2019年11月29日

保存継承グループ 奈良市:興福寺の「慈恩会(じおんね)」見学記

南都七大寺の古刹、世界遺産でもある法相宗大本山の興福寺と薬師寺では、1年交代で宗祖・慈恩大師の正忌日の11月13日に、法相宗の僧侶が一堂に会し忌日法要「慈恩会」が営まれます。今年は興福寺の仮講堂で開催されました。

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<法要を待つ静かな仮講堂と五重塔>

慈恩大師(632-682)は中国・長安に生まれ、玄奘三蔵の弟子となり、唯識を体系づけ、教理を確立したことから、法相宗の初祖とされる高僧です。姓が尉遅(うっち)、名は窺基(きき)または基(き)と伝わります。
慈恩会は、天暦5年(951)興福寺第14世別当・空晴(こうじょう)の発願で始められ、明治44年(1911)に再興された重要な法会です。興福寺では、身の丈6尺5寸、顔は満月のごとく張り、両眼は雷光のごとく輝く偉丈夫だったと伝わる大師の立像が描かれた重要文化財「慈恩大師画像」の昭和模本を本尊の前に掲げて遺徳を称え、その前で論義問答が営まれます。
森鴎外は大正10年(1921)に興福寺の慈恩会に参列し、『本尊を隠す画像の尉達基は我よりわかく死にける男』と詠んでいます。

まず、本坊で行事に先立って「夢見の儀」と呼ばれる作法が行われ、春日明神より夢中で論題を授かるとされ、夜には仮講堂で論義法要が執り行われます。

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昼間、多くの観光客で賑わいを見せた興福寺境内が静寂を取り戻す午後7時過ぎ、春日山方向の十六夜(いざよい)の月が照らす中、本坊、五重塔の方から、提灯や松明に先導された式衆が、興福寺の名と寺紋が染められた幕をくぐり、入堂されます。薬師寺から17名、興福寺から11名の合計28名が参列されたとのことです。

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<いただいた「慈恩会次第」>

通常の年は、夢見の儀でもらった論題の問答の激しくもユーモアのある「番論義」のあと、総礼で終わりとなりますが、今年は生涯に一度だけ受験できる口頭試問「竪義(りゅうぎ)」が併せて行われました。興福寺では8年ぶりで、前回、先輩僧の竪義の補佐「童子(どうし)」を務めたドイツ出身のザイレ暁映さんが自らの竪義に挑まれました。
当日までに約3週間にわたって前加行(ぜんけぎょう)が行われ、加行部屋の半畳ほどの結界の中で、教義や経典に関する問答を暗記し、大廻(まわ)りという境内堂塔、春日大社諸社、市中の社にもお参りするなどの厳しい修行を経て、竪義当日は教義に関する問答を2時間近く執り行う難関の試験です。合格すると、寺の子院、塔頭の住職になる資格を得ることができます。この竪義が行われるという緊張感が、堂外から見学している私たちにも伝わってきました。

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真っ白な僧衣を着たザイレさんが、「影向戸(ようごうのと)」と呼ばれる扉から入堂されました。私たちは残念ながら、終了まで見届けられずに境内を退出しましたが、お寺の方々も合格間違いないと予想されたとおり、翌朝には『異例の外国人僧侶、僧の難関合格』の新聞記事やニュース報道が届きました。
今回は古くから伝えられ続ける僧になるための厳しい行などの奈良仏教の側面に触れる機会になりました。新たにその難行を満了される僧侶が誕生したことに改めて敬意を感じると共に、その場に僅かでも立ち会えたことに感謝したくなるような見学となりました。
          
文・写真 保存継承グループ 石井宏子



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2019年09月22日

保存継承グループ 五條市西吉野町:波宝神社の「岳祭り」見学記

五條市西吉野町夜中(よなか)の標高614bの銀峯山(ぎんぽうさん)山頂に鎮座する波宝(はほう)神社。平安時代に延喜式内社とされた由緒をもち、1672年(寛文12年)建立の本殿は珍しい連棟社殿で、県文化財に指定されています。秋の例大祭「岳(だけ)祭り」は毎年9月の第2日曜に行われていて、今年は8日、心配された台風の影響もなく、快晴の下、賑やかに執り行われました。

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<本殿は一間社春日造、檜皮葺が二棟接続した連棟社殿形式。祭神は住吉大神と神功皇后>

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<本殿に供えられたお神酒、餅、野菜など。本殿の障壁には祭神の神功皇后の伝承に関係する日食図、住吉大神にまつわる波の絵が描かれています>

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<午後1時、本殿前の割拝殿周辺に関係者が集まり、植原啓勝宮司のお祓いを受け、お渡りがスタート>

中心になる神輿渡御は40年余り中断していましたが、2017年(平成29年)に氏子役員、青年団員らが復活させ、今年で3回目となります。鉄杖、高張提灯や“御幣さん”を持つ各自治会長、主役の神輿2台などが続き、最後尾は植原宮司です。

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<担ぎ手も大うちわを手にした人たちも「ワッショイ!ワッショイ!」「オーッ!」。神社を出発した神輿の後ろを家族らが続きます>

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<本殿障壁の日食図の太陽、鶴などを描いた色鮮やかな“御幣さん”。地名の夜中は日食で夜のようになったことにちなんでいるとされます>

江戸時代制作とされる神輿は大きい方が約30人、小さい方が約20人で担ぎます。担ぎ手は14地区の青年らが中心で、さらに西吉野町の県立五條高校賀名生(あのう)分校から先生2人、生徒8人、復活の際に神輿の担ぎ方を見学した縁で和歌山県橋本市の神社の青年7人が参加しておられるとのこと。背中に「祭」の文字、神社名と住吉大神にちなんだ波の図柄が入った揃いの法被は、復活時に西吉野町の柿関係の会社から寄贈されたものです。

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<境内を出た渡御行列は参道を南西に約200b下り、大鳥居前の広場で掛け声とともに、神輿2台を揺らしたり、高く上げるパフォーマンス。かつては神輿をぶつけ合い「けんか祭り」と呼ばれたことも>

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<そうしている間に今年の当屋地区、平沼田(ひらんた)からの行列が合流>

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<お渡りの総勢約180人でさらに南西に約400m進み、丘の上の御旅所で神事が行われました>

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<神事が終わると、再び神社へ還御。神輿の担ぎ手は大鳥居前で再び気勢を上げた後、今度は上りの参道を経て境内に戻って最後の「ワッショイ!」>

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<神輿が戻ると、氏子役員さんたちによるお餅まき。最前列は子供たち、その後ろが大人で、あちらこちらで歓声が沸き上がりました>

前氏子総代の辰己博宣さん、現氏子総代の中前秀次さんのお話では、氏子さんたちは、柿・梅の生産農家や選果場関係の方が多く、平均年齢は47歳。農家人口は大きくは減っていないとのこと。若い世代は地区外に住んでいても、親世代の住む実家に通って、共に農業をされているケースも多いとか。

奈良県は柿の収穫量全国2位で、柿ハウス栽培では全国トップ。中でも五條市は自治体単位で収穫量全国1位。この実績が神輿復活の遠因になったのかもしれません。

お渡りの賑わいは、神社関係者の皆さんや、多くの地元の方々のご努力と熱意があってこそだと改めて感じました。神輿を担ぐお父さんたちを誇らしげに見ている子供たちが成人して岳祭りを継承してくれることを願いつつ、帰路につきました。 

          
文・写真  保存継承グループ  石井宏子
 
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2019年08月17日

保存継承グループ 十津川村:十津川の大踊り(小原地区)見学記

十津川村は奈良県の南端に位置する日本一大きな村として有名です。豊かな自然を持ち、村内の小辺路、大峯奥駈道は平成16年(2004年)に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素として登録されました。十津川村の小原、武蔵、西川の3地区には、室町時代に流行った風流踊りの流れをくむ「大踊り」と呼ばれる盆踊りが伝承されており、国の重要無形民俗文化財に平成元年(1989年)に指定されています。

十津川の大踊りのスケジュールは次の通りです。
8月13日=小原地区(会場:十津川第一小学校)
▽同14日=武蔵地区(会場:武蔵公民館・旧武蔵小学校)
▽同15日=西川地区(会場:西川第一小学校)
時間はいずれも午後8時から4時間ほどです。

令和元年の盆踊りは台風10号の影響を受け、参加した小原地区の大踊りは小学校の近くにある公民館で予定通り午後8時から行われました。
小原盆踊りは木曽節に始まり、串本節、ヨイショコラコラ、つばくら口説き、お杉口説き、天誅おどりなどの順番に行われ、最後の大踊りまで全26曲に渡り行われます。踊り子らは、両手に扇子を持ち太鼓と曲の詩に合わせて老若男女、大人から子供まで村人に限らず見学者すべて参加することができます。
当日は、会長さんの計らいで通常は最後に行われる大踊りを16曲目に入れて下さり、午後10時すぎには目的の大踊りを見学することができました。大踊りは他の曲より踊る時間が3倍ほど長く約20分に渡って行われました。


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<台風10号の影響で県南部は雨模様。十津川を代表する谷瀬の吊り橋>

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<外は雨のため、公民館の室内が会場となりました。盆踊りは午後8時に開始。天井には切子燈籠(きりことうろう)がかかっています>

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<壁には大踊りの詩が掲示されていました>

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<小原地区の盆踊りのしおりを役員さんから見せて頂きました>

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<踊りの調子を行う太鼓と詩。純粋に素朴な雰囲気が会場に漂い独特な伝統行事でした>

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<村の子供たちも両手に扇子を持ち一生懸命に踊っていました。大人になってもいい思い出になっていくでしょう>

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<国の重要無形民俗文化財の大踊りは太鼓が中心となっています。会長さんの計らいで午後10時過ぎから大踊りが行われました>

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<太鼓方を中心となり大踊りを行う踊り子たち>

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<大踊りは太鼓の音色が館内に響いていました>

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<大踊りの盛り上げて頂いた子供たち。手には村人手作りの切子燈籠をもっています>

今回初めて見学させていただいた十津川村小原地区の盆踊りは、通常の盆踊りと異なり、太鼓を中心に囃子との組み合わせで行われ、伝統行事にふさわしい踊りを拝見することができました。村の方々も厚くおもてなしをして頂き感謝をしています。

十津川村は県南部に位置し、橿原市内からだと片道2時間半程度の時間がかかります。来年参加される方は、早くから村内で宿泊施設の確保されることをお勧めします。


文・写真  保存継承グループ  橋詰輝己
 

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2019年08月07日

保存継承グループ 奈良市:伝香寺の「地蔵会(着せ替え法要)」見学記

7月23日の地蔵盆には、全国各地で多くのお地蔵様が供養されますが、奈良市小川町の「やすらぎの道」沿いに建つ伝香寺では、お地蔵様の衣の着せ替え法要が行われます。

伝香寺は、770年頃に鑑真和上の弟子、思託律師によって創建された実円寺(律宗)が元になっています。
その後荒廃しましたが、1585年に筒井順慶の母、芳秀尼が、36歳で死んだ息子を悼み、筒井氏一族の菩提寺として再興しました。

通常は一般拝観出来ませんが、「散り椿」が見頃となる3月の日曜祝日と、3月12日特別開扉の日と、この7月23日のみ、拝観可能になります。

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暑い最中の午後3時頃から、多くの参拝客が本堂内につめかけていました。

いつもは秘仏として地蔵堂の中に安置されている春日地蔵、またの名を「はだか地蔵尊」が、この日は、ご本尊のお釈迦さまに後ろから見守られながら、堂々と立っておられます。
このお地蔵様は、1228年に鎌倉仏師、善慶により造られたとされる像高97.3aの、木彫に彩色された裸像で、お坊さんのお話によると「明治時代の廃仏毀釈の時に興福寺から逃げてこられた」そうです。

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5分前に鐘が鳴らされ、4時ちょうどに4人の僧侶が入堂されました。
そのうち2人は興福寺の僧侶で、なんとドイツ系アメリカ人のイケメン僧がおられました。
伝香寺住職(唐招提寺長老)が、導師を務められます。

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10分ほどの読経の後、まず後光(光背)が取り外されます。次に錫杖と、宝珠を持つ左手が取り外され、袈裟や着物が1枚ずつ丁寧に脱がされていきます。

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お地蔵さんの衣装など着物1枚かと思っていましたが、とんでもない。腰巻、肌着、襦袢、袴、着物、袈裟と、人間の和装そのままです。
暑いお堂の中で大勢の人に注視されながら、手順を間違えないよう、美しいお姿になるよう、身動きできないお地蔵様の着せ替えをしていくのは、大変な作業でしょう。

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とうとう腰巻1枚のお姿になってしまいました。
「細くてきれいな足…うらやましい…」とのつぶやきが聞こえてきました。
さすがに腰巻の取り替えは、僧侶の体で隠すように行われました。

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肌着の上に、新しい真っ白な襦袢が着せられ、また1枚ずつ重ねられていきます。

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錫杖、宝珠、後光が取り付けられて完成です。
約20分間で、淡い緑色の衣装から、鮮やかなオレンジ色の衣装に着せ替えられました。
短い読経の後、4時40分ぐらいに法要は終わりました。

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前々回にお地蔵様が着られていた肌着を細かく切った一片が入っているというお守りです。
ちなみに、肌着以外は、クリーニングして再利用されるとのことです。

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お守りを買うために、本堂内に行列ができていました。
この本堂は、1585年の再興時建立のものだそうです。ご本尊の釈迦如来も1585年の作で、京都方広寺の大仏(焼失)のモデルになったと言われています。

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隣のいさかわ幼稚園では、盆踊りのために浴衣姿のかわいい園児たちが集まってきました。
いさかわ幼稚園の卒業アルバムには必ず着せ替え法要の模様が載せられるそうです。

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境内は、筒井家の五輪塔や、筒井順慶法印像を安置する順慶堂、散り椿の木、廃寺となった眉間寺の油留木(ゆるぎ)地蔵など、いろんな伝承に彩られています。
これらの伝承が、後世にいつまでも伝えられていくことを願って、伝香寺を後にしました。

文・写真  保存継承グループ 大谷巳弥子

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2019年07月01日

保存継承グループ 橿原市:上品寺町の「シャカシャカ祭」見学記

奈良県内には、御所市・野口神社の「汁かけ祭」や田原本町の「鍵の蛇巻き」「今里の蛇巻き」等、藁(わら)で蛇の形をした綱を作り、それを祀る行事がいくつかあります。

毎年6月5日に行われる橿原市上品寺町の「シャカシャカ祭」は、県内で一番有名な「ノガミ(農神あるいは野神)祭」とのことで、古くは旧暦5月5日に行われていました。
蛇の作成から最終のご神木への蛇巻きまで、のんびりと見学しました。

シャカシャカ祭では、その年に地域(上品寺町)で長男が生まれた家が、当屋(頭屋)を務めます。少子化の進んだ現在は、当屋は世話役のような人が務めます。
当日の午後1時から当屋宅の庭で稲わら(以前は麦わら)で約10b、重さ約20`cの“じゃ”(蛇)をつくります。上品寺町の田んぼで昨年とれた稲わらを使っているとのことです。

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<当屋のガレージで“じゃ”が作られています>


上あごと下あごは、桟俵(さんだわら)という米俵の両端につける円形の藁ぶたを使います。
今年初めての試みで、ビワの実で目がつくられ、完成。なんとも可愛い“じゃ”が出来上がりました。
午後3時から当屋宅で作られた、ヨシの葉で包んだチマキが2個、“じゃ”の顔の前に供えられました。長さ約20a、直径約10aの棒状の大きなチマキです。

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<大きなチマキを口の前に供えられて…>


午後4時ごろ、当屋に青いハッピを着た小学生以下の男子が20人ほど集まってきました。
赤いハッピを着た当屋の児を先頭にして、子どもたちは蛇の横に並びます。

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<4時集合!もうすぐ出発>

午後4時、“じゃ”を担いで、さぁ出発。ただし、昔からの風習で担ぐのは男子のみです。

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<子どもたちが“じゃ”を担いで町内を練り歩く>

途中、現在は無くなった池の跡で“じゃ”に水を飲ませます。池の代わりに、大人が運んできたバケツの水をしゃくで汲んで、口にかけます。

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<子どもたちが交代で“じゃ”に水を飲ませます>

水を飲ませ終わると、折り返して上品寺町の集会所の方に向かい、もう一度池の跡とされる場所で“じゃ”に水を飲ませます。こうして約30分余り練り歩いたあと、集会所横の大きな榎の木(ご神木)に“じゃ”を巻き付けます。木の上に登って巻き付けるのは、大人たちです。
木の上方の二股になった太い枝の間に頭を掛けられ、赤い舌をだらりと垂らした“じゃ”は、少し疲れたような表情にも見えます。

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<二股に分かれた枝に顔を掛けられたる“じゃ”>

“じゃ”が木に掛けられると、祭りは終了。ご神木の前で記念撮影をして解散です。

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<参加者全員で記念写真>

●シャカシャカ祭の由来
元々は、農家を継ぐのが長男であることから、長男が生まれた家が当屋となって、麦わらで、長さ5b、直径30a足らずの蛇(じゃ)を作っていました。それを、村の7才から15才までの男子たちが担いで村を練り歩き、水を飲ませるため南北2つの池の中に“じゃ”をつけた後、農神さんの木にそれを巻き付けて、お神酒やチマキを供える、というものでした。
祭りの起源は、ここにあった大きな池を埋める時に殺した大蛇の霊を弔うためという説もあります。
シャカシャカ祭りの語源については、蛇が竹やぶなどを通る際にシャカシャカと音がしたことから名が付けられたなど、いろいろな説があります。

今後も、元気な子供たちと地域住民の協力により、「シャカシャカ祭」が続いて行くことでしょう。

保存継承グループ  文:春日由広、写真:小倉つき子

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