2013年11月19日

第1回「會津八一と奈良」勉強会報告

10月29日、南都銀行西大寺銀行クラブ

今回の勉強会は、奈良大学名誉教授の浅田隆先生により「會津八一と奈良」と題し、奈良を愛した歌人でもあり、書家でもあり、美術史家でもあった會津八一さんの奈良とのかかわりや奈良の歌について、3回にわたり深く掘り下げてお話いただく予定となっている。第1回目の今回のテーマは「奈良への初旅」であった。

會津八一は、8月1日生まれなので八一と名づけられたことや、旧制中学卒業前後頃より、地方新聞に俳壇、俳話を連載するなど早熟であったことや、正岡子規、坪内逍遥との関係よりも、やはり気になるのは、早稲田大学在学中より恋仲であったといわれ、当時東京女子美術学校の学生であり、美人画家ともいわれた「渡辺文子」とのことだろう。
知り合うきっかけになったのは、従姉妹と妹が東京女子美術学校に入学したことと、彼女らの友人に渡辺文子がいたのである。

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 [渡辺文子氏]

八一の大学時代の友人で大阪に在住していた伊達俊光に送った手紙が残っており、明治40年12月の手紙によれば、明春3、4月に文子も加わり、奈良を訪問すると記載されていたが、明治41年3月の手紙によれば、「ひとりで行く。ひとりということにつきて何事も問うことなかれ。僕また何事も語ることなかるべし。」と書かれており、この頃破局を迎えていたようである。友人への手紙が残され、後世の人に読まれるなんて、八一も考えていなかったでしょうね。

八一の奈良への初旅は、明治41年8月で東大寺、春日大社、若草山、興福寺、秋篠寺、法隆寺等々を精力的にめぐり、「西遊咏草」という歌集に20首を収録した。(本書は現物は焼失したが、原稿等により復元された。)初旅では八一は奈良では「対山楼」に宿泊したが、以後、「日吉館」を定宿とした。

奈良へ来た頃の彼の失恋の痛手は大きく、「西遊咏草」の猿沢池での次の歌にも、その気持ちが感じ取れる。(現在、猿沢池のほとりに歌碑が立てられている。)
「我妹子が 衣かけ 柳 みまくほり いけをめぐりぬ 傘さしながら」

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 [猿沢池のほとりの歌碑]

また、彼には「古代思慕」という気持ちが強く、聖徳太子の弓を詠んだ次の歌に、それが強く感じ取ることができる。この歌は、浅田先生おすすめの歌でもあった。
「みとらしの梓の真弓 つるはけて ひきてかへらぬ 古 あわれ」

「西遊咏草」の歌を説明していただいている間に時間切れとなり、非常に残念であったが、次回の勉強会が本当に楽しみとなった。

岸 克行、 大山 恵功 記



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2013年11月18日

勉強会「記紀を愉しむ」第3回、第4回参加報告

7月から続けてきた木村三彦さんによる勉強会も「第3回「蘇我氏と物部氏の争い」、第4回(最終回)「平群氏の没落」を迎え、盛況のうちに終了した。
木村三彦先生、ありがとうございました。

第3回「蘇我氏と物部氏の争い」
日時:9月18日18時30分 
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ

・仏教伝来552年と585年の2つ
日本書記には、欽明天皇13年に百済の聖明王より、金銅の仏像や経論が奉られたとされている。その仏教の教えの良さに感銘しながらも、天皇は自ら決定を下すことなく、臣下と協議した。蘇我大臣稲目は、中国朝鮮半島の西となりの諸国が仏教を取り入れているのに、我々だけは反対するのかと意見し、物部大連尾輿・中臣連鎌子は、今さら新しい神を拝むと、いままでの神の怒りをかうだろうと反対した。
天皇の決断は、蘇我稲目に、試に仏をまつらせるということであった。結果、国内に疫病が発生し、多くの死者がでた。
物部、中臣連合は反撃にでて、仏教の排斥を願い出て認められたのち、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流した。
敏達天皇紀14年にも同様の話がある。登場人物が、蘇我氏では、蘇我馬子。物部氏では物部守屋。中臣氏は中臣勝海。

・物部掃討戦
587年、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼす計画を実行に移した。多くの皇子たちを引き連れて志紀群(河内)より物部の本拠地、渋川へと進軍した。皇子たちは、弱兵揃いであるから、兵力より人質としての起用であろう。
さすがに軍事を司っていた物部氏だけに抵抗が強かったが、厩戸皇子の誓いから守屋が射抜かれて、物部は滅んだ。この厩戸皇子誓いは勝利なれば寺院を建立するというもので、それが四天王寺である。
掃討戦の最後を飾るのは、守屋の資人捕鳥部萬(よろず)。軍事氏族のなかでも武勇の誉れ高き萬だけに抵抗すさまじく、最後に死闘を繰り広げたがついに滅んだ。
萬には、飼い犬が萬亡き後、傍らで飢え死んだというエピソードがある。萬の墓大山大塚古墳の約200メートル北に義犬塚古墳がある。

・八尾市の地図を見ながら、物部ゆかりの地名を解説いただいた。

・偽書 先代旧事本紀 天下ってきたのは、天皇家以外では物部氏のみと記されているが、偽書であるらしい。偽書ではあるが、偽書を生んだ背景なんかを推察すると興味が湧いてくる。


第4回「平群氏の没落」
日時:9月25日18時30分 
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ

いつものように、木村先生が一番乗りで到着された。世話人としても気が抜けない。準備の傍ら、いろいろ木村先生からお話をお聞きできるのも楽しみである。

・平群氏の出自
出自は『古事記』の「孝元記」によれば、武内宿禰の子「平群都久(づく)宿禰」(『書紀』では平群木兔宿禰)。武内宿禰の8人の子孫のうち、特に後世権勢を誇ったのは葛城氏・平群氏・蘇我氏である。なんと、平群氏は蘇我氏と並ぶ大豪族として記されている。

・全盛期
『日本書紀』などの古文献では、応神朝の頃から軍事氏族として活躍するようになり、履中朝には平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになったとされている。雄略朝に葛城氏が没落すると、木菟の子の真鳥(まとり)が大臣(おおおみ)を歴任して一族の興隆を極めた。

・没落のきっかけ
平群真鳥(まとり)が皇位をも狙わんと専横を極めていたとき、小泊瀬稚鶺鴒皇子(オハツセ皇子後の武烈天皇)が物部アラカビの娘カゲヒメを求めたところ、先に平群真鳥の子・鮪(シビ)に取られてしまうことになる。皇子は大伴金村と謀りシビを殺す。真鳥(まとり)をも誅殺したのち、大伴金村は勢力を拡大するとともに、武烈天皇が即位することとなった。

・没落以降
その後、平群氏が歴史に登場するのは、物部掃討軍に参画した平群神手。
また、日本書記編纂にも携わっている。

・果たして史実かどうか
平群谷で確認される古墳はいずれも古墳時代後期6世紀のものばかりで、真鳥(まとり)やそれ以前時代の古墳は存在しない。従って、新興勢力平群氏が自らの地位を大きく見せるために史実を改竄したものであるといわれている。

・平群古墳群について
平群の古墳群めぐりは、竜田川の右岸・左岸に分かれており、平群谷を登ったり下りたり大変な行程である。また、道も細く自動車でめぐるのにも適さない。(私は自転車が最適と思い、後日古墳めぐりを行った)

【三里古墳】
この古墳の特徴は横穴内部にある石棚。石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多くこの地域と紀氏との関係も考えられている。奈良県下では石棚のある古墳は三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基は吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。出土遺物より6世紀後半〜末頃の築造と考えられている。

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現在は写真のように土砂で埋まっている。

【鳥土塚古墳】
平群地方最大の古墳。いずれも6世紀後半に作られとされている。

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岸 克行 記
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2013年08月26日

第2回「記紀を愉しむ」勉強会「雄略天皇物語」参加報告

参加人数:35名 
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ 
日時:8月21日18時30分〜


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奈良県観光ボランティアガイド連絡会会長の木村三彦さんによる「記紀を愉しむ」〜記紀から古代大和の歴史の深層を見る〜第2回「雄略天皇物語」勉強会が開催された。
酷暑の中、参加者は35名で、いつものように、早く来た参加者が会場のセッテングなどに自主的に携わり勉強会がスタートした。

今回は、雄略天皇は「倭の五王 武」として知られ記紀では記述も多い中で、少し変わったエピソードを交え「荒荒しさ」と「可愛らしさ」を併せ持つ雄略天皇の魅力を講義いただいた。

≪即位前記のエピソード≫
第20代安康天皇により後継と目されていた市邊押磐皇子を近江の国へ狩りに誘い、だまし討ちにした。臣下でなく、雄略天皇自らが手をくだした。古事記にも同様の記述があり雄略天皇の荒々しさ、獰猛さを際立させるエピソードである。

≪元年のエピソード≫
あるとき雄略天皇は采女であった童女君と一夜関係を持ち女児を出産した。天皇は自らの子であるかを疑い養育しなかった。あるとき、物部目大連が女子を見て雄略天皇に似ているので、この子は天皇の子供でないかと進言した。天皇はいまだ、疑義の念が強かったが、物部目大連が一夜に何回?と聞くと「7回」と答えられた。それなら妊娠してもおかしくはないとの意見を取り入れ、女子を皇女に母を妃とした。この物部目大連と雄略天皇の会話を想像すると可笑しくなる。雄略天皇のチャーミングな一面である。それにしても、7回とは、、、。

≪7年吉備没落へ≫
大きな勢力を誇った吉備勢力を弱体化して、大和政権化していく様子が説明される。
吉備下道(西側)臣前津屋が、なかなか吉備から大和に帰さなかった虚空の言葉を聞き、反乱の疑いがあるとして、物部の兵士30人を遣わして前津屋の一族70人を誅殺した。
吉備上道(東側)には田狭という有力者がおりその妻は美しいと評判であった。その妻を自分の妃にしようと雄略天皇は田狭を任那の国司へと任命する。田狭は妻を簒奪されたことを知り新羅と結んで対抗しようと画策をする。ここで天皇は田狭の子弟君をもって田狭を討つべく遣わすものの、田狭と結ぼうとした。これを知った弟君の妻は、夫を殺してしまう。ここに、吉備勢力は大きく弱体化することになる。

≪泊瀬朝倉宮≫
雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」は、様々な説があるが、桜井市脇本に所在する「脇屋遺跡」が有力である。
発掘調査の結果、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の遺構が検出されているが、5世紀後半の部分が泊瀬朝倉宮の遺構ではないかと考えられている。

≪雄略天皇陵≫
羽曳野市に天皇陵がある。円墳であるが、幕末・明治期に方墳の平塚古墳と合体して、前方後円墳であるかのように改変された。幕末当時は開化〜敏達天皇までは、前方後円墳であるという学説が定説化されていたためである。

啓発グループ 岸 克行 記


<次回の予定> 
第三回「蘇我氏と物部氏の争い 」 
時期:9月18日 18:30〜20:00  
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ
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2013年07月20日

第1回「記紀を愉しむ」勉強会 参加報告

本日(7月17日)から勉強会「記紀を愉しむ」〜記紀から古代大和の歴史の深層を見る〜がスタートしました。講師は奈良県観光ボランティアガイド連絡会会長の木村三彦さんです。
これまで幾度となく講師をしていただいた人気講師の勉強会だけに、申込は45人を超え、会場も満員、参加者の熱意であふれていた。

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今回のテーマは「蘇我氏の興隆と滅亡」ということで、武内宿禰から始まる蘇我氏のルーツから、稲目・馬子の全盛期を経て乙巳の変(大化の改新のクーデター)による入鹿の暗殺、蝦夷の自害と滅亡の歴史を講話いただいた。
古代豪族の最大の謎である蘇我氏に想いを馳せることができた、あっという間の90分であった。

≪蘇我氏は反動勢力だったか?≫
歴史、ヒストリーとはヒズストーリー。今に伝わるのは、勝者が書き換えた物語であるといわれている。
蘇我氏は戸籍の管理や財政など三つの蔵の管理を司っており、大和朝廷の中央集権化の進展に大きな功績がある。この氏族が、大化の改新の理念である中央集権化に対峙したとは、考え難いとのご意見であった。
近頃の歴史教育では、こういった観点から645年は「大化の改新」ではなく、「乙巳の変」と呼んでいる。

≪乙巳の変のくだり≫
今日の勉強会の大半の時間を使って、日本書紀の皇極天皇紀にもとづき、「乙巳の変」が起こった当日および前後の日々の記載を読んで内容を説明していただいた。原典を読み、中大兄、中臣鎌子、蘇我入鹿、古人大兄、倉山田麻呂などの登場人物の動きを頭に描くことによって、いままでいろんな本で紹介されている乙巳の変ことが、非常に明晰に理解することができた。これが講師の狙いであったような気がする。
日本書記に見られる「乙巳の変」の記載については、飛鳥板葺宮ではなく藤原京をモデルに記載されているのが、非常に良く解った。

≪蝦夷と入鹿の墓所≫
今木の双墳と伝えられている蝦夷・入鹿の墓は今もって不明である。水泥古墳、菖蒲池古墳、宮川原1号・2号古墳、小谷、小谷南古墳などいろいろな説があるが、今もって定かではないとのことである。

日本書紀の記載を十分理解した講師の木村さんの、蘇我氏に対する思いが参加者に伝わり、非常に有意義な勉強会であった。次回のテーマは「雄略天皇物語」ということで、こちらも非常に楽しみである。

                  
啓発グループ  岸 克行 記

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2013年06月16日

第3回「奈良の食」勉強会 実施報告

25年6月12日(水)、自主勉強会「奈良の食」勉強会の最終回となる、第3回目の勉強会を開催しました。(開催場所:南都銀行 西大寺銀行クラブ)
講師は前回に引続き、現在平群町在住の「食品開発コンサルタント」でNPO法人「奈良の食文化研究会」の会員の「山根清孝」さんです。

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最終回の今回は「奈良のうまいものから見えてくる奈良のうまいもの」、「奈良のうまいものの方向転換」という「奈良のうまいもの」をめぐるお話と、「伝統野菜(大和真菜、結崎ねぶか、筒井レンコン、大和芋)」、「畜産品(大和肉鶏)」を中心とした説明があった。

<奈良のうまいものから見えてくる奈良のうまいもの>
奈良県では平城遷都1300年に向けて、奈良をアピールできる名物料理を創り、「奈良のうまいもの」のパンフレット等を作ったが、ヒット商品が出たか、名物ができたかとの検証をされた。
「創作料理7品」、「郷土料理16品」、「お弁当12品目」、「催事お菓子」、「旬菜菓子」、「郷土菓子」などお話があったが、比較的辛口のコメントであった。

<奈良のうまいものの方向転換>
新知事になり、料理単品ではなく、「奈良へ来てうまいものを食べよう!」ということで、そのロケーションをアピールするように、方向転換が行われた。
眺めのいい、ロケーションのいいレストランを県が認定することになった。

<大和真菜>
伝統野菜であるが「大和まな」、「大和マナ」、「大和真菜」という表示が混在し、現在は「大和まな」という表示が多いが、山根さんの意見としては「大和真菜」という漢字表記に統一するのが一番良いのではないかとの意見であった。
古くは「真菜」とはおかずの中のおかずの事をいい、当時は川魚(コイ)のことをさしていたと思われ、これを切りさばくときに使う板から「真菜板」と呼ばれるようになったといわれている。

<結崎ねぶか>
面塚にかかる伝承で有名な「結崎ねぶか」であるが、戦後は軟らかくてスーパー等では扱われなくなって、ほとんど作られなくなっていたが、平成15年に川西町の町おこしのため種を探し出して、復活させた。比較的値段は高いが、軟らかくておいしいので、料亭からの引き合いも多いようである。

<筒井レンコン>
郡山では溜池が非常に多いことから、レンコンが栽培されていた。
ハスの花を「蓮華」(れんげ)といい、地下茎は「蓮根」(れんこん)、蓮の実は中国では薬膳(薬膳スープ)として、よく食べられている。

<大和芋>
御所では「櫛羅芋」ともいい、葛城山頂にある葛城高原ロッジでは櫛羅芋を使用した「芋鍋」が提供されている。
関東では仏芋(イチョウ芋)のことを大和芋と呼んでいる。

<大和肉鶏>
第2次大戦が始まる前まで奈良県は、愛知県、徳島県と並んで日本の肉用鶏の3大産地の1つであった。その肉質が優れていたため、京都や大阪で「やまとかしわ」として名声を博していた。戦後はブロイラーの生産が急増したが、往時の「かしわ」の味を懐かしむ声も多く、奈良県では畜産試験場を中心に高品質地鶏の開発試験研究が始まり、昭和57年に「大和地鶏」の出荷が行われた。
「ニューハンプシャー」と「名古屋コーチン」を掛け合わせたメスに「シャモ」のオスを掛け合わせたものである。在来種由来の血液百分率が50%以上のものが、地鶏として認定されることとなっており、大和地鶏は血液百分率が75%である。

最後に全員にお土産として、山根さんが長年携わってこられたフリーズドライ食品の「たまごスープ」(日本ジフィー食品)をいただいて帰った。勉強会では、フリーズドライ食品の開発にかかる苦労話を聞いていたので、山根さんの苦労が詰まっているような気がしましたね。

勉強会は今回で終了となってしまったが、奈良の食についていろいろな側面から、盛りだくさんの話が聞けて本当に楽かったですね。
また、次回の「旬彩ひより」での、おいしい大和野菜を使った食事会は本当に楽しみです。

啓発グループ 大山 恵功 記
posted by 奈良まほろばソムリエ at 13:31| Comment(0) | 啓発G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする