2014年01月09日

勉強会「会津八一と奈良」第3回目(最終回)報告

 「奈良県下の歌碑」会津八一の感性でみた奈良
日時:11月12日18:30〜20:30(懇親会含む)
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ
出席人数22人
講師:奈良大学名誉教授浅田隆先生

奈良県下には会津八一自筆の歌碑が19を数え、他に採字といわれる手法で自筆の書から合成されてつくられた歌碑が3碑ほどある。

春日大社 神苑 昭和18年秋
かすがのに おしてるつきの ほがらかに
あきのゆうべと なりにけるかも


この歌は、南京新唱の巻頭歌である。古都の秋の月夜を平易に調べ豊かに歌いあげる。奈良への第一歩を古調で歌うこの一首は、巻頭歌としてとてもふさわしい。歌碑としては、県下に2番目に建立されたものである。おおらかにゆったりとした調べに誘われて、心静かに奈良の風物と八一ワールドに入っていくことが出来る。

唐招提寺 昭和25年 中秋
おほてらの まろきはしらの つきかげを
つちにふみつつ ものこそおもへ

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おほてらの〜というフレーズは会津さんが、法隆寺滞在時より口ずさんでおられたようで、唐招提寺だけでなく法隆寺への想いも入っているのではないかという創作秘話を浅田先生より伺った。このようなエピソードを聴いて、再びこの有名な歌に想いを馳せる事が出来るのもこのまた、格別である。

会津さんは法隆寺に対しても強い憧憬がありながら、法隆寺再建説を支持していたため、当時の法隆寺からは疎んじられ、永年歌碑建立を拒絶されていた。
法隆寺に会津さんの歌碑が立つのは平成24年になってからである。

19の歌碑について、詳しく解説いただいた。建立順に並べると、@新薬師寺A春日大社万葉植物園B唐招提寺C東大寺D法輪寺E法華寺F秋篠寺G海龍王寺H般若時IK日吉館J斑鳩 原家L猿沢池畔M薬師寺N興福寺O喜光寺P中宮寺Q法隆寺R上宮遺跡公園となる。

本日は最終回であり、恒例の懇親会が開催された。
徒歩でも南は薬師寺を終点にすれば、廻れる工程でもある。(自転車ならすべて一日で廻る事が出来る。)当会で「会津八一の歌碑めぐりツアー」を企画しようという事など、皆さん熱心に話し合われていた。

(岸 克行 記)
  
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2013年12月25日

勉強会「会津八一と奈良」第2回目

日時:11月19日18時30分〜20時
場所:西大寺南都銀行銀行クラブ
出席人数21人
講師:奈良大学名誉教授浅田隆先生

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<大和の風景を読み解く>
冒頭、奈良大学の情報誌を配布し、奈良大学展望台から見る奈良の景観を説明いただいた。なるほど、奈良大学からの景観は素晴らしい。緩やかな山の稜線がつらなり、奈良を楽しむ絶景ポイントである。是非、訪問したいものだ。

一番新しい会津八一の歌碑R
いかるがの さとのおとめは よもすがら
きぬはたおれり あきちかみかも

この歌は、斑鳩で8月終わりから機織りの音を聞いて秋の訪れを感じる歌である。今でいうと町工場の音か。庶民の生活の音を歌の世界にいざなう会津八一の面目躍如たる素晴らしい歌である。

かように、会津八一は平明で飾らない万葉調を良しとした人である。万葉調に対するのは古今調。より精緻な技巧を重んじた歌風である。題材とするテーマも古今調は、華やかな宮廷文化にまつわるものが多い。比べて万葉集は、一般の生活からハートフルな歌が多いのが特徴である。古今調は技巧過多で、掛詞、本歌とり、枕詞、色言葉など宮廷歌人がサロンで歌の技術を競い合って作られた歌である。また、二条家系統が秘伝として権威づけも行った。とにかく、こねくりまわす。明治までは、これが主流。会津八一はこれに対して万葉調を強く支持した。平明で飾らないとはいっても、その平明さの裏に物凄い技術を駆使してあるのが会津八一である。

<古代ギリシャと会津八一と奈良>
会津八一は小泉八雲の影響もあり古代ギリシャへの憧憬を持った人である。大正9年ギリシャ学会設立して以降、毎年奈良を訪れるうちに大正12年ギリシャ学会を解消し、奈良美術研究会設立した。写真家の小川晴暘(後の飛鳥園)と親しくなり奈良美術の写真集も発刊している。(大正13年室生寺大観)今までの正面写真ではなく、会津八一が教える革新的なアングルで仏像をとらえた写真集も発刊。今で言うとアートデレクターである。漆黒の背景に部分的なライティングや光を当てる方向で影を生み出す斬新な写真であったといわれている。このあと、昭和6年 早稲田大学教授として東洋美術史を担当している。 

<南京新昌>
南京新昌は真っ赤な表紙で発刊された。なんと最初から第3版と記してあった。これは無名の歌人の歌集など誰も買うはずもなく、無名歌人の戦略として確信犯として行ったようだ。さすがに粋筋で育っただけある会津八一の茶目っ気を伝えるエピソードであるといわれている。しかし、本人は意外と真剣に奥付の第3版という表示を指示したのかも知れない。

<奈良への傾斜>
ギリシャへの憧れは、19世紀文明の分業主義への否定につながり、これしかできないという専門家という存在に対しては当然否定的である。特定分野の専門家を拒否した八一は歌人とか特定分野の専門家とみなされることを拒否した。ヨーロッパではルネッサンスで文明のルーツとしてギリシャが復活。会津八一が影響をうけた小泉八雲がイギリス詩人キーツ傾倒。特に霧の都ロンドンからは地中海ブルーへの強く憧れたようだ。キーツのギリシャは会津八一にとっては奈良であった。その八一がギリシャはともかく一度も海外を訪問していないのが不思議でもある。

<学規>
浅田先生からそのほか色々なことを教えていただいたが、最後に一つ。
見どころのある学生に書き与えたのがこの学規である。
一、ふかくこの生を愛すべし
一、かへりみて己を知るべし
一、学芸を以て性を養うべし
一.日々新面目あるべし
学ぶものが持つべき姿勢を説いている。自分自身をよく知る。人間性を養うこと、真面目に日々新しい要素をとりいれること、学問は自分自身の修養であることなどを説いている。

次回最終回は12月12日。テーマは奈良県下の歌碑・会津八一の感性でみた奈良である。

岸 克行 記
  
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2013年11月19日

第1回「會津八一と奈良」勉強会報告

10月29日、南都銀行西大寺銀行クラブ

今回の勉強会は、奈良大学名誉教授の浅田隆先生により「會津八一と奈良」と題し、奈良を愛した歌人でもあり、書家でもあり、美術史家でもあった會津八一さんの奈良とのかかわりや奈良の歌について、3回にわたり深く掘り下げてお話いただく予定となっている。第1回目の今回のテーマは「奈良への初旅」であった。

會津八一は、8月1日生まれなので八一と名づけられたことや、旧制中学卒業前後頃より、地方新聞に俳壇、俳話を連載するなど早熟であったことや、正岡子規、坪内逍遥との関係よりも、やはり気になるのは、早稲田大学在学中より恋仲であったといわれ、当時東京女子美術学校の学生であり、美人画家ともいわれた「渡辺文子」とのことだろう。
知り合うきっかけになったのは、従姉妹と妹が東京女子美術学校に入学したことと、彼女らの友人に渡辺文子がいたのである。

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 [渡辺文子氏]

八一の大学時代の友人で大阪に在住していた伊達俊光に送った手紙が残っており、明治40年12月の手紙によれば、明春3、4月に文子も加わり、奈良を訪問すると記載されていたが、明治41年3月の手紙によれば、「ひとりで行く。ひとりということにつきて何事も問うことなかれ。僕また何事も語ることなかるべし。」と書かれており、この頃破局を迎えていたようである。友人への手紙が残され、後世の人に読まれるなんて、八一も考えていなかったでしょうね。

八一の奈良への初旅は、明治41年8月で東大寺、春日大社、若草山、興福寺、秋篠寺、法隆寺等々を精力的にめぐり、「西遊咏草」という歌集に20首を収録した。(本書は現物は焼失したが、原稿等により復元された。)初旅では八一は奈良では「対山楼」に宿泊したが、以後、「日吉館」を定宿とした。

奈良へ来た頃の彼の失恋の痛手は大きく、「西遊咏草」の猿沢池での次の歌にも、その気持ちが感じ取れる。(現在、猿沢池のほとりに歌碑が立てられている。)
「我妹子が 衣かけ 柳 みまくほり いけをめぐりぬ 傘さしながら」

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 [猿沢池のほとりの歌碑]

また、彼には「古代思慕」という気持ちが強く、聖徳太子の弓を詠んだ次の歌に、それが強く感じ取ることができる。この歌は、浅田先生おすすめの歌でもあった。
「みとらしの梓の真弓 つるはけて ひきてかへらぬ 古 あわれ」

「西遊咏草」の歌を説明していただいている間に時間切れとなり、非常に残念であったが、次回の勉強会が本当に楽しみとなった。

岸 克行、 大山 恵功 記

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2013年11月18日

勉強会「記紀を愉しむ」第3回、第4回参加報告

7月から続けてきた木村三彦さんによる勉強会も「第3回「蘇我氏と物部氏の争い」、第4回(最終回)「平群氏の没落」を迎え、盛況のうちに終了した。
木村三彦先生、ありがとうございました。

第3回「蘇我氏と物部氏の争い」
日時:9月18日18時30分 
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ

・仏教伝来552年と585年の2つ
日本書記には、欽明天皇13年に百済の聖明王より、金銅の仏像や経論が奉られたとされている。その仏教の教えの良さに感銘しながらも、天皇は自ら決定を下すことなく、臣下と協議した。蘇我大臣稲目は、中国朝鮮半島の西となりの諸国が仏教を取り入れているのに、我々だけは反対するのかと意見し、物部大連尾輿・中臣連鎌子は、今さら新しい神を拝むと、いままでの神の怒りをかうだろうと反対した。
天皇の決断は、蘇我稲目に、試に仏をまつらせるということであった。結果、国内に疫病が発生し、多くの死者がでた。
物部、中臣連合は反撃にでて、仏教の排斥を願い出て認められたのち、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流した。
敏達天皇紀14年にも同様の話がある。登場人物が、蘇我氏では、蘇我馬子。物部氏では物部守屋。中臣氏は中臣勝海。

・物部掃討戦
587年、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼす計画を実行に移した。多くの皇子たちを引き連れて志紀群(河内)より物部の本拠地、渋川へと進軍した。皇子たちは、弱兵揃いであるから、兵力より人質としての起用であろう。
さすがに軍事を司っていた物部氏だけに抵抗が強かったが、厩戸皇子の誓いから守屋が射抜かれて、物部は滅んだ。この厩戸皇子誓いは勝利なれば寺院を建立するというもので、それが四天王寺である。
掃討戦の最後を飾るのは、守屋の資人捕鳥部萬(よろず)。軍事氏族のなかでも武勇の誉れ高き萬だけに抵抗すさまじく、最後に死闘を繰り広げたがついに滅んだ。
萬には、飼い犬が萬亡き後、傍らで飢え死んだというエピソードがある。萬の墓大山大塚古墳の約200メートル北に義犬塚古墳がある。

・八尾市の地図を見ながら、物部ゆかりの地名を解説いただいた。

・偽書 先代旧事本紀 天下ってきたのは、天皇家以外では物部氏のみと記されているが、偽書であるらしい。偽書ではあるが、偽書を生んだ背景なんかを推察すると興味が湧いてくる。


第4回「平群氏の没落」
日時:9月25日18時30分 
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ

いつものように、木村先生が一番乗りで到着された。世話人としても気が抜けない。準備の傍ら、いろいろ木村先生からお話をお聞きできるのも楽しみである。

・平群氏の出自
出自は『古事記』の「孝元記」によれば、武内宿禰の子「平群都久(づく)宿禰」(『書紀』では平群木兔宿禰)。武内宿禰の8人の子孫のうち、特に後世権勢を誇ったのは葛城氏・平群氏・蘇我氏である。なんと、平群氏は蘇我氏と並ぶ大豪族として記されている。

・全盛期
『日本書紀』などの古文献では、応神朝の頃から軍事氏族として活躍するようになり、履中朝には平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになったとされている。雄略朝に葛城氏が没落すると、木菟の子の真鳥(まとり)が大臣(おおおみ)を歴任して一族の興隆を極めた。

・没落のきっかけ
平群真鳥(まとり)が皇位をも狙わんと専横を極めていたとき、小泊瀬稚鶺鴒皇子(オハツセ皇子後の武烈天皇)が物部アラカビの娘カゲヒメを求めたところ、先に平群真鳥の子・鮪(シビ)に取られてしまうことになる。皇子は大伴金村と謀りシビを殺す。真鳥(まとり)をも誅殺したのち、大伴金村は勢力を拡大するとともに、武烈天皇が即位することとなった。

・没落以降
その後、平群氏が歴史に登場するのは、物部掃討軍に参画した平群神手。
また、日本書記編纂にも携わっている。

・果たして史実かどうか
平群谷で確認される古墳はいずれも古墳時代後期6世紀のものばかりで、真鳥(まとり)やそれ以前時代の古墳は存在しない。従って、新興勢力平群氏が自らの地位を大きく見せるために史実を改竄したものであるといわれている。

・平群古墳群について
平群の古墳群めぐりは、竜田川の右岸・左岸に分かれており、平群谷を登ったり下りたり大変な行程である。また、道も細く自動車でめぐるのにも適さない。(私は自転車が最適と思い、後日古墳めぐりを行った)

【三里古墳】
この古墳の特徴は横穴内部にある石棚。石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多くこの地域と紀氏との関係も考えられている。奈良県下では石棚のある古墳は三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基は吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。出土遺物より6世紀後半〜末頃の築造と考えられている。

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現在は写真のように土砂で埋まっている。

【鳥土塚古墳】
平群地方最大の古墳。いずれも6世紀後半に作られとされている。

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岸 克行 記
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2013年08月26日

第2回「記紀を愉しむ」勉強会「雄略天皇物語」参加報告

参加人数:35名 
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ 
日時:8月21日18時30分〜


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奈良県観光ボランティアガイド連絡会会長の木村三彦さんによる「記紀を愉しむ」〜記紀から古代大和の歴史の深層を見る〜第2回「雄略天皇物語」勉強会が開催された。
酷暑の中、参加者は35名で、いつものように、早く来た参加者が会場のセッテングなどに自主的に携わり勉強会がスタートした。

今回は、雄略天皇は「倭の五王 武」として知られ記紀では記述も多い中で、少し変わったエピソードを交え「荒荒しさ」と「可愛らしさ」を併せ持つ雄略天皇の魅力を講義いただいた。

≪即位前記のエピソード≫
第20代安康天皇により後継と目されていた市邊押磐皇子を近江の国へ狩りに誘い、だまし討ちにした。臣下でなく、雄略天皇自らが手をくだした。古事記にも同様の記述があり雄略天皇の荒々しさ、獰猛さを際立させるエピソードである。

≪元年のエピソード≫
あるとき雄略天皇は采女であった童女君と一夜関係を持ち女児を出産した。天皇は自らの子であるかを疑い養育しなかった。あるとき、物部目大連が女子を見て雄略天皇に似ているので、この子は天皇の子供でないかと進言した。天皇はいまだ、疑義の念が強かったが、物部目大連が一夜に何回?と聞くと「7回」と答えられた。それなら妊娠してもおかしくはないとの意見を取り入れ、女子を皇女に母を妃とした。この物部目大連と雄略天皇の会話を想像すると可笑しくなる。雄略天皇のチャーミングな一面である。それにしても、7回とは、、、。

≪7年吉備没落へ≫
大きな勢力を誇った吉備勢力を弱体化して、大和政権化していく様子が説明される。
吉備下道(西側)臣前津屋が、なかなか吉備から大和に帰さなかった虚空の言葉を聞き、反乱の疑いがあるとして、物部の兵士30人を遣わして前津屋の一族70人を誅殺した。
吉備上道(東側)には田狭という有力者がおりその妻は美しいと評判であった。その妻を自分の妃にしようと雄略天皇は田狭を任那の国司へと任命する。田狭は妻を簒奪されたことを知り新羅と結んで対抗しようと画策をする。ここで天皇は田狭の子弟君をもって田狭を討つべく遣わすものの、田狭と結ぼうとした。これを知った弟君の妻は、夫を殺してしまう。ここに、吉備勢力は大きく弱体化することになる。

≪泊瀬朝倉宮≫
雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」は、様々な説があるが、桜井市脇本に所在する「脇屋遺跡」が有力である。
発掘調査の結果、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の遺構が検出されているが、5世紀後半の部分が泊瀬朝倉宮の遺構ではないかと考えられている。

≪雄略天皇陵≫
羽曳野市に天皇陵がある。円墳であるが、幕末・明治期に方墳の平塚古墳と合体して、前方後円墳であるかのように改変された。幕末当時は開化〜敏達天皇までは、前方後円墳であるという学説が定説化されていたためである。

啓発グループ 岸 克行 記


<次回の予定> 
第三回「蘇我氏と物部氏の争い 」 
時期:9月18日 18:30〜20:00  
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ
posted by 奈良まほろばソムリエ at 20:22| Comment(0) | 啓発G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする