2012年08月16日

奈良を偲ぶよすが(1)−旧十輪院宝蔵

                              東国便り

 この校倉は現在東京国立博物館の法隆寺宝物館の傍らに建っている。
もとは奈良市十輪院境内にあったもので、明治15年5月に移築された。

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 鎌倉時代に造られた間口、奥行きとも173cm、高さ439cm、宝形造の建物で校倉としては最も小さい。内部の壁には釈迦十六善神像が描かれており、大般若経の経蔵として造られたことがわかる。

 軒は垂木を用いず、板軒になっており、また建物の四方の腰に十六善神を線彫りした石をはめているのも珍しい。昭和28年8月重要文化財に指定。(現地説明板より)

azekura2.jpg 南西面(正面)の腰石板

azekura3.jpg 北西面の腰石板
※画像をクリックで拡大

by 佐吉多万比古


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2012年06月28日

下総国府・国分寺跡と真間の万葉旧跡めぐり

6月24日(日)、梅雨の晴間のさわやかな一日を、新メンバーも加えた関東メンバーで、奈良を感じるツアーの第3回、下総の国の国府や国分寺があった市川周辺を散策しました。

東京から行くと、県境の江戸川を渡り千葉県に入ってすぐ。JR市川駅を9時半に出発。まずバスを降りた停留所もその町の名も「国分」。坂道を5分ほど登って台地の上に上がると、住宅の中に「下総国分寺跡」があります。現在も真言宗の「国分寺」という寺院です。

nanndimonn.jpg 国分寺山門
南大門が1/4の大きさ(多分面積)で復元されています。「金光明四天王護国之寺」の扁額も飾られています。

kinen.jpg 本堂をバックに集合写真
現在の本堂は、当時の金堂の上にあるのだそうで、礎石が庭に並べられています。法隆寺式伽藍で、本堂裏の墓地が講堂跡、高さ推定60mの七重塔跡は本堂の左のほうに位置を示す碑のみが立っています。

housougemon.jpg 出土瓦から復元された軒丸瓦
下総国分寺で特徴的なのは、使われた瓦の「宝相華文」。新羅系ともいわれ、復元門はもちろん、本堂にもこの瓦が使われていました。

気持ちのいい台地の上の住宅地を数分歩くと「下総国分尼寺跡」。以前「昔堂」と呼ばれた土地で、金堂、講堂跡は公園になっています。
金堂跡。往時は向こうに国分寺の七重塔が見えていたはずです。
niji.jpg 国分尼寺金堂跡

「国分」の台地を下り、谷を挟んでまた坂を上ると、そこは「国府台(こうのだい)」。
現在スポーツセンターや大学の敷地になっている一帯が国府域で、古代東海道も通っていました。「下総総社跡」の表示だけがここに国府があったことを偲ばせます。
souja.jpg 国府跡(下総総社跡の碑)

この台地には、国府だけでなく、それに先行する勢力だった豪族の古墳も点在します。
大学構内の「法皇塚古墳」を見学しました。6世紀後半の前方後円墳です。
hououzuduka.jpg 法皇塚古墳
犬の散歩にいらした地元に長年住む方に、お話を聞いています。

近くの「里見公園」で、買ってきたお弁当を広げ、その後、戦国時代の城跡である公園内を散策します。土塁の一部となった古墳やその石棺などもあります。

satomikouenn.jpg 里見公園から西方を望む
公園から江戸川の向こうの東京の下町が一望できます。もちろん話題のスカイツリーも。その向こうに富士山が見えることもあるそうです。

「木内ギャラリー」という明治期の洋館を見学したあと、地元の方が「真間山」と呼んで親しむ弘法寺へ。中世以降は日蓮宗寺院になっていますが、寺伝では「行基建立」。すぐ裏が国府跡の遺構がある大学ですから、国府に関連する古代寺院だったかもしれません。
guhouji.jpg 弘法寺仁王門

弘法寺の急な階段を降りると、そこがかつては入り江がはいりこんでいたという万葉の故地「勝鹿の真間」です。この地に複数の男性から言い寄られて自ら命を絶った「手児名」という美女がいた。そのことが山部赤人や高橋虫麻呂がこの地を訪れたときには、すでに伝説になっていたというのです。
勝鹿の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ(万葉集巻3-433)
という赤人の歌に代表される「真間」の歌が数首あります。文亀元年(1501)に建立された「手児奈霊堂」のほか、手児名が水を汲んでいた井戸、なんてものもあって、永い時を越えてきた伝説を今に伝えています。

tugihasi.jpg 真間の継橋
足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ(万葉集巻14-3387)
の歌に詠まれた「継橋」が霊堂近くに再建されています。下に川は流れていないのですが。

tennbou.jpg I-linkタウン展望デッキより
最後に、市川駅近くの展望台へ登り、45階の空から総復習。江戸川と国府台台地、その手前が真間の町です。東京の隣の町を歩いた、盛りだくさんの一日でした。

AYU
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2012年04月22日

ボストン美術館―日本美術の至宝展 を観ました

キャッチコピーは「まぼろしの国宝、ニッポンに帰る」
フェノロサや岡倉天心に始まるボストン美術館の日本美術収集は今や10万点を超え、海外にある日本美術コレクションとしては世界随一の規模と質の高さを誇ります。
本展はその中から厳選された約90点を展示します。
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その見ごたえのある作品群の中から奈良につながりの深いものを2つご紹介します。

boston02.jpg 法華堂根本曼荼羅図
東大寺法華堂に伝わったとされる奈良時代の仏画。

昨年十月に法華堂の須弥壇解体修理に際して見つかった仏像8体分の台座跡から戒壇院の四天王像が当初は配置されていた可能性が高いと発表された。ただでさえ仏像密度の高い法華堂にこの曼荼羅図はどこに掛けられていたのだろう。

その本尊の顔立ちは丸く穏やかで、東大寺大仏の蓮弁毛彫り像とも似通った優しい表情です。両脇侍とともにお顔の線が補修されたかのようによく残っています。衣の赤も古代の澄んだ色と見えました。

boston03.jpg 弥勒菩薩立像
快慶作 鎌倉時代・文治5年(1189) 
鎌倉時代を代表する仏師の一人快慶の作品中で、現存する最も若いときに造ったとされる像で興福寺に伝わったとされています。

繊細さ、優美さはその片鱗を表しているもののまだ快慶全盛の域までは達していないように思います。特に横から見ると棒立ちで動きが感じられません。
顔は運慶の円成寺・大日如来像のように頬に張りがあり少年のような若さが感じられるのは作者の年齢によるものでしょうか。

東京国立博物館での会期は6月10日(日)までです。
大阪市立美術館での巡回は2013年4月2日(火)〜6月16日(日)の予定。

皆さんはボストン美術館の分館が名古屋市にあるのをご存知でしたか。
名古屋ボストン美術館での巡回は2012年6月23日(土)〜9月17日(月・祝)・2012年9月29日(土)〜12月9日(日)です。

by 佐吉多万比古
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2012年03月21日

万葉集 東歌その2−小崎沼

  武蔵の小崎の沼の鴨を見て作る歌一首
埼玉(さきたま)の小崎(をざき)の沼に鴨ぞ翼(はね)きる 己(おの)が尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし


[原文]前玉之 小崎乃沼尓 鴨曾翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯 (巻9・1744)

[大意]埼玉の小崎の沼で鴨が翼を強くふるってしぶきを立てている。自分の尾に降りた霜を払い落すということらしい。(『日本古典文学大系』)

   ――――― ・ ――――― ・ ―――――

今回は埼玉県行田市埼玉にある埼玉県指定旧跡 万葉遺跡「小崎沼」を紹介する。
国宝辛亥年銘鉄剣で有名な稲荷山古墳を含む埼玉古墳群から東へ約2.5qの田畑の中に小崎沼はある。

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小崎沼は田畑に囲まれた森の中にある。(2011年10月16日撮影)

現在は沼の北500mには旧忍川が流れているが、縄文海進の頃にはこのあたりまで東京湾が入り込んでいた。
周辺には最近まで大きな沼があり、万葉時代には沼の多い湿地帯であったと思われる。

埼玉古墳群は5世紀後半から7世紀初めごろまでに築造されたと考えられ、小崎沼の付近はこの地方の有力者の住む地域に隣接した場所であったと想像される。

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小崎沼は小さな池のような跡になり水も枯れていた。

写真中央には水神社が祀られている。左端の大きな石碑は小崎沼史跡保存碑(1925年建立)である。

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武蔵小崎沼の碑。

宝暦三(1753)年に忍城主・阿部正因によって建立された。背面には「埼玉」が詠まれた万葉歌2首が刻まれている。1首は表題歌で、もう1首は次の歌である。
・埼玉の津に居る船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね(巻14・3380)

地図には尾崎沼神社と表記があり、鳥居も立っている。隣接地には天祥神宮が祀られているが、これは近年に祭祀されたものという。

by 佐吉多万比古
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2012年02月26日

上総国分僧寺・尼寺と古墳を訪ねて

2月26日(日)午前9時、東京駅に集合して千葉県市原市へ向け出発した。蘇我駅でJR内房線に、五井駅で小湊鉄道に乗り換え、上総村上駅に到着して歩き始める。

最初の目的地は諏訪台古墳群である。弥生時代中期の方形周溝墓から古代の墓まで墓の築かれ続けた遺跡で、古墳時代の墳墓は170基が発掘されている。

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・諏訪台10号墳 円墳 径約40m

上総国分僧寺跡には江戸時代に復興された国分寺(真言宗豊山派)が金堂・講堂跡付近に建っているが、伽藍区域は保存地区として保存されている。しかしまわりの付属施設(政所院、講師院、僧坊、花苑など)を合わせた寺院地は南北約478m、東西は中央部で345mあり、約139,000uの面積であったことが外郭溝の発掘でわかっている。

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・高さ60mあったとされる七重塔の礎石

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・遺構位置を示す復元柱のある西門跡

神門(ごうど)5号墳は全長38.5m、高さ5mのいちじく形で、3世紀後半に築造された前方後円墳の先駆けとなった古墳である。

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・北側から見た神門5号墳(前方部は右側になだらかに下る)

上総国分尼寺の寺院地は南北372m、東西が北辺で285m、面積が約123,000uあり、今のところ国分尼寺としては諸国最大で大和法華寺に匹敵する規模である。

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・史跡上総国分尼寺跡展示館にある復元模型

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・創建時の工法で復元された中門と回廊

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・復元された灯籠と金堂基壇・須弥壇

稲荷台1号墳記念広場は昭和52年に話題となった「王賜」銘鉄剣が発掘された場所である。実際の古墳はすでになく、3分の1の大きさで墳丘を復元してある。鉄剣は5世紀中頃の古代国家成立期における畿内と東国の結び付きを知る資料となっている。

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・1/3復元墳丘と説明板

ソムリエ交流部会関東サークル 奈良を感じるツアー第2回の速報でした。詳しくは後日ホームページで報告いたします。
posted by 奈良まほろばソムリエ at 20:33| Comment(0) | 他国便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする