2014年05月19日

日本書紀にも登場する「世尊寺から吉野神宮まで」(史跡等探訪サークル)

5月10日(土)  参加者17名

 「史跡等探訪サークル」として、前回の「巨勢の道」に続き連続で晴天!!春になって、ツキが巡ってきたと、わがリーダーの独り言の声が大きくなってきた。

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「吉野軽便鉄道の跡」

 この鉄道は、谷崎潤一郎の『吉野葛』の「妹背山」の冒頭に「ガタガタの軽便鉄道」と書かれている。軽便鉄道と言われますが、軌道幅は1067mmとJRの軌道幅と変わりないのに、軽便鉄道とは・・・設立が容易であることと、将来JRとの接続をめざしたのであろうとの説明をうけました。・・・ナルホド、ナルホド。ソムリエの経験は3年だか、鉄道は40年来のつきあいの小林誠一さんの資料はさすが秀作!!
 設立時には、吉野や下市、五条など和歌山との接続も考え、ローカルで終わらないつもりの、なかなか深い考えの軽便鉄道でもあったことがわかってきました。

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「柳の渡し」

 『万葉集』では「六田の淀」(むだのよど)といわれ、白州正子さんは、「大峰とよばれるのは、この「柳の渡し」から熊野本宮に至る道中を言い。ここから、黄泉の世界へ向かう大峰行は「逆の峰」と言い、還ってくることを「順の峰」と言うのは、起死回生の蘇るための禊の淀であるからだ。」と書いています。万葉の時代からの「淀」で、大海人皇子が薄氷を踏むような気持ちでの吉野への隠棲や、義経と静の別れを前もって、それとなく知らしめる舞台でもあったと思われます。
 今は写真のごとく、明るく、交通量も多い場所ですが、ここから少し上ると、吉野川にせり出した棚のような一角がありました。そこに水難者の菩提を弔うための「身代わり地蔵」が祀ってあり、なんとなくそのお地蔵さんが、「吉野のこの淵で、古の思いに馳せるところですよ」と伝えているように思えるのです。

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「世尊寺集合写真」

 私たちが世尊寺の着いたのは正午前、午後から、大淀町の学芸委員から遺跡の話があるということで、突然、ソムリエの会会員の富田良一さんとばったり!!そこで、富田さんにも入っていただき、記念写真。富田さんがいるせいか、わがリーダーの顔が輝いている。
 
「住職のお話から」
 比蘇寺・吉野寺・現光寺(げんこうじ)・栗天奉寺・世尊寺と移り変わっています。創建当時の伽藍は東西の搭を持つ薬師寺様式で、西搭は早くに消失し、鎌倉期に再建された東搭は(三重塔)は16世紀に豊臣秀吉が伏見城に移し、1601年に徳川家康が近江の園城寺に移建したという。住職から見せていただいた伽藍配置の絵巻では五重塔が描かれていました。

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「オオヤマレンゲ」

 今回オオヤマレンゲが見られるとのことで、すごく楽しみでした。奈良検定のテキストでは、「大峰山の八経ヶ岳の周辺のシラビソ林の樹縁にオオヤマレンゲが群生する。」と、書いてあるので、頭のなかでは、草木のようで可憐な花だと思っていましたが、大木なのでビックリしました。また花も立派で、白木蓮を小ぶりにしたようです。そう云えばオオヤマレンゲはモクレン科でした。香りを嗅いでみましたが、上品な薄くあまい香りがしました。
 それ以外にメンバーから、世尊寺には「なんじゃもんじゃ」の木があると聞いていたので、境内をさがして見ましたが見当たりません。近くに、たまたま居られた大淀町の学芸員さんに聞きましたら、天台烏薬(テンダイウヤク)のことで、このお寺にはありませんとのことでした。テキストでは妹背山樹叢に見られるとあるので、かつて、このお寺で育てていたのでしょう。

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「大峯奥駆道一之坂登り口」の碑

「イザ!!奥駆へ参るとの意気込みとともに!!」
 奥駆の気分を味わおうと、旧道の急坂をしばらく、キッツイですが、登ります。登りきると、絶景ポイント。吉野川を眼下に。先ほど訪ねた、世尊寺あたりまでの道筋が見渡せます。しばらく、杉林の道を登ります。木立が透けた先に、吉野川に架かるトラス橋とガーダー橋が混成する橋梁が見えました。「吉野川の清らかな川面に、単線上路プラットトラスを電車が走る姿が映るのは何とも格別である。」とテキストに書いてある。それ以上の説明は要らない。

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「吉野神宮」

 鎌倉時代も終末になると、悪党が活発になる時代になってきます。悪党とは鎌倉幕府の公権力から、はずれた商人や流通・金融業業者のネットワークなども意味します。地頭・御家人の所領を基礎とする「農本主義」的な政治路線から、商業・金融業者に基礎を置いたいわゆる「非農本主義」の経済路線へと移っていきます。後醍醐天皇はまさにこのような商業・金融を基礎に専制独裁を望んだ特異な天皇でした。当時、為替手形が活発に流通する中で、結局実現しなかったのですが紙幣の発行を計画しています。(吉野神宮前で、休憩のときの伊藤和雄さんが少し話しされていました。)
 このような二つの政治路線が厳しく対立し、大騒乱が起こる結果となります。そして後醍醐の「建武の新政」はわずか2年あまりで命脈が尽きました。14世紀の末に足利義満の政治は、まさに、後醍醐がやろうとして失敗したことを、ほぼ実現することに成功するのです。これ以後、農本主義は背後に退き、しばらくは。商業・金融を肯定する風潮が表舞台に登場してきます。
 1976年に韓国全羅南道新案郡(朝鮮半島の南西部、黄海上に浮かぶ島々)沖の海中から発見された中世の沈没船の新案沈潜(しんあんちんせん)は、東福寺再建の費用を捻出するため1323年「元」の寧波(にんぽー)を出発して日本へ向かった唐船であると推測されます。この時代の背景を象徴している海洋遺跡です。
 京都を望んで北向きに建られた吉野神宮は、京都に帰り返りたくて北面して建立したというノスタルジックな感傷よりも、吉野の聖域からなら、もっと大きく国を憂える思いを、幕府にむけて望んでいると、解釈したい思いになります。


文   史跡等探訪サークル  加藤宣男 
写真  同史跡等探訪サークル 小林俊夫
posted by 奈良まほろばソムリエ at 22:40| Comment(0) | 交流G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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