2018年03月11日

東京の古墳巡り 〜南武蔵の首長墓群を訪ねて〜

東京にも古墳がある。しかも4世紀前半に造られた100m級の前方後円墳が。

関東グループでは「関東にある奈良」をテーマに、これまで関東各地の国府跡・国分寺跡・古墳などを訪ねてきたが、2月11日、メンバー8人が参加し、大田区から世田谷区にかけて多摩川沿いに広がる「田園調布古墳群」「野毛古墳群」を訪ねた。

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スタートの東急多摩川駅から5分ほどの「多摩川浅間神社」。北条政子が源頼朝の武運を富士に祈ったのが創建の由来という。境内から多摩川越しに富士を望むロケーションは素晴らしい筈だがこの日は残念ながら見えず、残念。実は、ここは「浅間神社古墳」(5世紀末~6世紀初頭、前方後円墳・長さ約60m)の上、本殿が後円部墳頂に建っている。ただし、今では前方部は東急線でそっくり削られてしまっている。

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多摩川沿いの尾根に広がる多摩川台公園。ここに100m級の前方後円墳「亀甲山(かめのこやま)古墳」(4世紀末〜5世紀初頭)がある。この古墳は本格的な調査はされておらず、さらに立ち入りも禁止されているため、後円部と前方部の高さがあまり違わないことや、中ほどのクビレの部分もよくわかり、比較的元の形を保っているように見える。

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亀甲山古墳の脇には、大田区内の4〜6世紀の古墳のことがまとめてわかる古墳展示室がある。古墳内部を模した展示コーナーが見所。

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多摩川台公園の中ほどに直径20mに満たない円墳や小さな前方後円墳が8個並んだ「多摩川台古墳群」(6世紀前半〜7世紀前半)がある。それぞれ横穴式石室を持ち、遺物の一部は古墳展示室で見ることができる。

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公園の一番北側に、もう一つの100m級前方後円墳「宝莱山古墳」がある。田園調布古墳群の中で最も初期(4世紀前半)というから、最古の箸墓古墳から半世紀余り後には造られていたことになる。しかし、戦前の田園調布の住宅開発で後円部から鞍部がほとんど削られてしまった。掘削工事の最中に粘土で覆われた木棺が出土している。案内板が無いと古墳とは気づかないかもしれない。

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昼食をとった「兵隊家」という田園調布の蕎麦屋。戦前に住宅開発された田園調布には軍関係者の入居が多かったとか。それも店の名前の由来らしい。

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世田谷区に入って、「八幡塚古墳」(5世紀中)は直径30mほどの帆立貝型古墳。宇佐神社裏山の雑木林の中で住宅地に囲まれながらも異空間を保っている。

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「狐塚古墳」(5世紀後)は今や区の緑地公園として整備され、周囲をコンクリートで固められている。案内板によると、墳形が円墳なのか帆立貝型なのか最終確認されておらず、粘土で覆われていると推定される木棺もまだ掘り出されていないとある。

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「御岳山古墳」(5世紀中期)も住宅街の一角にある。向かいの等々力不動尊で許可をもらい墳頂まで登ることが出来た。規模は野毛大塚古墳に次ぐ直径57mの帆立貝型前方後円墳とされ、戦前の調査で周りに7個の鈴の付いた鏡(七鈴鏡)が出土している。

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「等々力渓谷横穴墓」は、等々力渓谷の壁面に古墳時代から奈良時代にかけて使われ、須恵器や土師器とともに複数の人骨も発見されているという。第3号横穴墓はガラス越しに内部を見ることが出来るが。他は埋まってしまったのか見つけることが出来なかった。

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直径60mの「野毛大塚古墳」は、野毛古墳群の中で最も大きく、玉川野毛町公園内にきれいに再現されている。墳頂にも簡単に登れる。墳丘上からは、裾にとりついた小さな帆立貝型の前方部や造出部の様子が見える。ここの出土品は、一昨年秋に国の重要文化財に指定され、東博でも一部公開された。

見てきたこれらの古墳を築造年代順に並べると、宝莱山→亀甲山→野毛大塚→八幡塚→御岳山→浅間神社→狐塚→多摩川台古墳群となるらしいが、初期にこそ100m級があるものの、南武蔵の古墳は次第に小さなものになっている。これに比べ、北武蔵の埼玉古墳群(行田市)には逆に大きな古墳が築造されるようになった。

6世紀半ば、武蔵国の覇権をめぐって南武蔵と北武蔵で争った歴史の舞台は、大都会東京に飲み込まれながらもかろうじて残っていた。ここから新たな歴史の光が見えてきたら嬉しいなと実感した探訪だった。

関東グループ  原 英男  撮影:宮下 清、西田 暢秀、原 英男

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2016年01月30日

東京都内で奈良を感じる企画展

千代田線千駄木駅から、団子坂を200mほど登ったところに文京区立森鷗外記念館があります。
同館コレクション展「奈良、京都の鷗外―今日オクラガアキマシタ。」が、展示室2で開催中です。 2月7日(日)まで。 開館時間や交通案内など詳細は記念館HPでご確認くださいませ。

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【展示会チラシ】

展示物は撮影不可でしたので、展覧会のチラシを添え、奈良関連の展示物を報告します。
受付をすませ、エントランスの鷗外の胸像を見て階段を下ってまずは展示室1へ。
ここでは鷗外の生涯を紹介する内容でした。

森鷗外(1862-1922)は現在の島根県津和野町に、津和野藩の御典医を務めた森家の長男として生まれ、10歳で上京。
東京医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。在学中には和歌も学んでいたらしい。
卒業後は陸軍軍医となり、ドイツ留学を経験。日清戦争、日露戦争にも出征。
帰国後は軍医をしながら、翻訳や小説・詩歌などを創作した明治・大正期の文豪。
小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』、歴史小説『高瀬舟』など代表作をあげてみると文芸活動の幅広さがわかります。

奈良との関わりを感じたことは…
万葉集の研究者で知られる佐佐木信綱(1872-1963)と親交があり、鷗外が日露戦争へ出征する際には万葉集の本を贈ったのだそう。書簡や信綱揮毫の書幅などが展示されていました。
日露戦争帰国後に鷗外が歌人を自宅に招き歌会を催した際には、橋渡し役を勤めたのも信綱。信綱をはじめ、与謝野鉄幹、石川啄木、北原白秋、上田敏、斉藤茂吉などが参加したのだそう…幅広い交際をうかがい知ることができます。このときの歌会はのちに観潮楼歌会と呼ばれるようになりました。
自宅2階から東京湾が遠くに眺められたため、鷗外が自宅を「観潮楼」と名付け、多くの文人が集った社交場でもあったそうです。この記念館は鷗外旧居「観潮楼」跡地に建てられたもの。

晩年の鷗外は奈良との関わりが深くなっていきます。
1916(大正5)年に陸軍を退職。
1917(大正6)年12月、55才のときに帝室博物館総長兼図書頭となり、翌年から大正10年まで、奈良を訪れて正倉院曝涼に立ちあいました。
このときの宝物の調査などの公務や公務の合間に南都社寺を巡礼したことが、日記『委蛇録』に書かれ、「奈良五十首」はこの4年間に歌われたもの。1首をご紹介します。

 夢の國燃ゆべきものの燃えぬ國木の校倉のとはに立つ國

ときは、明治の廃仏毀釈による社寺衰退の跡が感じられるころの正倉院開封だったこと想像してみる…夢の国だったんだろうなぁ。
他にもいくつか紹介されています。残りの歌や歌意などは、平山城児著『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)に詳しくあります。

日記や「奈良五十首」が発表された『明星』大正11年1月号など展示の一部はデジタルコンテツで見ることが可能でした。漢文で書かれた日記には正倉院に立ちあった人物の名があったりします。どんな人物が入倉したのか探してみるのも面白いかもしれません。

出張中に宿泊した奈良帝室博物館敷地内の官舎の写真、留守番をする子供たち家族に宛てた当時の絵はがきなどもあり、大正初期の奈良を鷗外と旅した気分を味わうことができました。
楽しい企画展をありがとうございました。


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2014年06月21日

會津八一記念博物館(東京都新宿区)

東京都新宿区にある會津八一記念博物館のご紹介です。

早稲田大学の構内にあります。そもそもこの建物は、1925年に図書館として建てられたもので、早稲田大学では二番目に古い建物だそうです。1998年からは、會津八一記念博物館として開館しています。外見は一見普通のコンクリートの建物に見えますが、よく見ると正面の大扉が八角の透彫り窓ガラスで、ものすごく凝った作りとなっています。時代を感じさせます。中に入ると、中央にある階段(現在は立入禁止)上に飾ってある丸額の横山大観と下村観山合作の日本画「明暗」(期間限定展示)がアカデミックな雰囲気を醸し出し、ホールの柱や天井の意匠がさらに優雅な空間を生み出しています。

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(會津八一記念博物館)

ここに會津八一コレクションを始めとして、多種多様な資料が展示されています。一階はホールを中心に区切られていて、左右に大隈記念室、富岡コレクションなどの展示。二階には會津八一コレクションを中心とした資料が展示されています。展示室はアーチを描く天井が一際高く、区切りのない広々とした空間です。あっさりとはしていますが、「ハリー・ポッター」に出てくるようなイギリスの寄宿舎の食堂みたいな雰囲気があります。その昔は背の高い書架で埋め尽くされていたのでしょう。

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(一階ホール・二階展示室)

ここには會津八一関連の資料だけでなく、唐三彩があったり、エジプト考古学の展示があったり、縄文土器があったり、企画展をやっていたりと、案外雑多に展示されています。実際どう見学していいのか戸惑ってしまいます。會津八一関連の資料もまとまって展示されているわけではなく、あっちこっちとバラバラに展示されていました。そういう意味ではちょっとわかりにくい展示の仕方です。展示室には係りの方がいらっしゃるので、手っ取り早く會津八一関連の資料を教えてもらいました。お話を伺うと、奈良から見学に来られる方も結構いらっしゃるとのことでした。

私が訪れたときは、奈良国立博物館前にあった「日吉館」の看板が展示されていました。平成21年まで建物は残っていたので、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。會津八一がこの看板の文字を揮毫するに当たって、看板の体裁だけでなく、文字の彫りを自分の書いたものと寸分違わないよう事細かに指示した手紙が残っているようです。残念ながら館内は撮影禁止でしたので、ゆるいイラストでご想像ください。

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(「日吉館」看板)

他奈良を詠んだ直筆の歌が四幅ほど展示されていました。掛け軸は季節によって変えるそうです。會津八一が集めた瓦や書、絵画等の展示もありました。

昨年奈良では、「會津八一と奈良」という勉強会もあったようですので、ご興味のある方は東京にお越しの際には一度訪れてみてはいかがでしょうか?

(橋口 鈴子)
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2014年04月13日

話題「キトラ古墳壁画」展

4月22日より、キトラ古墳壁画が東京国立博物館で展示されます。

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先日のニュースで壁画が奈良から出発した旨の記事が出ていたので、ご存知の方も多いかと思います。
東京では四神のうち、玄武・朱雀・白虎と十二支のうち、子・丑が展示されます。
場所は本館正面の階段脇奥。どういうふうに見せてもらえるのか詳細はわかりませんが、そう広い展示室ではないので、かなりの混雑が予想されます。

私はキトラ古墳壁画に関する展示を2006年から毎年飛鳥資料館で見てきました。2010年の朱雀を含む四神公開のときは、何時間並んででも絶対見たい!という思いで見に行きました。見終わって「21世紀まで残っていてありがとう!」と素直にそう思いました。時を越えて感動させうるものは、本当にすばらしいものです。

奈良の方の中には、奈良県以外で(今回は東京ですが)奈良県の宝物を展示することに多かれ少なかれ抵抗のある方もいらっしゃるかと思います。
実際2010年の四神公開の時、こんなことがありました。長時間ずらっと並んでいるときのことです。「これも絶対東京に持って行ってしまうんやろ〜」というような内容のことを誰ともなしに言っているおじさんがいました。たまたまその後ろに並んでいたのが、横浜から来た方で「そんなことはないですよ。奈良県のものですよ」的なことをおっしゃっていて、私はその横浜の方の後ろに並んでいて、私もこの壁画が東京に行って保存されてしまうことはないだろうと横浜の方に同感でした。ですがそのおじさんは頑なに不服そうでした。
奈良県のものは奈良県でのみ展示して欲しい(保存して欲しい)という強い思いでいる人もいるんだなぁと、その時思いました。
ただ私は、奈良県にこういうすごいものが残っているということを全国にアピールするには県外で展示をするのはいい機会だと思っています。今回はキトラ古墳壁画の展示ですが、古墳文化や古代史に興味を持ってもらえるきっかけになることもあるでしょう。また飛鳥だけでなく奈良県の知名度も上がり、行ってみようかという動機付けになるかもしれません。それにあくまでも個人的な勘ぐりなのですが、「キトラ古墳壁画展」は、世界遺産登録を目指す国家戦略的(!?)な意味合いもあるのかも?なんて、思ったりもしています。

今回は東京国立博物館で展示はしますが、これが最初で最後になるはずです。(例のおじさんはそれでも不服でぼやいているかもしれませんが…)
明日香村にキトラ古墳壁画を保存する施設を作っているようなので、今後そこで保存公開される予定です。

今回のこの特別展で、一人でも多くの人がキトラ古墳壁画に会いに来て、感動をお持ち帰りしてくれればいいなと思います。
ちなみに東京ではあちこちで宣伝ポスター見かけます。(一枚欲しい私です)

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上の写真は新宿駅で撮ったものです。
東京国立博物館 特別展「キトラ古墳壁画展」 4月22日(火)〜5月25日(日)

橋口 鈴子

posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:00| Comment(0) | 他国便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月20日

「国宝興福寺仏頭展」にて仏頭様に会う

現在、上野の東京藝術大学大学美術館にて、「国宝興福寺仏頭展」が開催されています(11月24日まで)。
4年前、大ブームとなった「阿修羅展」が興福寺の西金堂がテーマだったのに対し、今回は東金堂です。人気、知名度ともに抜群の阿修羅に比べると地味かな、と思っていましたが、
上野公園では他に華やかな展示がたくさんある中で、連休中の会場は多くの人で賑わいを見せていました。

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最初の展示室は、法相宗の経巻や版木、ゆかりの僧の頂相などの展示です。
次の展示室は板彫十二神将像。興福寺国宝館でおなじみのユーモラスな平安時代の十二神将像ですが、今回は東金堂の本尊台座に貼られていたと想定し、十二体すべてが立方体の周囲に貼られた形で展示されています。この展示方法の違いだけで、わずか厚さ3cmの神将たちが立体的に立ち上がって、より躍動的に見えるのには感動しました。

いよいよクライマックスの「白鳳の貴公子」仏頭の展示室へ。
白鳳仏としては非常に大きく、しかも作られた年代(685年)が判明している貴重な像。数々のドラマに彩られ、破損仏としては珍しい国宝指定……と語ると尽きないこの仏頭ですが、今回のトピックスは南都焼き討ち後の復興時に山田寺から興福寺に連れてこられた仏頭と、その眷属として鎌倉時代につくられた十二神将像すべてが、1411年の被災以来600年ぶりに再会する、ということです。まあ、1937年に仏頭が台座の下から発見されるまでは同じお堂の中にはいらしたわけですし、現在もお隣の建物にいらっしゃるのですが、わざわざ遠い東京で、東金堂よりはるかに広いスペースで、堂々の再会です。
展示室に入ると、中央奥に仏頭様。その左右に六体ずつの十二神将像が縦に並び、その間を歩いていくと、仏頭様の真下へとたどりつくのです。
何度もお会いしているとはいえ、わざわざ東京にお出ましになり、大スターとなっている仏頭様の姿は感慨深いものがあり、その周囲をゆっくりと回ります。痛々しい右の横顔。凛々しい左の横顔。後ろ姿は上部の破損がはなはだしいのがよくわかりますが、それでも、その向こうに透けて見える個性的な十二神将を従えて、まったく揺るぎなく頼もしいお姿です。

その後ろには、東京の白鳳仏として名高い深大寺の釈迦如来椅像。白鳳仏らしい、かわいらしいお顔のお釈迦様です。比較すればかなり小ぶりとはいえ、仏頭様の全身像を思い描くよすがとして、ということなのでしょう。その裏では金色の仏頭様の元の姿(頭のみ)のCG復元映像です。

それらをじっくり見てから、再び仏頭様のもとに。周囲を歩きつつ元のお姿を思い浮かべますが、なかなか難しい。
そして、十二神将の間を歩いて遠ざかり、振り返ると、仏頭様は私をじっと見ておられる。まるで「もう帰るのか」と話しかけるように。
それは、時が止まったような、私と仏頭様だけの世界でした。その微笑みは、受難の上に生まれ、数々の受難を超えてきたからこその今のお姿を受け入れ、すべてを超越しておられる。
私はそこを離れがたく、何度も何度も振り返り、そのたび仏頭様は私だけを見つめ、見守ってくださるように思える。きっと、あの会場にいた何人もの人が同じ思いになったことでしょう。

ちょうどこの日、上野公園の広場では、仏頭展のPRを兼ねて、「奈良フェスタin上野公園」が開催されていました。奈良の各市町村によるPRや物販のブース、鹿せんべい飛ばし大会、そしてステージでは講話や武術の披露。私が通った時間は、せんとくんをはじめご当地キャラ大集合。ゆるキャラたちがそれぞれの地域をアピールしていました。ステージが進むにつれ、観客はふえて盛り上がり、最後の「奈良へ行きたくなった人!」の問いかけには大勢の人が手を挙げていました。
このような機会をきっかけに、奈良の魅力を知り、訪れる人が増えるよう、願ってやみません。

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(AYU)
posted by 奈良まほろばソムリエ at 06:55| Comment(0) | 他国便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする