2019年02月13日

保存継承グループ 斑鳩町:法隆寺西円堂の「追儺式」見学記

法隆寺(生駒郡斑鳩町)の修二会は西院伽藍の西にある西円堂で2月1日から3日間、本尊の薬師如来坐像の前で「薬師悔過(けか)」の行法で行われます。その最終日、2月3日の結願の後に近隣住民や行事愛好者らが見守る中、呼び物の「追儺(ついな)式」が行われます。鬼追い式とも言われ、鬼3匹が登場して暴れますが、最後は毘沙門天に追い払われます。

特徴はその暴れ方で、手に持った炎の上がる松明(たいまつ)を何と見物人の方に投げつけます。投げる方向は手加減して行われていたそうですが、50年ほど前に見物人に当たる事故が起き、その後は全国的にも珍しい鉄パイプを組んで金網を張り巡らす安全対策をとって現在に至っています。

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八角円堂の西円堂(鎌倉時代再建)、脱活乾漆造の薬師如来坐像(奈良時代)とも国宝。西円堂は小高い場所にあり「峯の薬師」の別名でも知られます。

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西円堂の東、南、西の三方を囲むように設置された鉄パイプと金網フェンスは高さ約5b。工事は1月後半に行われます。

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修二会の結願は3日午後5時から約1時間半にわたって大野玄妙管長ら僧8名で執り行なわれました。本尊前での読経などが続き、途中でホラ貝の音も響きました。 

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結願の最中、西円堂北隣の薬師坊庫裡(重要文化財)に鬼などを演じる人たちが到着。浴室で身を清めた後、衣装を身に付け、本番に備えます。

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鉦(かね)と太鼓で強弱をつけて5分ほど打ち鳴らすのを1回とし、これを7回半繰り返して鬼の登場を待ちます。小雨の中、金網フェンスの内外には消防団員がスタンバイ。

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午後7時半すぎから黒鬼(父鬼)、青鬼(母鬼)、赤鬼(子鬼)の順に、それぞれ斧(おの)、宝棒、剣を手にして登場します。写真は黒鬼が斧を研ぐ格好をしているところです。

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鬼が手に持った剣などで松明の柄をたたくと火の粉が赤々と飛び散り、見物人から歓声が上がります。小雨は次第に強くなりましたが、イベントは佳境に。

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鬼たちのパフォーマンスの圧巻は金網フェンスへの松明投げつけ。写真は松明が金網に当たった瞬間。消防団員が手早く落ちた燃え殻を掃き払い、バケツの水をまきます。

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パフォーマンスは基壇上の東、南、西での3カ所で時計回りで行われます。写真は正面が南側の赤鬼、左奥が西側の青鬼(姿は見えない)。鬼たちは基壇を3周します。

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南側で矛(ほこ)を手に鬼を追い払う所作をする毘沙門天。立春を迎えるに当たって、旧年の邪悪なものを消し去る願いを込めます。

安全になったとは言え、金網などに当たった松明の火花が見物人側に飛び散ることもあり、スリル十分。鬼たちに男の子が「こっちに投げて〜」とリクエストする場面が何度かあり、見物人の笑いを誘っていました。
反対に法隆寺の鬼はうなり声などを出さず、静かなのが印象的でした。

この追儺式は鎌倉時代の弘長元年(1261年)に始まったとされ、この種の追儺行事として最も歴史をもつとされます。鬼と毘沙門天の役は、同寺の僧の役目だったそうですが、江戸時代後期から法隆寺北東の鬼門の方角に位置する斑鳩町岡本の住民が務めています。松明を持って鬼を補佐する算主(さず)役は同寺近隣の人たちです。

消防団員を含む地域住民が世界遺産の同寺の伝統行事を支えているといえそうです。

文章・写真  保存継承グループ  久門たつお

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2019年01月26日

保存継承グループ 宇陀市:平尾水分神社の「オンダ祭り」見学記

平尾水分神社は宇陀市大宇陀平尾の宇陀川右岸にあり、本殿は県文化財に指定されています。オンダ祭りは平尾地区の祭礼として毎年1月18日夜に五穀豊穣を祈る行事として開催されており、平成4年(1992年)3月に県無形民俗文化財に指定されました。

東西の地区に分かれて氏子がそれぞれ宮講を組織し、毎年1人ずつ1年神主の大当(だいとう)と小当(しょうとう)が選ばれます。18日朝から神殿前の特設舞台と模擬苗作りが行われます。舞台は境内中央に組まれ約3b角の板床で、苗は約30aの2本の萱の先に樒(しきび)、藁(わら)の穂先、弊紙(へいし)を添えたものです。

夜になると冷え込む中、宮講の人々が集まってきます。

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<境内には次々人が集まり、甘酒の振る舞いも>

祭礼の前に氏子たちは宮司さんから清めのお言葉を授かり、直会(なおらい)が始まります

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<社務所では村の氏子たちに宮司さんからの清め神事が>

直会を終わると、本殿におもむき祝詞が上げられました。

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<本殿にはいろいろな品物がお供えされ祝詞を奏上>

行事の田植えをするショトメ(早乙女)役は地域の子供が担当します。小学生の男児が務めてきましたが、近年の少子化で女児も参加するようになり、当日は4歳から11歳の男女、5人の子供が主役を務めました。

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<ショトメの大役を前に社務所で出番を待つ子供たち>

境内の社務所では、直会の後、氏子らにより酒や乾燥した雑魚(じゃこ)をつまみに話が弾みます。

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<大当・小当を中心に清めの盃をいただく>

午後7時から、境内に作られた舞台で御田植行事が始まりました。
社務所から提灯(ちょうちん)持ちに先導されて、木製の鍬(くわ)を担いだ大当以下、小当、ショトメの順に舞台に上がりました。

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<社務所から境内の舞台に向かう大当・小当>

田主役の大当が舞台で詞章を唱えながら、鍬を用いて@鍬初め、A掛初め、B苗代角打ち、C苗代しめ、D水入れ、E水戸祭り、F福の種まき、G苧紡ぎ、H春田打ち、I管巻く鳥追い、J追苗取りと田植えの一連の所作を模していきます。

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<木の鍬を使ったオンダ祭りの様子。背後にはショトメ5人が並ぶ>

J苗とり、K田植え、L追苗取りでは全員で舞台の上を回ります。子供のショトメは自分の背丈ほどの笠を肩から担ぎ大当と共に演じました。

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<全員で舞台の上を回る>

小当が間水持ちとともに、この日のみ開帳される「若宮さん」を抱いて舞台に上がります。「若宮さん」は普段は平尾水分神社の御神体として祀られている黒い翁面を付けた人形で、体中にびっしりと紙縒(こより)が巻きつけられています。地区の人たちや見物人は自分たちの体の具合の悪い部分の紙縒を小当からもらい受け、大切に持ち帰りました。

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<若宮さんに巻き付けられた紙縒をもらう人たち。どこが悪いのかな?>

この平尾の行事は、天保15年(1844年)の古式の詞章にのっとって行われています。田植えの一連の所作は古から受け継いだものです。

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<大役ご苦労様でした>

ショトメの役を終え社務所に戻った子供たち。肩の荷がおり、ようやく笑顔が戻ります。

奈良県内のオンダ祭りの中でも最も古い形を残して五穀豊穣を願う平尾のオンダ祭り。今回は保存継承グループから8名が見学し、古式にのっとった地区行事を目の当たりにして見聞を広めることができました。

文・写真 保存継承グループ 橋詰輝己

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2018年12月29日

奈良市:正暦寺「冬至祭」見学記

12月22日、前夜からの雨が残るなか、奈良市東南の山間・菩提山(ぼだいせん)町に建つ古刹、正暦寺(しょうりゃくじ)の「冬至祭」に参加。

冬至といえば、一年のうちで最も昼が短く夜が長い日。一年で一番日照時間が短いということは、翌日から長くなるということであり、この日を境に再び力が甦り、運気が上昇するともいわれる。
そして、冬至で食べる食べ物でといえば「カボチャ」。長期保存がきくため、栄養満点の食材として、風邪や中風(脳血管疾患)の予防に良いとして食べられてきた。運気アップのパワーを蓄えてくれるということだろうか?
正暦寺「冬至祭」は、1952(昭和27)年(先々代住職在世時)から、中風封じの行事として始められた。現在は健康祈願や長寿を願う行事になり、この日も多くの参拝者で賑わう。

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午前10時から護摩堂にて不動明王像の前で、一人ずつ順番に護摩祈祷とお加持が修法される(申込者のみ)。

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11時から、客殿にて大原弘信住職の法話。テーマは「五Kで生きる=明るく軽やかに」。五Kとは、
●Ka=か・・・感動
●Ki=き・・・希望(夢をもち、夢を語りましょう)
●Ku=く・・・工夫
●Ke=け・・・継続(続けることによってわかる)
●Ko=こ・・・行動(動いていれば何かが起こる。考えたら動くこと)

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「思いがあれば、思いに向かって行動しましょう。いいことをしていると、明るく軽やかになってきます。それがいい結果につながる」と住職は話す。
分かりやすくて、深い内容の法話に、参拝者たちは一心に聞き入る。

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法話の後、客殿の障子が開けられると、枯山水の庭が雨上がりのなかで輝いている。今年、松の木が枯れたのを機に、庭の木を低く剪定したため、90年ぶりに庭を囲む白壁が姿を見せ、清々しい昔の庭が甦ったとのこと。

特別開扉されている瑠璃殿(宝物収蔵庫)では、秘仏の金銅の薬師如来倚像(白鳳時代・国重文)を拝観。


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締めは、カボチャの精進弁当(要予約。1、000円)をいただく。精進料理で人気の正暦寺だけあって、カボチャづくしのおいしいお弁当だった。
良い年を迎えられる、いい気を十分にいただいた「冬至祭」だった。

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※正暦寺は992(正暦3)年、一条天皇の勅命により創建。山号は「菩提山」。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていた。しかし、1180(治承4)年、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化す。1218(建保6)年、興福寺の学問所として再興し、昔に勝る隆盛を極めたが、江戸時代以降は再び衰退。ほとんどの堂塔・伽藍は失われ、現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなった。
古来より紅葉の鮮やかさから、「錦の里」と呼ばれてきた。主要な伽藍は失われてしまったが、静かな宗教空間は昔と変わらず当寺山内に存在している。
また、室町時代は大量の「僧坊酒」を作る筆頭格の大寺院であり、清酒製法の祖とされる正暦寺。1996(平成8)年から菩提酛(もと)を用いた酒を復活し、毎年1月に酒母の仕込みを行っている。


文と写真  保存継承グループ  小倉つき子

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2018年12月12日

奈良市都祁吐山:下部神社「吐山の太鼓踊り」見学記

大和高原南部にある奈良市都祁(つげ)吐山(はやま)町の下部(おりべ)神社で11月23日に秋祭りが執り行われました。この祭りでは昭和60年(1985年)に奈良県無形民俗文化財に指定された「吐山の太鼓踊り」が、7つの垣内から7張の大太鼓が集まり奉納されました。

昼すぎ、祭りの参加者が公民館に集合し記念写真を撮ったあと、3方向に別れて打ち上げ花火を合図に出発。途中で合流し、各垣内の幟(のぼり)を先頭に大太鼓、踊り手、シデ振り、鉦叩き、歌出し、役員の方々が、太鼓を打ちながら下部神社に向かって進んでいきます。

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小中学生も一緒になった集合写真

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下部神社へのお渡り

途中、恵比寿神社前で合流し神主のお祓いを受けたあと、「辻太鼓」を打ち鳴らします。ここからは、厄払いの天狗が先導し「打ち込み踊り」を演奏しながら下部神社の境内へ入っていきました。

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神主のお祓い

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境内への入場

拝殿前に7張りの大太鼓が並び最初の「干田(ひんだ)踊り」が始まりました。1曲目が終わると裃姿の「シンボウウチ」の口上があり、「宝踊り」と「長崎踊り」が演奏されました。これらの踊りは各曲の1番から3番を3人が1組になって1人ずつ交代で叩いていきます。これが7張りの大太鼓で一斉に行われるのです。

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「干田踊り」の小中学生

踊り手は曲打ちや背面打ちなどの技を見せたりもしていました。シンボウウチはその間、青いシデを振りながら全体の指揮をとって歩いています。また、天狗は自由に動きまわり囃子方を務めていました。

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背面打ちの撥(ばち)さばき

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青いシデを振る裃姿のシンボウウチ

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ササラを叩く天狗

奉納演奏が終わると「納め踊り」で太鼓を打ちながら鳥居をくぐり、再び天狗の先導で神社を後にして終了となりました。

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天狗の先導で「納め踊り」

吐山の太鼓踊りは元禄6年(1693年)の歌本が残っているということです。干ばつが起こった時に雨乞いの祈祷を行い、祈願成就のお礼に氏神様に太鼓踊りを奉納してきたものです。治水対策や農業技術の向上などにより、何十年も太鼓踊りが行われないこともあり、少しずつ記憶から遠ざかることになっていました。

昭和59年(1984年)に吐山太鼓踊り保存会が結成され、平成6年(1994年)からは小学校で郷土学習として太鼓踊りが取り入れられています。また、小学校の放課後、子供教室でも「太鼓踊りクラブ」として活動しているそうです。この子供たちの何人かは中学進学後も練習に参加し、「吐山太鼓踊りヤングクラブ」として活動しています。練習を頑張った子供たちの発表の場としてイベントへの参加もしているそうです。そして、集大成として秋祭りで成果を発表することとなるのです。
今年は小学生が14人、中学生が8人参加の総勢60人ということでした。地域の太鼓踊りの伝統を受け継いでくれています。

保存会では、機関紙「雨たんもれや」=雨よ降ってください、の意味=を発行し、太鼓踊りの歴史や伝統、継承などについて情報発信に努めておられます。

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機関紙「雨たんもれや」

このように、地域と学校が連携し、伝統文化に関して継承者の育成や秋祭りに組み入れるなど他の地域にも参考になる新しい取り組みではないかと思います。

文・写真 保存継承グループ  仲谷裕巳
posted by 奈良まほろばソムリエ at 22:56| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月03日

宇陀市:龍穴神社 秋祭り見学記

秋真っ只中の10月14日(日)、室生寺と縁の深い龍穴神社で恒例の秋祭りが行われました。この祭りは安政年間に室生寺を火災から救った村人へのお礼として一対の獅子頭が寺から贈られたことが始まりと言われています。
前日の五つの垣内ごとの宵宮に続いて、本宮のこの日は好天に恵まれ、午後1時すぎに室生寺太鼓橋を出発した行列は室生寺境内の天神社で神事などを行った後、再び太鼓橋から約1`東の龍穴神社までお渡りをし、神事などに続いて獅子舞神楽を奉納しました。

まず、太鼓橋にお渡りの一行が並び、氏子総代が室生寺の正門から本坊へ「七度半の使い」と言われる室生寺管長の出御を請う儀式から始まります。

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氏子総代による「七度半の使い」

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管長の出御

管長が姿を現し着座すると、氏子総代と御幣を先頭に雌雄の獅子、須供(すこ)と呼ばれる神饌、日の丸をあしらった御幣、神職、役員の方々の行列が続きます。

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須供(すこ)〜芋茎(ずいき)に飾り付けた神饌

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太鼓橋に集合したお渡り一行

一行はまず室生寺仁王門をくぐり、鎧坂を上って金堂前の広場東側の天神社までお渡りを行います。広場の傍らにある天神社の神杉には藁で作った龍縄(りゅうじょう)と呼ばれる勧請綱が掛けられています。

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天神社の龍縄

龍穴神社神職による神事が始まると、雌雄二頭による獅子舞が奉納されます。

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雌雄二頭による獅子舞奉納

この後お渡りの一行は、再び太鼓橋を通り龍穴神社まで室生川に沿ってお渡りが行われます。ここで子供神輿も行列に加わります。

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お渡り一行

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子供神輿

行列は参道脇の禁足地に立つ神杉に掛けられたもう一つの龍縄の側を通り龍穴神社に向かいます。

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龍穴神社の龍縄

龍穴神社境内ではお渡りの一行全員がお祓いを受けた後、拝殿で神事が執り行われます。
その頃、室生龍穴太鼓による勇壮な奉納演奏が行われました。

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室生龍穴太鼓の奉納演奏

続いて獅子舞の奉納です。まず子供の獅子舞が行われました。今年は小学校4年生の子供が舞うということで、半ズボンに運動靴の獅子が微笑ましかったです。笛と太鼓の演奏も子供たちでした。

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子供たちによる獅子舞神楽

そして、大人の獅子舞神楽の奉納です。黒髪の雄と赤髪の雌が交互に鈴や刀を持って舞を披露します。中々の迫力でした。

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迫力ある獅子舞神楽

最後に各垣内でついたお餅で、御供まきが盛大に行われました。皆さんダイレクトキャッチしたり、拾ったりと、バトルを繰り広げておられました。
氏子による獅子舞をはじめとする祭りの維持継承は大変なことと思います。少子高齢化、若者の流出などを乗り越え、いつまでも伝統文化を残して欲しいと願っております。

文・写真 保存継承グループ  仲谷裕巳

posted by 奈良まほろばソムリエ at 11:39| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする