2013年12月22日

記紀万葉サークル12月例会

12月14日(土)参加者18名

「葛城王朝」という特殊なテーマがあったため、案内役の方は説明に苦慮されたのではないかと思います。夫々の「宮跡」の素っ気無さと、御陵として築かれた立派な石囲いの間のギャップに空々しさを感じない訳にゆきません。しかし、御所市東部の平地を行くコースは普段なかなか歩く機会が無いので、企画としては良かったのではないかと思います。
鴨都波神社は、弥生時代中期に鴨一族が耕作の神を祀ったのが創始とされます。神社下層の鴨都波遺跡を考え合せる時、鴨族という存在が実感出来たのではないでしょうか。
吉祥草寺へ向う途中、寺内町(圓照寺の寺内町が町名に)を抜けて行きました。ウダツを掲げた近世の町屋が軒を連ねていて、なかなかの趣がありました。

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(寺内町を歩く)

吉祥草寺は役小角誕生の地に建てられたと伝えられます。しかし産湯の井戸はご愛敬でしょう。本堂の五大明王を拝観させて貰いましたが、奈良では五大明王5体が揃って祀られているお堂は少ないので、由緒など分れば良かったという気がします。

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(吉祥草寺門前にて)

町なかを外れると冷たい風が吹き渡ってきました。暫く風の中をひたすら歩き、工事中の京奈和道の橋脚が並ぶ荒れ地を過ぎて行くと突如大きな発掘現場が現れます。古墳時代前期から後期まで続いた秋津遺跡です。大勢の人々が発掘に従事していました。夏も冬も無い発掘作業には頭が下がります。現在は竪穴式住居跡の下層にある水田耕作の状況を調査しているという説明書きが掛かっていました。

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(秋津遺跡の発掘現場)

宮山古墳は今回で3度目になりますが、樹木が次第に生い茂り外見が分りにくくなってきました。全長約240mの大前方後円墳で、葛城地方の盟主墳です。築造は5世紀初めとされ、被葬者については周知の通り葛城襲津彦説があります。後円部にのぼると天井石が1枚外れた竪穴式石室の一部が露出しています。覗き込むと大きな縄掛突起の付いた長持形石棺が確認出来ます。この石棺材(加古川産の竜山石)と竪穴に積まれた板石(紀ノ川産の緑泥石片岩)やその運搬経路を考えた時、被葬者一族と紀ノ川・紀伊水道一帯に勢力を張った一族との緊密な関係が浮かび上がる様です。

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(石室に興味津々)

全体を通じて寒い1日でしたが、行程の終盤には時雨れてきて金剛山に降りかかる雪が風に流され平地にも舞っていました。予定よりかなり早いバスに乗ることが出来、無事御所駅に帰着しました。駅前のカフェで熱いコーヒーを飲み一息つきました。
資料の準備や案内を担当された富田さんと河井さんには大いに感謝を致します。

文と写真 交流G記紀万葉サークル 田中昌弘


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2013年11月24日

「紅葉の浄瑠璃寺・岩船寺・当尾の石仏を訪ねる」感想記

11/17(日)実施・・・参加者21名

紅葉を求めた史跡等探訪サークル主催のウォーキング当日は、絶好のウォーキング日和となりました。
コースは、近鉄奈良駅バス停→浄瑠璃寺口→ツジドウの焼け仏→浄瑠璃寺→薮中磨崖仏→愛宕灯篭→笑い仏→みろくの辻磨崖仏→岩船寺→大門阿弥陀磨崖仏→浄瑠璃寺口→近鉄奈良駅バス停
南都の仏教が変貌し、藤原の貴族文化に併合されつつも、色濃く南都の仏教を伽藍に残し、室町・鎌倉で大衆の祈りと信仰へと展開してゆく仏教を今に映す「当尾(とうの)の里の石仏」を巡りながらの一日となりました。

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[ウォーキング前のストレッチ]

全行程10キロほどの行程ですが、全員でストレッチして、体を軽やかにして準備OK。イザ出発!!

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[西小五輪塔(鎌倉時代)]

浄瑠璃寺へ登ってゆく途中、西小地区墓地の入口に反花座(かえりばなざ)を備えた大和系五輪塔の代表作で、重要文化財の五輪塔(鎌倉時代)が二基あります。正面から向かって左は台座に複弁反花座の側面に「格挫間(こうざま)」と呼ばれる装飾あるとの説明で、それを探すメンバー。

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[紅葉の浄瑠璃寺の山門]

「最初、僕たちはそのなんの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危うく其処を通りこしそうになった。」『浄瑠璃寺の春』(大和路・信濃路:堀辰雄)
「山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や壁や松の木など野趣に充ちた風情をながめた時に、私はそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。」『浄瑠璃寺への道(古寺巡礼:和辻哲郎)』
この浄瑠璃寺の門をくぐり、ほんの少しだけ進むと、さほど広くない庭園に、東方から西方へと渡る広大な浄土世界が表現されていました。

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[紅葉の中の浄瑠璃寺の三重塔]


浄瑠璃寺住職の法話より
・阿弥陀堂には九体の阿弥陀さまがいらっしゃいます。極楽には上品上生から中品中生をへて下品下生まで九つの極楽の階層があって、この世の行いによって往生する階層が決まってきます。しかしこの世の自分は、どの階層に往生するか分からないので、間違った階層の阿弥陀さまをお祈りしてしまうかもしれません。ですから一体ずつ九体の阿弥陀さまをお祈りすることも良いのですが、東にある三重塔から阿弥陀堂に向かってお祈りをすれば、九体すべてが一度にお祈りできて、すべての阿弥陀さまにお祈りができます。・・・・・・なーるほど、ガッテン!!

・本堂には不動明王さまがいらっしゃいます。向かって右側が、やさしい「衿羯羅童子」左に知恵の杖を持った力強い「制多迦童子」との三尊です。今日は「やさしさ」が足りないなァー」と思うときは右の「衿羯羅童子」を、「力強さ」が足りないなァーと思うときは左の「制多迦童子」を丁寧にお参りしてください。それでも何か足りないなァーと思う時は、両方丁寧にお参りしてください。・・・・やさしさも、力強さも足りネーなァー、両方共お祈りしョーと!

・吉祥天女さんは、最初からお願いごとをするのでなく、一度懺悔をしてから、お願い事をすると良く聞いていただけるので、懺悔からお祈りしてください。・・・・嫁さんはこんな美人ではないけれど、嫁さんに懺悔するようで嫌だなァー・・・お祈り、知らぬ顔して行こうか?

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[岩船阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏・鎌倉時代)]

当尾石仏群で最も有名な石仏です。伊行末の子孫、伊末行が作者です。脇侍に蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩は、来迎阿弥陀図を思わせる構図です。阿弥陀さまは彫りが深く、陰影がハッキリして本当に微笑んで、いらっしゃいます。
石仏は、こけ蒸したしジメジメした暗いところに座することが多いのに、この笑い仏さまは燦々と降り注ぐ日光のもとに座して笑っていらっしゃって当尾の石仏全体の印象を、とても明るくしています。

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[本日参加のメンバー写真・・岩船寺本堂横から]

岩船寺住職の法話より
・本尊の阿弥陀如来さんは納衣に朱が残っており、珍しい朱の納衣を召しておられます。
・本堂右奥の白象に座しておられる普賢菩薩さんは三重塔の本尊でしたが、今は本堂に移って頂いています。
・本日は天気も良いので特別に三重塔を開扉していますので、参拝していただけます。

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[岩船寺の三重塔の内部壁画]

来迎壁の背面・五大明王像と板戸・羅刹天・水天が描かれていいますが、これは建立当初の文様・色彩及び壁画が明らかになり平成十五年に復元されたものです。チベット仏教曼荼羅のように見えました。

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[岩船不動明王磨崖仏(一願不動)]

たった一つだけ、一生懸命お願いすれば、叶えてくれるという一願不動さん。皆さん、解説者はほったらかしで、不動明王さんを見上げて「ねがい」をかけているようです、はたして何を願っているのでしょか?

* * * * * * * *

浄瑠璃寺は藤原時代を代表する宇治の平等院のような華麗さはなく、むしろ円成寺のような山村に、王朝貴族が競って創建した九体寺を唯一残した寺である。当尾の里の寺院は、興福寺の末寺として、僧侶が阿弥陀如来を中心に石仏や磨崖仏を刻み修行の場とした。その石仏が大衆信仰に結びつき、さらに地蔵を中心とした石仏や板碑や墓碑が残った。無形の文化として江戸末期に岩船寺の白山神社に見える「おかげ参り」の祭りも残った。いわば奈良時代を源流として、藤原時代に思いを寄せ、鎌倉から江戸時代まで、高きから低きへ、仏教文化がゆるやかに流れてゆき、大衆化してゆくさまを垣間見せてくれる思いにとらわれ、いにしえを偲んだよき日でした。

文:交流G史跡等探訪サークル 加藤宣男   写真:同 小林俊夫
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2013年11月17日

公民館講座活動サークル報告とお知らせ

今年4月から若草公民館(多聞城跡近く)と西部公民館(学園前駅前)で始めた「奈良をもっと楽しむ講座」に加えて、7月からは中部公民館(三条通り)でも「歴史講座」を始めました。

「歴史講座」は、過去の検定1級問題を題材に、正解を答えるだけではなく、なぜ正解なのか、なぜ間違いなのか、どう云う出来事なのかなどを解説する内容で、検定問題は地理・歴史・社寺・古墳・文学・産業・伝統行事と配分よく、教材としては最適で、またその内容から、検定の各級を目指す方達が多く受講されています。年が明ければすぐ検定試験、数年前の気持ちが甦りますね。
講師側から、我々の受験時もこの様な講座があれば受けたかったとの声もあります。
奈良市だけでは無く10月からは、橿原市の中央公民館でも歴史講座を始めました。こちらはまだ立ち上げたばかりで、受講希望者も少ない状況ですが、来年も続けてゆきますので、皆様のお知り合いで受講希望者おられればご紹介下さい。

座学だけではありません、10月27日には、各公民館の受講者で合同の「當麻ウォーク」をガイドサークルにお願いして開催。好天にも恵まれ、楽しく詳しい解説も聞けて、大満足の一日でした。こういったコラボ企画も続けて行きます。

「奈良をもっと楽しむ講座」は、
若草公民館で第二金曜日
西部公民館で第四水曜日

「歴史講座」は、
中部公民館(奈良市)で第二・四土曜日
中央公民館(橿原市)で第一・三土曜日

公民館や日付の都合で変更する場合がありますが、上記日程が基本です。
総ての講座とも午前10時〜約2時間。
若草と橿原市中央は受講者に余裕が有ります。

講師希望者も募集中です。ソムリエの知識を生かす良い機会で、自分自身の復習にもなりますよ。
ご応募おまちしております。

問い合わせ先: 西川 誠 makoto.4489@kuc.biglobe.ne.jp
posted by 奈良まほろばソムリエ at 17:48| Comment(0) | 交流G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月27日

記紀万葉サークル10月例会

10月13日(日) 参加者23名

記紀万葉サークルの10月の例会は、8月の例会で小野さんが説明した「纏向遺跡」と私がお話した能『三輪』のゆかりの地を訪ねる「山辺の道」のコースでした。
まずは、「海石榴市跡」から「金屋の石仏」、「崇神天皇磯城瑞籬宮伝承地」を廻りました。今回のコースは、多くの万葉歌碑を巡るコースでもあり、田中リーダーから歌碑や古代の「海石榴市」は大和川(初瀬川)の対岸にあったという説明を聞きました。

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[金屋の石仏]

「大神神社」では、『三輪』ゆかりの「衣掛杉」や「しるしの杉」、「巳の神杉」などの ご神木をご案内し、「狭井神社」へ。皆さん、境内のご神水・薬井戸の水をいただいておられました。
大美和の杜の休憩所で昼食を取った後、「檜原神社」へと向いました。途中、ここも能『三輪』ゆかりの地である「玄賓庵」に立ち寄り、かつては檜原谷にあったのが、明治時代の神仏分離により現在の地に移されたというお話や玄賓僧都についてのお話をさせていただきました。「檜原神社」からは一路西へ下って行きます。
ここからの説明は小野さんです。最初の古墳は「盾持ち人埴輪」の出土で有名な「茅原大墓古墳」。前方部が北を向いているのは珍しいそうです。「慶運寺裏古墳」では、本堂のすぐ裏に石室の入り口があるのにびっくり!実際に中に入って、石室の大きさを体感しました。

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[慶運寺境内の石棺材]

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[ホケノ山古墳後円部上にて]

上ツ道にひっそりとたたずむ、『古事記』ゆかりの「環緒塚」を見た後、「箸墓古墳」へ。半周して、その大きさを実感。横の大池にたくさんの金魚が養殖されているのにも驚きました。続いて訪れた纏向古墳群は、埴輪や葺石が見られないことから、弥生時代末期の墳丘墓と見るか古墳時代初期の古墳と見るのか、位置づけが難しいとの説明を聞きました。今日のメインの一つである「纏向遺跡」の中心、JR巻向駅前の大型建物跡が出土した場所は、今はすっかり埋め戻され空き地となっています。桜井市により立てられた遺跡の説明板により、発掘の様子などをうかがい知ることができるだけでした。説明を聞きながら、それぞれに、当時の建物の様子を思い描いたことでしょう。

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[箸墓にて・・・この日の参加メンバー]

途中、大美和の杜展望台と、井寺池からは、奈良盆地の美しい風景と三輪山の美しさを堪能しました。
1つのコースの中で、歴史の舞台と文学・芸術の舞台という異なったものを楽しめる、奈良の奥深さを感じることのできた1日だったと思います。

文:交流グループ記紀万葉サークル 沢田れんげ  写真:同 田中昌弘
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2013年10月12日

「文学の小窓からの風景 第5回目(最終回)―坪内逍遥『役の行者』」 講演会感想記

10/5(土)実施・・・参加者54名   「三和大宮ビル 6階会議室」

今年2月に始まった「文学の小窓からの風景」講演会も、この日で最終回となりました。

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[全5回ご講義の浅田隆先生]

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[10/5最終回の講演の演目]

まず、司会の小林誠一さんが、この日に備えて坪内逍遥著『役の行者』を読もうと本を探したけれど見つからず、その代りに大峰山寺を訪ねたというご自身のエピソードに続いて浅田先生を紹介しました。

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[本日の司会の小林誠一 さん]

浅田先生は紹介を踏まえて、『役の行者』は現在手に入りにくい状況であること、この作品については最後に触れることとして、本日は「役の行者」伝承を中心にお話しするとして、講演は始まりました。

【役の行者信仰の生成】
奈良は、歴史が古く人間の営みが長いため説話や伝承が最も多い場所のひとつだが、その中でも全国で通用するのは役の行者に関するもので、各地に伝承が残っている。富士登山の最も古い記録も役の行者の伝承である。
伝承が発生した背景の一つとして山岳信仰があげられる。古代人の理解としては、山は太陽が生まれるところであり、また、水が湧き、猛獣など恐ろしいものがたくさんいるところとして信仰の対象であった。山の神霊と心を通わせるシャーマニズムが起こり、山岳の霊力を身に着けようとする行者・山伏が現れた。
山岳信仰から発生した修験道は、奈良時代以降、神仏習合により大日如来を本仏とし、平安時代になると、同じく大日如来を本尊とする密教と結びついた。比叡山延暦寺は平安京の鬼門の方角に建てられ、鎮護国家の寺とされたため、天台宗の修行の場である熊野には皇族や貴族が盛んに詣で、「蟻の熊野詣」と言われるほどの盛況となった。そして、その熊野と真言宗系の吉野山を結ぶ行場を開いたのは役の行者であると言われるようになった。

【信仰説話の生成】
続日本紀(796年選上)や、日本霊異記(822年成立、787年とも)に記載されていることで、役の行者はその活躍時期から100年後には伝説の人となっていたことがわかる。その後も多くの書物に記載され、時代を経るにしたがって内容も豊富になっていった。
信仰説話の生成は、修験道の唱導師による。唱導師は自己の信仰に信者を引き入れるために、聴衆の反応をうかがいつつ臨機応変に霊験譚を組み立てていく。長く伝承した説話は、時代を超えて人々に支持されていることを意味し、また繰り返されるたびに聴衆の願望・祈願・悲願を吸収し肥大していった。

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[10/5(土)の浅田隆先生の講演風景]   

【役の行者故地】
・吉祥草寺(御所市) 役の行者出生地、産湯の井戸がある。
・鬼取町(生駒市)  役の行者が二鬼を捕えた。
・滋光寺(東大阪市髪切(こうぎり)集落) 前鬼・後鬼の頭髪を埋めた。
・千光寺(平群町)  役の行者が大峰山を開く前に修行をした。元山上と呼ばれる。 
・前鬼村(下北山村) 前鬼・後鬼の子孫が宿坊を営む。

【近代文学作品】
坪内逍遥は評論『小説神髄』で小説の改良を提唱、自身でも『当世書生気質』などの作品を発表した。『役の行者』は戯曲で、説話では一方しか出てこない一言主と廣足がともに登場することが特徴。
他の近代文学では、黒岩重吾『役小角仙道剣』がおもしろい。

最後に、奈良まほろばソムリエの会鈴木英一理事から、浅田先生には会の自主勉強会で引き続き「会津八一と奈良」と題してご講義をしていただくことが紹介されました(詳細は、本ホームページ「お知らせ(会員向け)」をご覧ください)。
浅田先生、長い間ありがとうございました。これからも引き続きよろしくお願いします。

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[講演に対する感謝の花束贈呈]

文:交流G史跡等探訪サークル 吉田英弘   写真:同 森原嘉一郎

posted by 奈良まほろばソムリエ at 17:29| Comment(0) | 交流G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする