2019年07月01日

保存継承グループ 橿原市:上品寺町の「シャカシャカ祭」見学記

奈良県内には、御所市・野口神社の「汁かけ祭」や田原本町の「鍵の蛇巻き」「今里の蛇巻き」等、藁(わら)で蛇の形をした綱を作り、それを祀る行事がいくつかあります。

毎年6月5日に行われる橿原市上品寺町の「シャカシャカ祭」は、県内で一番有名な「ノガミ(農神あるいは野神)祭」とのことで、古くは旧暦5月5日に行われていました。
蛇の作成から最終のご神木への蛇巻きまで、のんびりと見学しました。

シャカシャカ祭では、その年に地域(上品寺町)で長男が生まれた家が、当屋(頭屋)を務めます。少子化の進んだ現在は、当屋は世話役のような人が務めます。
当日の午後1時から当屋宅の庭で稲わら(以前は麦わら)で約10b、重さ約20`cの“じゃ”(蛇)をつくります。上品寺町の田んぼで昨年とれた稲わらを使っているとのことです。

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<当屋のガレージで“じゃ”が作られています>


上あごと下あごは、桟俵(さんだわら)という米俵の両端につける円形の藁ぶたを使います。
今年初めての試みで、ビワの実で目がつくられ、完成。なんとも可愛い“じゃ”が出来上がりました。
午後3時から当屋宅で作られた、ヨシの葉で包んだチマキが2個、“じゃ”の顔の前に供えられました。長さ約20a、直径約10aの棒状の大きなチマキです。

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<大きなチマキを口の前に供えられて…>


午後4時ごろ、当屋に青いハッピを着た小学生以下の男子が20人ほど集まってきました。
赤いハッピを着た当屋の児を先頭にして、子どもたちは蛇の横に並びます。

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<4時集合!もうすぐ出発>

午後4時、“じゃ”を担いで、さぁ出発。ただし、昔からの風習で担ぐのは男子のみです。

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<子どもたちが“じゃ”を担いで町内を練り歩く>

途中、現在は無くなった池の跡で“じゃ”に水を飲ませます。池の代わりに、大人が運んできたバケツの水をしゃくで汲んで、口にかけます。

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<子どもたちが交代で“じゃ”に水を飲ませます>

水を飲ませ終わると、折り返して上品寺町の集会所の方に向かい、もう一度池の跡とされる場所で“じゃ”に水を飲ませます。こうして約30分余り練り歩いたあと、集会所横の大きな榎の木(ご神木)に“じゃ”を巻き付けます。木の上に登って巻き付けるのは、大人たちです。
木の上方の二股になった太い枝の間に頭を掛けられ、赤い舌をだらりと垂らした“じゃ”は、少し疲れたような表情にも見えます。

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<二股に分かれた枝に顔を掛けられたる“じゃ”>

“じゃ”が木に掛けられると、祭りは終了。ご神木の前で記念撮影をして解散です。

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<参加者全員で記念写真>

●シャカシャカ祭の由来
元々は、農家を継ぐのが長男であることから、長男が生まれた家が当屋となって、麦わらで、長さ5b、直径30a足らずの蛇(じゃ)を作っていました。それを、村の7才から15才までの男子たちが担いで村を練り歩き、水を飲ませるため南北2つの池の中に“じゃ”をつけた後、農神さんの木にそれを巻き付けて、お神酒やチマキを供える、というものでした。
祭りの起源は、ここにあった大きな池を埋める時に殺した大蛇の霊を弔うためという説もあります。
シャカシャカ祭りの語源については、蛇が竹やぶなどを通る際にシャカシャカと音がしたことから名が付けられたなど、いろいろな説があります。

今後も、元気な子供たちと地域住民の協力により、「シャカシャカ祭」が続いて行くことでしょう。

保存継承グループ  文:春日由広、写真:小倉つき子

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2019年05月27日

保存継承グループ 橿原市:御厨子観音「花祭り」見学記

5月12日午後、橿原市東池尻町の御厨子(みずし)観音・妙法寺で、「花祭り」が行われました。昭和の中頃から始まった祭事で、奉賛会会員たちの協力により、毎年欠かさず行われているということです。

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<磐余の里を練り歩く稚児行列>

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<あまりの暑さに冠を外してしまう「お稚児さん」。きれいな冠は親御さんたちの手に>

午後1時、お稚児さんの衣装を着た、3歳から小学低学年の子供たちによる稚児行列が御厨子観音を出発。天香久山の麓、磐余(いわれ)の池跡近くなど、のどかな農道を10人ほどの僧侶を先頭に、親御さんに手を引かれた25人の稚児たちが神妙な面持ちで歩いていました。五月晴れに恵まれましたが、気温は夏日を思わせるほど上昇。あまりの暑さに、行列の途中で被っていた冠を外す子もいました。

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<稚児行列が終わると、本堂前で読経が続き、散華をまく作法が>

15分ほど歩いて境内に戻ってくると、僧侶により散華がまかれました。稚児たちは競って散華を拾い、お母さんたちに渡していました。第二日曜日は、母の日。素晴らしいプレゼントになったことでしょう。本堂に僧侶たちが上がると、堂内で稚児たちへの加持が行われました。一人ひとり順番を待ち、小さな手を合わせて祈祷を受けました。一願祈祷ということで、何か一つ、お願い事をしたのでしょうか。

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<本堂に上がり、加持を受ける稚児たち。神妙な面持ちで小さな手を合わせる姿が可愛い>

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<本尊十一面観音の御前で僧侶たちによる大般若経の転読法要>

2時ごろから、いよいよ本尊十一面観音の御前で僧侶たちによる大般若経の転読法要が営まれました。大般若経の経本を、高く持ち上げた片方の手からもう一方の手にパラパラとめくっていく、迫力ある独特の転読が続きました。

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<吉田明史住職が御厨子観音創建や磐余の里の歴史なども交えて法話>

法要が終わると、吉田住職から「御厨子観音妙法寺は、吉備真備が遣唐使として入唐し、学芸を修めて無事に日本に帰ることできたことに感謝して創建されました」という寺伝や吉備真備の功績が語られました。

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<参道脇には、磐余の池を詠んだ大津皇子の辞世の句の歌碑が>

また、「御厨子観音横に広がる空き地が、発掘調査により、謀反の疑いで若くして絞首刑となった大津皇子が辞世の句に詠んだ磐余の池跡であることが明らかになった」など、磐余の里にまつわる古代史にまで話が及びました。

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<私服に着替えた子供たちが、境内端に設けられた金魚すくいやスーパーボールすくいを>

すべての行事が終わると、境内端に準備されていた「金魚すくい」と「スーパーボールすくい」で、子どもたちは大はしゃぎ。思い出の一日になったことと思います。


文・写真  保存継承グループ 小倉つき子

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2019年04月20日

保存継承グループ 明日香村:飛鳥寺の「花会式」見学記

日本最古の仏像「飛鳥大仏」をまつる飛鳥寺で、お釈迦様の誕生をお祝いする「花会式」(灌仏会・花まつり)が4月8日に行われました。この日は各地のお寺で花会式が執り行われますが、日本で最初に花会式が行われたのは同寺とされます。

飛鳥寺は推古4年(596年)、日本に伝えられた仏教を保護した蘇我馬子の発願により国内初の本格的な寺院として建立されました。本尊の釈迦如来坐像(重要文化財)は推古17年(605年)、鞍作止利による銅造丈六(一丈六尺)仏で、飛鳥大仏の名で親しまれてきました。鎌倉時代、建久7年(1196年)の火災で伽藍の大半が焼失し、現在の本堂は江戸時代に再建されたものです。

4月8日朝は雨も相当降りましたが、午後2時の法要が始まるころは、春の日差しが降り注ぐ素晴らしい天候となりました。

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<境内の入り口には花会式の看板も取り付けられていました>

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<境内では、お寺の方による甘茶のふるまいがありました>

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<本尊の釈迦如来坐像前には花会式の準備が整っていました>

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<本堂の前では、釈迦誕生仏に甘茶をかけることができました>

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<午後2時から花会式法要が行われています>

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<本堂内で読経が続く中、招待の方々が釈迦誕生仏に甘茶をかける灌沐(かんもく)が行われています>

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<続いて一般参列者の釈迦誕生仏への灌沐が行われます>

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<堂内では僧侶による散華(さんげ)が行われます>

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<法要の後は、特別講演で「大仏様の履歴書」と題して大阪大学文学研究科の藤岡穣教授の講演が行われました>

平成25年から28年にかけて飛鳥大仏の蛍光X線による青銅の組成分析が行われ、体部は火災後の補修によるものとみられるが、面部と右手は当初材と推定されるということです。

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<花会式は午後4時には無事終了、1時間の講演も含め、大仏様の前で貴重な体験をすることができました。>

今回の花会式は、満開の桜の下で行われ、時折吹く明日香風に乗って桜の花吹雪が舞い散り、お釈迦様のご加護をひしひしと感じ取ることができました。


文・写真 保存継承グループ 橋詰輝己

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2019年03月23日

保存継承グループ 奈良市:春日大社の「春日祭」見学記

春日祭(かすがさい)は「三大勅祭」の一つとして、京都の葵祭、石清水祭と共に皇室が関わる伝統祭礼上、重要な役割を果たしてきました。春日大社は藤原氏の氏神だったことから、春日祭は藤原氏のための祭事という側面も有していました。現在ではその色合いはなくなりましたが、勅使参向という意義は変わりません。勅使とは天皇陛下の名代(使者)であり、勅祭とは名代が神社に派遣されて実施される祭礼のことで、国家の安泰と国民の繁栄を祈る祭事として実施されています。

祭事は平安時代の嘉祥2年(849年)に始まりました。平安時代は行事の規模は大きかったのですが、中世以降は次第に規模も縮小し、明治以前には年2回、2月と11月の最初の申(さる)の日に実施されていたようです。そのため春日際は申祭(さるまつり)とも呼ばれてきました。
現在では年1回、勅使をお迎えする祭事として3月13日に行われています。儀式は9時から宮中より天皇陛下の名代である勅使のお迎えして、参道から神殿には新しい砂が敷かれ、勅使がその上を歩き神殿に向かいます。(春日祭の由緒・歴史・祭事の内容は「奈良まちあるき風景紀行」より抜粋)

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<春日祭当日には一之鳥居に榊が飾りつけられます>

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<祭事が行われる参道には新しい砂が敷かれ、見学の方はロープの手前で祭事を見守ります>

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<祭事のための神饌(お供え物の食事)を運び本殿に向かいます>

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<天皇陛下の勅使を迎え、新しい砂を敷かれた上を歩き祭事を行う本殿に向かいます>

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<2頭の神馬も本殿に向かいます>

10時から勅使以下が斎館を出て、祓戸の儀、著到の儀を経て幣殿・直会殿の作合の座につき、下記の儀式を行い、正午過ぎに祭儀が終了するスケジュールで行われます。
・御棚奉奠(みたなほうてん)
・御幣物奉納(ごへいもつほうのう)
・御祭文奉上(ごさいもんそうじょう)
・神馬牽廻(みうまのけんかい)
・和舞奉奏(やまとまいほうそう)
・饗饌(きょうせん)
・見参(げざん)
・賜禄(しろく)

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<神馬牽廻(みうまのけんかい)のために神域に入る神馬>

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<本殿では式次第に従って祭事が執り行われています>

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<雅楽の音色が流れる中、神への舞が執り行なわれています>

一般の参加者は本殿前に立ち入り禁止のロープ手前で中の様子を伺っています。午前9時から始まった神事も正午過ぎには終わります。本殿前の階段は邪魔にならないように、道を開け静かに見守ります。

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<無事、平成最後の春日祭が執り行われ、本殿から出てこられました>

祭事の見学中、隣の婦人とのおしゃべりで、「千葉から祭礼の見学に来ました。昨日は二月堂のお水取りで、今日は春日祭。奈良は古式ゆかしい行事が数多く残り、うらやましい限りです」と最大の誉め言葉を頂きました。

早朝からの風雨が収まり、祭事を待つこと1時間余りの待機も苦にならず、かえって参道が雨で清められ祭事の雰囲気が増した感がありました。待つ時間が心地良い「奈良時間」に身を置くことで、伝統の祭事を堪能することができました。

文・写真 保存継承グループ 橋詰 輝己


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2019年02月13日

保存継承グループ 斑鳩町:法隆寺西円堂の「追儺式」見学記

法隆寺(生駒郡斑鳩町)の修二会は西院伽藍の西にある西円堂で2月1日から3日間、本尊の薬師如来坐像の前で「薬師悔過(けか)」の行法で行われます。その最終日、2月3日の結願の後に近隣住民や行事愛好者らが見守る中、呼び物の「追儺(ついな)式」が行われます。鬼追い式とも言われ、鬼3匹が登場して暴れますが、最後は毘沙門天に追い払われます。

特徴はその暴れ方で、手に持った炎の上がる松明(たいまつ)を何と見物人の方に投げつけます。投げる方向は手加減して行われていたそうですが、50年ほど前に見物人に当たる事故が起き、その後は全国的にも珍しい鉄パイプを組んで金網を張り巡らす安全対策をとって現在に至っています。

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八角円堂の西円堂(鎌倉時代再建)、脱活乾漆造の薬師如来坐像(奈良時代)とも国宝。西円堂は小高い場所にあり「峯の薬師」の別名でも知られます。

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西円堂の東、南、西の三方を囲むように設置された鉄パイプと金網フェンスは高さ約5b。工事は1月後半に行われます。

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修二会の結願は3日午後5時から約1時間半にわたって大野玄妙管長ら僧8名で執り行なわれました。本尊前での読経などが続き、途中でホラ貝の音も響きました。 

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結願の最中、西円堂北隣の薬師坊庫裡(重要文化財)に鬼などを演じる人たちが到着。浴室で身を清めた後、衣装を身に付け、本番に備えます。

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鉦(かね)と太鼓で強弱をつけて5分ほど打ち鳴らすのを1回とし、これを7回半繰り返して鬼の登場を待ちます。小雨の中、金網フェンスの内外には消防団員がスタンバイ。

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午後7時半すぎから黒鬼(父鬼)、青鬼(母鬼)、赤鬼(子鬼)の順に、それぞれ斧(おの)、宝棒、剣を手にして登場します。写真は黒鬼が斧を研ぐ格好をしているところです。

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鬼が手に持った剣などで松明の柄をたたくと火の粉が赤々と飛び散り、見物人から歓声が上がります。小雨は次第に強くなりましたが、イベントは佳境に。

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鬼たちのパフォーマンスの圧巻は金網フェンスへの松明投げつけ。写真は松明が金網に当たった瞬間。消防団員が手早く落ちた燃え殻を掃き払い、バケツの水をまきます。

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パフォーマンスは基壇上の東、南、西での3カ所で時計回りで行われます。写真は正面が南側の赤鬼、左奥が西側の青鬼(姿は見えない)。鬼たちは基壇を3周します。

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南側で矛(ほこ)を手に鬼を追い払う所作をする毘沙門天。立春を迎えるに当たって、旧年の邪悪なものを消し去る願いを込めます。

安全になったとは言え、金網などに当たった松明の火花が見物人側に飛び散ることもあり、スリル十分。鬼たちに男の子が「こっちに投げて〜」とリクエストする場面が何度かあり、見物人の笑いを誘っていました。
反対に法隆寺の鬼はうなり声などを出さず、静かなのが印象的でした。

この追儺式は鎌倉時代の弘長元年(1261年)に始まったとされ、この種の追儺行事として最も歴史をもつとされます。鬼と毘沙門天の役は、同寺の僧の役目だったそうですが、江戸時代後期から法隆寺北東の鬼門の方角に位置する斑鳩町岡本の住民が務めています。松明を持って鬼を補佐する算主(さず)役は同寺近隣の人たちです。

消防団員を含む地域住民が世界遺産の同寺の伝統行事を支えているといえそうです。

文章・写真  保存継承グループ  久門たつお

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