2017年05月07日

保存継承グループ「大峯山戸開式」見学記

平成29年5月2日〜3日にかけて天川村の山上ヶ岳頂上にある大峯山寺(世界遺産登録名:大峰山寺)に、松田度(大淀町教育委員会)氏と当グループの鈴木英一氏、私亀田の合計3名で、山開きにあたる「大峯山戸開式」を見学してきました。
この3名は平成26年12月21日の当会主催の納会における研究発表(大峯奥駈道を歩くがテーマ)と講演会(大峯奥駈の歴史と現状がテーマ:松田氏)のメンバーです。
3人が会ったときに「大峯山戸開式」を見学しておかないと大峯奥駈道を語る資格はないと意見が一致し、今年さっそく実行しました。


@平成29年5月2日(火)の行程

午前中に桜が満開の天川村洞川(標高約800m)に入り、女人結界門から登山開始。

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(登山口への標識)

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(清浄大橋そばのいかめしい女人結界門)

途中、平成26年9月に奥駈けをした時に果たせなかった表行場「鐘掛岩」を近くにおられた大先達の方の助言に基づき無事通過でき、リベンジが果たせました。

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(鐘掛岩(かねかけいわ)標高1620m :下方が私)

午後3時過ぎに山上ヶ岳山頂(標高1719m)にある「大峯山寺」に到着。
さすがに戸開前の大峯山寺の前はひっそりしています。

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(門柱と8役講の提灯)

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(ひっそりとした大峯山寺本堂)

この日は、龍泉寺宿坊で1泊し翌朝未明の「戸開式」に備えます。宿坊は満室です。

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(宿坊の精進料理の夕食)


A平成29年5月3日(水)の戸開式ハイライト

起床:
午前2時宿坊は講の信者達がもう起きだして、ざわついています。私たちも起床して、大峯山寺に出かける用意にかかりました。

戸開式:
戸開式には大峯山の護寺院(龍泉寺・竹林院・桜本坊・喜蔵院・東南院)と信者の代表としての8役講に洞川区及び吉野山の代表者並びに信徒総代が参列し、山伏装束や羽織袴の正装で多数の信者の見守る中伝統の儀式が開始されます。
午前3時に本堂そばの事務所で大峯山寺の当番寺院住職から、一尺余りの3つの入口の鍵が年番役講の代表者へ渡され、鍵を受け取った信者達は一旦参篭所に戻り、人馬を組んで鍵持ちを乗せ、松明を手にワッショイワッショイの掛け声とともに本堂前の急坂をかけ登ってきます。
午前3時30分から3つの入口の当番の護寺院住職も自坊参篭所から同様に人馬に乗って境内に到着すると、人馬が練りまわり鍵を奪い合う各役講の人馬が入り混じって最高潮に達します。

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(練り歩く各講の人馬で熱気が最高潮に達する)

本堂の扉が開かれると、信者たちが堂内になだれ込み、御本尊(蔵王権現像)及び役行者尊の前で般若心経を唱え、信仰の法悦に浸ります。

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(開かれた正面入口から信者がなだれ込む)

私たちも少し遅れて堂内に入り、戸開式と戸閉式の儀式の間のみ特別御開帳の「秘仏 秘密行者尊」(役行者像と前鬼・後鬼像)を、般若心経の大合唱の中で拝観し、厳粛かつ熱気のある独特の雰囲気を存分に味わう、貴重な体験をさせていただきました。
<残念ですが当然、堂内の場面の写真は不可ですので悪しからず>

その後本堂わきの護摩道場で大護摩供が厳修され、国家安寧・五穀豊穣・世界平和の祈願がされる頃、夜明けを迎えました。お山は9月23日の戸閉式までにぎわいます。

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(いつ見ても神々しい夜明け)

文・写真  保存継承グループ 亀田幸英
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2017年04月09日

保存継承グループ 甘樫坐神社 盟神探湯神事 見学記

4月2日 明日香村の甘樫丘の北端麓、向原寺(伝豊浦の宮跡)の西隣の甘樫坐(あまかしにます)神社で盟神探湯(くがたち)神事が営まれ、保存継承グループ6名で見学に参加しました。

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(甘樫坐神社正面)          

盟神探湯とは古代の呪術的裁判法で、宗教、法律、道徳が未分化で呪術的観念が支配的な文化段階において正邪を判断するために用いられた方法です。
文字通り、対象となる者に、神に潔白を誓わせた(盟神)後、釜の中で沸騰する熱湯に手を入れさせ(探湯)、その結果により、事の正邪を判断するもので、正しき者は無事で、偽りのある者は大火傷を負うというものです。 

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(境内の案内板)

「日本書紀」には允恭天皇4年(415)に、氏姓の混乱を正すために、甘樫の神前で煮え湯の入った釜に手を入れて盟神探湯が行われたと記載されています。
平城遷都後、明日香は衰運に向かい、その釜も神社と一緒に現在地に移されましたが810年以降いつしか失われてしまいました。 
現在では毎年、4月の第一日曜日に、境内の立石の前に釜を据え、嘘、偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷地区の氏子達が盟神探湯の神事を保存・継承しています。

開始前に甘樫坐神社に行くと、境内には数メートル四方にしめ縄が張られており、立石側のしめ縄近くには古い湯釜が据え置かれていて、近所の人や見学に訪れた人々がしめ縄を囲んで神事の始まりを待ち、拝殿内では既に氏子達が上がってお祓いを授かっている様子です。

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(据えられた古い湯釜「寛政十戊年十二月」とある。(1798年))

14:00になり、来賓の方々の挨拶終了後、甘樫坐神社の飛鳥弘文宮司が板木を鳴らして神事の始まりです。

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(宮司が板木を叩き神事の開始)

宮司が立石の前の湯気の立つ釜に向かい、青竹の大幣で丁寧にお祓いをされます。
その釜の中に、まず白いお皿(白瓮)に盛られた米を入れ、次に大きな瓶子に入ったお神酒を注ぎ、最後に白瓮に盛られた塩を入れます。

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(宮司がお神酒を注ぐ)

その後、白い紙を広げられ、祝詞を読み上げられます。
それから熊笹の大きな束を釜の中に深く、しっかりと浸します。
丁寧に引き上げられた熊笹の束をふんわりと包むように白い湯気が立ち上がります。

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(宮司による熊笹のお祓い)

宮司は熊笹の束を掲げ、境内の参列者や見学者にお祓いをされます。
そしてゆっくりとすべての所作を終えられます。始終無駄な動きなく、真に美しい所作で見とれてしまいました。
さて雰囲気は変わり、飛鳥時代の衣装を着た劇団「時空」の寸劇が始まります。
隣のお寺の仏像が何者かに傷つけられた事件が発生し、3人の容疑者が一人ずつ湯釜に手を入れ裁判が行われ、犯人が判明するというストーリーで、笑いも交えて和やかに分かりやすく盟神探湯神事を再現していました。

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(劇団「時空」の寸劇)

最後に参列者や見学者に熊笹が配られ一人ずつ順にそれを湯釜につけ、身を清めさせていただき全ての儀式が終了しました。
寸劇を見ていた氏子らしき小学生の男の子が「僕はてっきり真ん中の人が犯人と思ったけどなぁ〜」と家族に話す口調が何とも愛らしく、素直でほのぼのとしていて、この子も将来この神事を保存継承してくれる人に成るのだなと感じながら帰途につきました。
道すがら、春の陽気に包まれてミモザの花が満開でした。

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(桜の開花はまだでしたが満開のミモザの花)

私も有り難く熊笹を持ち帰らせていただき、我が家の玄関に祀らせていただいております。嘘、偽りを正し、爽やかな毎日でありますようにと。

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(頂いた熊笹)

文  保存継承グループ 中辻安以子
写真  中辻安以子、亀田幸英
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2017年03月12日

保存継承グループ 調田坐一事尼古神社おんだ祭り見学記

3月6日、葛城市(旧新庄町)疋田の調田坐一事尼古(つくだにますひとことねこ)神社のおんだ祭りを見学させていただきました。

近鉄南大阪線尺土駅から南へ、大田川に沿って10分程歩きます。ほぼ正方形の境界線をもつ疋田の集落の中ほどに位置しています。すぐ隣には公民館もあり、集落の人々の中心的な場であることがうかがえます。

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〈一の鳥居から参道を見る〉

古く『延喜式』神名帳に載せる式内大社で、神護景雲4年(770)には封戸を与えられ、貞観元年(859)には従五位上を与えられた、由緒ある神社です。
時を経て無住となっていましたが、今の宮司様の3代前からは常住されています。
御祭神は一事尼古大神と事代主大神です。前者は一言主神と同神で、「尼古」とは高貴な男神を示す語だそうです。

おんだ祭に先立ち、祈年祭が執り行われました。
本殿前の拝殿内には、20名ほどの氏子代表の方々が参列されていました。

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〈神官や氏子が手水で身を清める〉

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〈拝殿前〉

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〈祈年祭 奥が本殿〉

拝殿の中には、文久元年(1861)の大きな絵馬をはじめとして、現代のものまでたくさんの絵馬が奉納されています。
祈年祭の最後に、御神楽「浦安の舞」が奉納されます。
小学校5年生の女の子が巫女を務めることになっています。

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〈御神楽「浦安の舞」(上に掲げられているのが文久元年の絵馬)〉

祈年祭に続いておんだ祭(御田植え祭)が行われます。
言うまでもなく、春先の農作業の開始前に、五穀豊穣を祈念して、農作業を模擬的に演じる予祝儀礼です。
神社境内に、結界をめぐらした模擬田が作られています。
模擬田の中で、改めて祝詞奏上などを行ったあと、いよいよ牛の登場です。

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〈牛の登場(中に青年2人が入っています)〉

牛は唐犂と馬鍬を引いて、何度も模擬田の中を回ります。田の縁を氏子が、木製の鍬と鋤で耕す所作をします。
そのあと、牛は田をとび出して、境内を歩き回ります。

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〈唐犂・馬鍬・鍬・鋤〉

現在使われている牛面は昭和36年に奉納されたものですが、神社には明治31年に奉納された牛面も残されており、この頃から今のおんだ祭りの形ができあがったのではないかということでした。

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〈左:明治31年に奉納された牛面〉
〈右:昭和36年に奉納された牛面〉

牛が耕したあとは、田植えです。
松葉でできた模造の稲苗を、神官や氏子が模擬田に並べていきます。
杉葉でできた稲苗は、神官によって周りに投げられます。
この模造の稲苗は持ち帰られて、苗代作りの際に水路の水口に供えられ、水路を通じて疫神が入り込まないよう、結界する役割を果たします。

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〈模擬田に並べた松葉の稲苗〉

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〈右が松葉、左が杉葉の稲苗〉

最後がお待ちかねの餅まきです。
境内はビニール袋を手にした人々でいっぱいになります。子供たちもたくさん来ていました。

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〈餅まき〉

もち米2石3斗(約345s)をついて、薄い円盤状の紅白の福餅にしています。作業に8時間ほどかかったとのこと。
櫓の上から休みなく大量の餅がまかれました。その間約15分。
筆者も控えめに(?)後ろのほうにいたのですが、たくさんいただくことができました。

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〈紅白の福餅〉

神社関係者の皆様、お話を聞かせて頂いた上にお餅までいただき、ありがとうございました!

最後にひとこと。最初は「調田」と書いて「つくだ」と読むとは?と思いましたが、「調」は「みつぎ」「みつき」なので、「みつぎだ」「みつきだ」から転じたのではないでしょうか。

PDF形式のレポート → <ここをクリック>

文 保存継承グループ 岡村幸子  写真 岡村幸子・亀田幸英
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2017年03月05日

保存継承グループ 菅原天満宮「おんだ祭り」見学記

2月25日午後2時から、盆梅展真っ最中の菅原天満宮(奈良市菅原町)にて、「おんだ祭り」の奉納。本殿斜め前の一角に設けられた結界内の模擬田で、農作業の模倣が演じられた。

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おんだ祭り(御田植祭)とは、農作業が始まる春先に、豊作を予め祝うという祭礼。牛役や田主役が登場して砂の田んぼを耕したり、松葉で作った模造の苗で田植えをしたり、模擬的な農作業を各神社が趣向を凝らして演じている。
菅原天満宮の伝承では、確証はないが、奈良時代から菅原地区の氏神として豊作祈願をしていたという。「おんだ祭り」として形式が確立されたのは明治時代からだろうとのこと。第二次世界大戦中と戦後しばらくは中断していたのだが、昭和50年から再興され今に続く。古老によると「戦前も今の形式だった」という。
同神社のおんだ祭りは、ポピュラーな形式ながら、芸達者(?)な田主役と、子供の牛役との駆け引きが参拝者を大いに笑わせる、ほのぼのとした祭礼である。

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神官による神様への祝詞のあと、田主役が結界内に入り、奏上を述べる。

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以下、田主が模擬的な農作業を演じていく。
まずは鍬による田おこしから始まる。

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次に田主と牛が登場すると、小学生が扮した牛が暴れだし、田主は振り回されながら模擬田を一周。すると参拝者から「おひねり」(中は小豆らしい)がたくさん投げ入れられ、大いに盛り上がる。牛役が子供というのは珍しいとか。可愛い暴れ牛である。

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一連の農作業が続く中、今では見かけなくなった「肥桶」を担いで田主が登場。汚い肥が手につかぬよう、コミカルなしぐさを交えながら田に肥料をまいていく。なかなか芸が細かく参拝者の笑いを誘う。

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準備が終わった苗代に籾を蒔く(参拝者にもまかれる)。
そのあと、苗が成長してきたのだろうか、雑草を抜く所作も。

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最後は四方に向かって五穀豊穣を祈願。
現在の機械化された米作りではほとんど見られなくなった苗代作りの作業が昔のままの状態で再現された。

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松などの端を藁で縛った模造の苗で、田植えの所作を行う神社が多いが、同神社では田植えをせずに参拝者に配られた。

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約1時間に及ぶ御田植神事を一人で演じた田主さん。お疲れ様でした!

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菅原天満宮は、天穂日命、野見宿禰、菅原道真をご祭神とする、延喜式内社。社伝によると、菅家発祥、道真生誕の地で、最古の天満宮と伝わる。
大和朝廷時代から平城宮近くにあった菅原村が、都ができるというので西大寺の南の方(現菅原町)に集落ごと移転させられた。この菅原の地に住んでいたのが土師氏で、佐紀盾列古墳群の古墳築造や土器作りをし、王家の葬儀に関わっていた。
しかしながら「土師」という名は、葬儀や凶事と関係していたため、イメージが悪いということで、土師古人や道長という当時の土師一族が、地名をとって「菅原」姓に改めたいと朝廷に願い出、781年に承諾された。この古人が、道真公の曽祖父なのだ。
さらに先祖を遡ると、力持ちの當麻蹴速を打ち負かした勇者・野見宿禰がいる。埴輪を最初に考案したとも伝えられる人物だが、王家の陵墓築造を司る「土師部」という豪族である。

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さて、菅原道真が産湯に使ったと伝えられる池が、菅原神社から北東100mほどのところにある。道真の母が京都からこの菅原の地に里帰りをして出産した菅原院の跡地で、「天神堀・御誕生池」として整備保存されている。
「おんだ祭り」で頂いた松苗を片手に、道真公の伝承地に立ち寄り、西大寺までの帰路を楽しんだ。

写真・文  小倉つき子(保存継承グループ)
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2017年01月28日

保存継承グループ 明日香村の綱掛神事見学記

明日香村稲渕の男綱の綱掛神事=1月9日(月・祝)
明日香村栢森の女綱の綱掛神事=1月11日(水)

万葉集にも登場する飛鳥川。大和川水系の一級河川ですが、明日香村の古代の遺跡群をぬうように流れる光景には歴史感が漂います。その源流は明日香村南部の山間地で、稲渕(いなぶち)地区と、同地区から約2キロ上流の栢森(かやのもり)地区では、正月の伝統行事として飛鳥川の上に綱を掛ける神事が有名です。

毎年、成人の日に行われるのが稲渕地区の男綱(おづな)の綱掛神事。男綱には、高さ約1.2メートル、直径約30センチの円筒形にした藁製の陽物(男性器を模したもの)が付けられます。

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<綱を作る稲渕地区の人たち>

綱と陽物の製作は地区の約50戸から男女約30人が出て、午前中から飛鳥川に架かる県道の神所(かんじょ)橋下の旧神所橋横の空き地でスタート。冷え込みと雨の中、藁を編み込んだ長さ約70メートル、直径5センチほどの綱が出来上がり、さらに約1メートル間隔で緑の榊、白い御幣、藁の順に挟み込んで午後2時半ごろに完成し、陽物を取り付けた。綱張りでは全員で力を合わせ、県道の上に架けながら飛鳥川の流れの上部に陽物がくるよう両岸の木にくくり付けられました。

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<綱に陽物を固定する>

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<神所橋の上で力を合わせて男綱を張る>

午後3時すぎから旧神所橋にしつらえた祭壇前で儀式が始まり、割り竹の先にみかんを刺したお供えが橋の欄干に並べられる中、同村の飛鳥坐神社宮司が祝詞を奏上。参列者が玉串を奉納した後、宮司が米、清酒、塩などを川に投げ落として終わりました。

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<張り終えられた男綱と旧神所橋での儀式>

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<旧神所橋で神式で行われた儀式>

以前、陽物は綱にひもでくくり付けただけでしたので、夏ごろには川に落下していたそうです。大字総代の今西一成さん(67)は「男綱を見物に来られる方もいますので20年ほど前から綱の中心にロープを入れ、陽物も綱とワイヤでつなぐるようになり、落下はしなくなりました」と話していました。

2日後の栢森地区の女綱(めづな)の綱掛神事は、稲渕地区の綱掛神事と対になるものです。二つの神事がいつごろから始まったか確かな記録はないそうですが、地元では「飛鳥時代から続いてきたらしい」との言い伝えもあります。

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<栢森地区の作業所で女綱を作る人たち>

昼前から地区の共同作業所で藁を使った綱と陰物(女性器を模したもの)作りが始まり、凛とした寒さの中、地区の約25戸から役員の男性10人ほどが作業に当たりました。綱は直径約5センチで、長さは約70メートルあり、陰物は長さ約60センチ、直径30センチの円錐形状で、完成時には榊と御幣も取り付けられました。

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<住職を先頭に作業所から綱掛場に移動>

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<フクイシと呼ばれる磐座前で仏式で行われた儀式>

準備が整うと、午後4時すぎに地区の龍福寺住職を先頭に役員が陰物、みかんを青竹の先にしつらえたお供え、綱を手に持ったり、担いで行列。地区北側の約200メートル離れた飛鳥川の綱掛場へ移動しました。
右岸のフクイシと呼ばれる高さ1メートルほどの磐座(いわくら)に女綱の一部をささげるように置いた後、読経。川と県道をまたいで綱を両岸の大木に巻き付け、陰物は幅2メートルほどの川の流れの上に来るように調整されました。大字総代の古川雅章さん(61)は「うるち米より餅米のほうが藁がしっかりしているんですが、近年は餅米の収穫量が減り、うるち米の藁が大半。綱が切れないよう、女綱でも中心にロープを入れています」と言います。

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<女綱に陰物をくくり付ける>

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<新しく架けられた女綱>

両地区の綱掛神事、綱に取り付ける陽物、陰物の違いのほかにも差異があります。儀式は稲渕が神式、栢森が仏式、お供えのみかんは稲渕が割った青竹の1本1本の先にみかんを刺すのに対し、栢森は太い1本の青竹の先に1列4個のみかんを突き刺したものを4列に組んでいます。
興味深いのは、実施日が稲渕は成人の日(1月第2月曜)なのに対し、栢森は11日。栢森では明治時代に実施日を変えたところ、地区の民家のほぼ半数が焼ける大火があり、以降は11日にしているといいます。

神所橋近くに明日香村が設置した説明板によると、綱掛神事は子孫繁栄と五穀豊穣を願う一方、川や道を通って悪疫が地区に侵入するのを防ぐことも祈願します。そのため、陽物、陰物に青竹と共に飾られる御幣は、下流の稲渕では下流側に向けて、上流の栢森では上流側に向けて付けられます。
万葉集の研究で知られる奈良大教授の上野誠さんが20代のころ、この綱掛神事に関する論文を「飛鳥の祭りと伝承」(桜楓社刊、共著)に発表しています。その中では「巨視的に見れば、オツナカケは奈良県から広く近畿圏分布するツナによる正月の結界儀式ということができる」とし、「微視的に見ると(中略)飛鳥川という川と人との関わりの中ではぐくまれた祭り」としています。

両地区の綱掛神事を間近で接し、住民の方々が協力して伝統を守っておられる姿に感銘すると共に、過疎化・高齢化や離農が進む地域で今後も課題に対応しながら継承していってもらいたいとの思いを強くしました。

文・写真  保存継承グループ 久門たつお
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