭に置かれた平塚古墳(消滅古墳、5C)の繰抜き式石棺の身です。丸みを帯びた棺底が特徴的ですが、蓋が失われているので全体の形が分りません。へりの部分に多くの「鎌の研ぎ跡」が残ります。後世の農民が砥石として使っていたと言われています。

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 (平塚古墳の刳抜き式石棺(身))

佐紀盾列古墳群 
 古墳群を余す所なく廻りましたが、今回の案内人沖田さんのテーマには「松林苑の範囲の想定」と「古代奈良坂のルートの想定」があったと思います。難しいテーマで、松林苑の東を画すると思われる確かな遺構は見つかっていない(それらしいものは幾つか有るが統一性が認められない)と言えます。古代奈良坂の想定も松林苑の範囲と関わるので厄介です。歌姫越え奈良坂の様に松林苑を廻り込んで北上する道、松林苑の西側を通過する道と幾つかの候補があります。ただ何れの道も木津(の港)に出るものです。それらの道の総称として奈良坂という概念があったのではないかとも思います。

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 (ウワナベ池の畔にて)

 「佐保過而 寧楽乃手祭尒 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣」 3−300
添御縣坐神社にある万葉歌碑を見ていたら、二条大路に開いた北門を出て、朱雀門から宮中・松林苑を押し通って出立して行った長屋王(ながやのおほきみ)一行の姿が目に浮かぶのでした。

 蒸し暑くはありましたが、好天に恵まれました。豪雨によって大きな被害のあった、台風18号の影響が及ぶ前日でした。もう一人の佐保姫(佐保の女神)の加護があったのでしょうか。

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 (磐之媛陵にて)

9月20日 記紀万葉サークル 田中昌弘

posted by 奈良まほろばソムリエ at 20:22| Comment(0) | 交流G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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