2013年10月05日

「幻の大仏鉄道の遺構を訪ねて」 ウォーク感想記

9/29(日) 実施・・・参加者35名   

史跡等探訪サークル主催では、久しぶりの絶好のウォークキング日和でした。
コースは、JR加茂駅集合→観音寺橋台→梶ケ谷隧道→赤橋→梅美台公園(昼食)→鹿川隧道→黒髪山トンネル跡→大仏鉄道記念公園[一次解散]→JR奈良駅解散
今回は、『大仏鉄道研究会』の三宅 学さんの案内ガイドで楽しい遺構めぐりハイキングとなりました。

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[大仏鉄道研究会 三宅さんのコース説明風景]
・・・大仏鉄道研究会事務局長前川さん・高橋さんも参加

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[昭和34年に天皇・皇后陛下を、けん引したC57蒸気機関車]
・・・マニア盗難対策の高い鉄製の柵だとのこと。

大仏鉄道とは、四日市に本社があった関西(かんせい)鉄道(株)が大阪への進出の意図を内に秘めて、現在の関西本線の加茂駅と奈良駅を結ぶ路線として開通させた鉄道路線の総称です。明治31年(1898年)4月19日に加茂〜大仏駅が開通し、名古屋・伊勢方面からの大仏詣で客が大勢利用し始め、東大寺転害門に通じる一条通りが大いに賑わい大仏線は花形路線でした。
明治32年(1899年)5月21日に念願の大仏駅〜奈良駅間が開通し、大阪鉄道に乗り継ぎ交通の便も大幅に改善されました。また、明治33年以降は、名古屋から加茂・大仏・奈良を経て湊町(現在のJR難波駅)までが関西線の本線となり重要な路線となりました。その結果、奈良駅からの利用客は増加しましたが、大仏駅の利用客が減少してしまいました。
また、大仏線は、急坂の黒髪山トンネルを越える難所や起伏の多い路線を抱えており、加茂〜木津間に新設された平坦路線が明治40年8月に片町線・奈良線とともに木津駅に直結することになったため、大仏線は休止においこまれました。鉄道の国有化法が明治39年に成立し、大私鉄会社17と主要路線が国有化され、明治41年11月に廃業となり、わずか9年という短い生涯でした。
大仏線は、営業期間の短い田舎の小路線であり、国有化直前に営業休止したため、当時の資料が乏しくその全貌を知ることは、困難であることから「幻=まぼろし」の大仏鉄道と呼ばれています。

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[鹿背山を右手にみながら歩くメンバー]
・・・稲穂の黄金色がまぶしい。

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[観音寺併走橋台(アボット)手前が大仏鉄道、奥が現JR大和路線]
・・・・築堤(ちくてい)、石橋が一体となり、今にもSLが走ってきそうな景観が残っています。大仏線は起伏が激しく数も多く、谷や低地には、土盛りの築堤(ちくてい)で平坦な線路とし、その築堤が全路線の1/3以上を占めています。

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[赤橋にて・・・・・本日参加のメンバー]
・・・現在もこの上の市道を支えている。100年以上も経っているが、堂々としたレンガの赤色が実に素晴らしい。 

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[鹿川隧道]
・・・現在も農業用水路として使用されている。石組みが力強くて美しい。

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[現在切通となっている黒髪山トンネルの跡]
・・・このトンネルの周辺は、1000mで25mも登るきわめて勾配のきつい難所です。昭和41年にこのトンネルがつぶされましたが、その当時、小学生の悪童だった私は、2度ほど自転車でワザワザ冒険と称して通り抜けをし、大変な高さがあったことが記憶に残っています。それもそのはずで、新幹線と同じ軌間への改造計画を視野に入れて造られたそうで、この関西鉄道の先進的な考え方がのちの新幹線誕生へと受け継がれたとのこと。トンネルの長さは、86mと説明がありました。

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[大仏鉄道記念公園]
・・・消防署の跡地に平成4年に公園が作られ、平成19年に『大佛鐡道記念公園』の標識板が地元自治会・大仏鉄道研究会らにより奈良市が設置したのこと。

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[大仏鉄道記念公園近くの下長慶橋からみる橋脚レンガの跡]
・・・平成19年2月に大仏鉄道研究会メンバーが発見。この佐保川をまたいで奈良駅へと路線が続いて行きます。

今回のウォークから次は、安堵町の木戸池に残る『天理軽便鉄道』の遺構をぜひ訪れたいとおもいました。
その機会には、みなさんぜひご参加ください。

文と写真:交流G史跡等探訪サークル 小林俊夫

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2013年09月22日

記紀万葉サークル9月例会「佐保・佐紀を巡る」

(9月14日(土)、参加者21名)

佐保川べりの万葉歌碑に思う
 「打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尒鶏類鴨」8−1433
 大伴坂上郎女は佐保川に因む歌を数多く詠っています。当時、郎女の宅はやはり佐保川のほど近い所に在ったのでしょう。当時の佐保川は水量も多く、今の様な護岸もなく、川べりの道は川原との高低差が殆ど無かったと思います。
 この歌は、郎女が平城の宮から宅へ帰る際に見た佐保川の情景を詠ったとされています。「打上(うちのぼる)」の主語は郎女です。二条大路を東上して来る郎女が佐保川べりに出るのは、佐保の流路から考えて、三坊大路を越えた辺りです。この歌碑は四坊と五坊の間にありますが、歌はこの辺りの情景を詠んだと考えて大きな間違いは無さそうです。とすれば、彼女の宅は此処より東で、佐保川右岸の丘陵地(坂の上)にあったと考えるのが自然です(法蓮町東部〜多聞町辺り)。そして大伴家持邸は其処から西のさほど遠くない佐保の内、それも一条南大路に門を開ける場所と想像するのです。

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 (万葉歌碑を解説)

不退寺(業平寺)で 
興味を惹かれるものが2つ有ります。1つは本尊「観音菩薩立像」です。平安時代(11C)の木造で像高190cmと称しています。高い宝髻と両耳をよぎる三条の鬢髪、簡素な衣文、そして僅かに腰を左に寄せるなどの特徴が有ります。実は、奈良国博にもこれと酷似した「観音菩薩立像(瑞景寺、10C、木造)」があります。特徴もそっくりで像高は189.8cmです。対称的に僅かに腰を右に寄せています。2体が1具だとすれば、阿弥陀三尊の左右脇侍であった可能性が考えられます。因みに、不退寺と瑞景寺はごく間近い所に在るのです。
 もう1つは、庭に置かれた平塚古墳(消滅古墳、5C)の繰抜き式石棺の身です。丸みを帯びた棺底が特徴的ですが、蓋が失われているので全体の形が分りません。へりの部分に多くの「鎌の研ぎ跡」が残ります。後世の農民が砥石として使っていたと言われています。

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 (平塚古墳の刳抜き式石棺(身))

佐紀盾列古墳群 
 古墳群を余す所なく廻りましたが、今回の案内人沖田さんのテーマには「松林苑の範囲の想定」と「古代奈良坂のルートの想定」があったと思います。難しいテーマで、松林苑の東を画すると思われる確かな遺構は見つかっていない(それらしいものは幾つか有るが統一性が認められない)と言えます。古代奈良坂の想定も松林苑の範囲と関わるので厄介です。歌姫越え奈良坂の様に松林苑を廻り込んで北上する道、松林苑の西側を通過する道と幾つかの候補があります。ただ何れの道も木津(の港)に出るものです。それらの道の総称として奈良坂という概念があったのではないかとも思います。

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 (ウワナベ池の畔にて)

 「佐保過而 寧楽乃手祭尒 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣」 3−300
添御縣坐神社にある万葉歌碑を見ていたら、二条大路に開いた北門を出て、朱雀門から宮中・松林苑を押し通って出立して行った長屋王(ながやのおほきみ)一行の姿が目に浮かぶのでした。

 蒸し暑くはありましたが、好天に恵まれました。豪雨によって大きな被害のあった、台風18号の影響が及ぶ前日でした。もう一人の佐保姫(佐保の女神)の加護があったのでしょうか。

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 (磐之媛陵にて)

9月20日 記紀万葉サークル 田中昌弘

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2013年08月11日

「文学の小窓からの風景 第4回目――森鷗外の奈良」 講演会感想記

参加者60名「三和大宮ビル 6階会議室」

8/3(土)に前回と同じく三和大宮ビルで、浅田隆先生による「文学の小窓からの風景 第4回目 森鷗外」講演会が開催された。とても暑い日だったが、60名の参加、先生のお話に熱心に耳を傾けた。

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[講演前の参加者風景]   

鷗外は1862年に津和野藩曲医の家に長男として生誕。津和野生まれの東京育ち。現在の東大医学部を19歳で卒業し、軍医となる。陸軍軍医総監となるが母峰子死去を契機?に辞任。その後、帝室博物館総長兼図書頭となる。

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[本日の司会の小野哲朗さん]

奈良へは同総長の公務として5回来訪されている。正倉院の開封に立ち会うために来ており、雨で開封しない日は、寸暇を惜しんで奈良を散策している。その時の作品が「奈良五十首」であった。鷗外が逝去した60歳のとき年初に発表されている。鷗外の遺作である。
浅田先生が10首ほど詠んで楽しく解説してくださった。以下にその首を記す。番号は記載順、()内は浅田先生が付記したジャンル、<>内は詠まれた場所を示す。

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[浅田隆先生の講演風景]

1.(学者鷗外 知識欲)
 京はわが先づ車よりおり立ちて古本あさり日をくらす街
2.( 学者鷗外 知識欲) 
 識れりける文屋のあるじ気狂ひて電車のみ見てあれば甲斐無し
9.(奈良への感動 驚異)<正倉院>
 勅封の笋の皮切りほどく剪刀の音の寒きあかつき

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[浅田隆先生の講演に聞き入る参加者]

10.( 奈良への感動 驚異)<正倉院>
 夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国木の校倉のとはに立つ国
13.(学者への崇敬) <正倉院>
 見るごとにあらたなる節ありといふ古文書生ける人にかも似る
17.(崇敬と反発) <正倉院>
 み倉守るわが目の前をまじり行く心ある人心なき人
6.(風土の発見)
 奈良人は秋の寂しさ見せじとや社も寺も丹塗にはせし
7.(成金批判 奈良観)
 蔦かづら絡む築泥の崩口の土もかわきていさぎよき奈良
33.( 成金批判 奈良観)<元興寺址>
 いにしへの飛鳥の寺を富人の買はむ日までと薄領せり
39.( 成金批判 奈良観)<白毫寺>
 白毫の寺かがやかし痴人の買ひていにける塔の礎

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[浅田隆先生の講演に聞き入る参加者]

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[鷗外の門(大仏前交差点)]   

註解は平山城児氏の「鷗鴎外「奈良五十首」の意味」が素晴らしいとのこと。鷗外は厳格な性格で未発表の作は一切残していないとのこと。そのため、書簡が少なくなった晩年の足跡は知られていない。ただ、鷗外は歴史好きで別号「漁史」を名乗っており、北浦定政の墓を訪ねるなどソムリエ並のマニアックな一面もあったそうだ。

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[鷗外ゆかり現国立博物館]   

次回は10/5(土)です。場所、時間は今回と同様です。役行者について熱く語られますので乞うご期待です。是非奮って参加して下さい。


文:交流G史跡等探訪サークル 森原嘉一郎   写真:同 小林俊夫


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2013年07月14日

「文学の小窓からの風景 第3回目――高浜虚子『斑鳩物語』とスライド」 講演会感想記

7/6(土)実施・・・参加者61名「三和大宮ビル 6階会議室」

7/6(土)に前回と同じく三和大宮ビルで、浅田隆先生による「文学の小窓からの風景 第3回目 高浜虚子『斑鳩物語』とスライド」講演会が開催された。梅雨期のとても暑い日だったが、61名の参加、先生のお話に熱心に耳を傾けた。講演は前半が高浜虚子『斑鳩物語』のお話で、後半が高浜虚子、正岡子規、会津八一のスライドであった。

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[本日の司会の森原嘉一郎さん]

高浜虚子は伊予松山生まれの俳人・小説家で、正岡子規に師事。本名は清で、子規により虚子と命名される。俳句雑誌『ホトトギス』を継承して主宰し、花鳥諷詠の客観写生を説き、写生文の小説でも知られる。

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[浅田隆先生の講演風景]

『斑鳩物語』も写生文の手法で、斑鳩の景物を捉えている。
法隆寺をなつかしい(心がひかれるという意味)寺院として、県外からの旅行者が抱く法隆寺への思いで表現しており、歴史遺産として取り上げていない。
また、黄色い菜の花、白い梨子の花、濃い緑の燈心草(イグサ)の広がる斑鳩の田園風景に寺院を点景としている。  

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[7/6(土)の浅田隆先生の講演内容]   

その点景の一つ、法起寺の塔の影によって時間の経過やお道と了然の心情が巧みに表現されている。
菜の花の蒸すような中で春の日を正面(まとも)に受けて恋心に満たされたお道の心情。
お道の浴びている春光を半身に浴びることによりお道への恋心、そして半身に塔の影を止めることにより、仏道修行に身を置く了然の心情を視覚的に表現している。
このように『斑鳩物語』では、「もの」の客観的描写で「情」を表現している。

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[浅田隆先生の講演に聞き入る参加者]

さらに、法隆寺夢殿南門前の三軒の宿屋の存在により、当時の奈良市内と法隆寺間の距離を示唆。機織の織賃の下落により、現実の波が斑鳩の里まで押し寄せていることも描写し、短編小説の中で多くの情報を提供している。

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[『斑鳩物語』大黒屋 ]

後半のスライドでは、『斑鳩物語』に関して大黒屋、熟した柿の実のなる木が撮りこまれた法隆寺の風景、夢殿、さらに法起寺三重塔、一面に菜の花が広がっている藤原京跡、正岡子規に関して對山樓角定、野球のユニフォーム姿、会津八一に関して様々な歌碑が上映された。

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[菜の花が広がっている藤原京跡]   

新薬師寺横の入江㤗吉記念奈良市写真美術館には、彼の撮影した「法起寺三重塔」と菜の花などの大和路の原風景が展示されています。一度、鑑賞されてはと思います。
次回の「文学の小窓からの風景 第4回目 森鴎外の奈良」は、8/3(土)に開催されますので、是非ご参加ください。

文:交流G史跡等探訪サークル 大村隆清  写真:同 小林俊夫

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2013年06月26日

「アジサイの寺、矢田寺から東明寺、長髄彦伝承の添御県坐神社へ」ウォーク・・6/15実施

「交流グループ史跡等探訪サークル」ウォークの記  参加者21名

朝、降水確率50%で雨が心配されましたが、近鉄郡山駅についてみると数名の女性が既に待っておられ、ホット一息着きました。駅から商店街をチョット抜けると奈良交通のバス停で、こんなに近道があるなんて知らなかったなぁー!バス停では10人ほどでしたが、集合場所は矢田寺ですし、バスの発車時刻も迫ってきましたので出発しました。

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[本日のコースの説明をする史跡等探訪サークルの小林誠一さん・・・矢田寺山門前]

本日のコースは、矢田寺前バス停(10時集合)〜矢田寺(アジサイ園・閻魔堂)〜子供交流館〜添御県坐神社へ・・・解散15時30分予定   ※総行程約8キロ

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[赤系・青系のアジサイと変種のガクアジサイ(集、真、藍:あづ、ま、あい、があつまって紫陽花)]

【矢田寺】・・・途中、大門坊の沙羅双樹の白い花が目に止まりました。
まだ咲きかけで数輪の花しか咲いていませんが、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり、沙羅双樹の花の色、生者必滅の理あり・・・」が浮かんでききました。
京都の東林院では、今が盛で白い花が首から散って、深緑のコケの上にいかにも「生者必滅」を演出していますが、ここでは己(おのれ)の感性で受け止めなさいと演出もなく、いかにも奈良らしくてイイですね。

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[矢田の地蔵さんとして信仰をあつめる金剛山寺(矢田寺本堂)]


【東明寺】

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[東明寺本堂前・・・・この日参加メンバーです。]

東明寺副住職のお話から
本尊薬師如来坐像の特徴は左肩が右肩より下がっていること。腰の上から「くびれ」があり、腕と胴とが離れで脇が空いている、お顔の彫りが深く鼻が高いなどの特徴があって、ガンダー仏の影響と思われますと。(あるメンバーから、ガンダーラ仏の最大の特徴は頭髪が巻き毛であるが、本仏像はそれがないのでガンダーラ仏影響とはチョット行き過ぎではないかと、密かな意見がありました)。「雷さま」の「おへそ」がありました。雷さまが東明寺で昼寝をしていたら、人間に「おへそ」を捕られてしまった。だから、「雷さま」は仕返しに人間の子供の「おへそ」を狙うことになったそうです。メンバーの「おへそ」をみせて頂いた感想は「干し椎茸」のようだとの声が上がっていました。(隕石みたいだの声もありました)

【子供交流館】
東明寺から、曇り空のもと矢田丘陵の森の中を登り降りしながら進むと、こどもの森の芝生広場が見えてきました。芝生広場の端に子供交流館があります。ここで昼食にしました。子供交流館は屋根付きですので、昼食中、雨は気になりませんが、昼食を終えて霊山寺へ向かう頃には本降りになりかけてきましたので、皆さん傘を開いて進むことになりました。

【追分】
追分本陣村井家住宅前で、「西に降れば暗峠へ、東に降れば三条通り、このまま富雄の霊仙寺方面へ降ればすぐ、追分梅林の横を過ぎてゆきます」と、あるメンバーから説明がありました。(梅林は土壌改良工事か宅地造成工事かわかりませんが工事中でした。)

【添御県坐神社】

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[添御県坐神社では、とうとう雨がふりだしました。]

「添御県坐神社」が、岩波新書のベストセラーになっている「出雲と大和」村井康彦著に記載されています。みなさんもぜひ一読されては?  
神官のお話から
本殿は、室町上期の創建で、特徴は本殿に覆い屋が付いているところです。そのためによく保存されてきました。また本殿の基礎部分に、土台として一木の角材が流してあり、その上に本殿が建っている。珍しい形式です。
(あるメンバーから土台が腐食することを防ぐための覆い屋で、本殿を保護しているのであろうと)
屋根は檜皮で葺かれ、しばらく前に葺き替えた時には1u当たり5万円ほどでした。当神社は長髄彦が祭神ですが、神武の逆賊とされていますので、古事記に現れる神で、あまり知られていない武乳速之命(たけちはやのみこと)を表向き祭神としています。長髄彦伝承は、土地の古老が元気なうちに、集めておきたいと思っています。
歌姫町に同名・同神の神社がありますが、何故かよくわからないが、鬼門と裏鬼門でないかと思われます。
紙垂(しで)・・・・しめ縄などに数箇所垂れ下がっている神事の紙のつくり方を教えていただいた。また、榊での参拝儀礼を教わりました。

三碓(みつがらす)の地名について・・・・・

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[三碓の地名の由来の搗き碓(からうす)〜根聖院]

三碓(みつがらす)の地名について本神社の隣にお寺の根聖院があり、横長の石に三ヶ所穴が穿ってあり、これが三ツ碓(うす)といいます。米を搗(つ)いたと伝承されていますが、当地に薬草が採れたことや碓の穴が小さいことなどを考えると薬草を挽いたのではないかと考えられています。
碓という字は「からうす」と読み、三碓はなまって「みつがらす」と発音するようになり、このあたりを「みつがらす」と呼ぶようになりました。
元来、当神社に備わっていた碓と思われるが、流れ出してとなりのお寺に移動したものと思われます。

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[根聖院(添御県坐神社に隣接しています)前で現地解散となりました。]

雨に降られても、メンバーの意見も聞かれて幸いな一日でした。


文:交流G史跡等探訪サークル 加藤宣男   写真:同 小林俊夫

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