2019年05月27日

保存継承グループ 橿原市:御厨子観音「花祭り」見学記

5月12日午後、橿原市東池尻町の御厨子(みずし)観音・妙法寺で、「花祭り」が行われました。昭和の中頃から始まった祭事で、奉賛会会員たちの協力により、毎年欠かさず行われているということです。

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<磐余の里を練り歩く稚児行列>

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<あまりの暑さに冠を外してしまう「お稚児さん」。きれいな冠は親御さんたちの手に>

午後1時、お稚児さんの衣装を着た、3歳から小学低学年の子供たちによる稚児行列が御厨子観音を出発。天香久山の麓、磐余(いわれ)の池跡近くなど、のどかな農道を10人ほどの僧侶を先頭に、親御さんに手を引かれた25人の稚児たちが神妙な面持ちで歩いていました。五月晴れに恵まれましたが、気温は夏日を思わせるほど上昇。あまりの暑さに、行列の途中で被っていた冠を外す子もいました。

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<稚児行列が終わると、本堂前で読経が続き、散華をまく作法が>

15分ほど歩いて境内に戻ってくると、僧侶により散華がまかれました。稚児たちは競って散華を拾い、お母さんたちに渡していました。第二日曜日は、母の日。素晴らしいプレゼントになったことでしょう。本堂に僧侶たちが上がると、堂内で稚児たちへの加持が行われました。一人ひとり順番を待ち、小さな手を合わせて祈祷を受けました。一願祈祷ということで、何か一つ、お願い事をしたのでしょうか。

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<本堂に上がり、加持を受ける稚児たち。神妙な面持ちで小さな手を合わせる姿が可愛い>

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<本尊十一面観音の御前で僧侶たちによる大般若経の転読法要>

2時ごろから、いよいよ本尊十一面観音の御前で僧侶たちによる大般若経の転読法要が営まれました。大般若経の経本を、高く持ち上げた片方の手からもう一方の手にパラパラとめくっていく、迫力ある独特の転読が続きました。

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<吉田明史住職が御厨子観音創建や磐余の里の歴史なども交えて法話>

法要が終わると、吉田住職から「御厨子観音妙法寺は、吉備真備が遣唐使として入唐し、学芸を修めて無事に日本に帰ることできたことに感謝して創建されました」という寺伝や吉備真備の功績が語られました。

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<参道脇には、磐余の池を詠んだ大津皇子の辞世の句の歌碑が>

また、「御厨子観音横に広がる空き地が、発掘調査により、謀反の疑いで若くして絞首刑となった大津皇子が辞世の句に詠んだ磐余の池跡であることが明らかになった」など、磐余の里にまつわる古代史にまで話が及びました。

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<私服に着替えた子供たちが、境内端に設けられた金魚すくいやスーパーボールすくいを>

すべての行事が終わると、境内端に準備されていた「金魚すくい」と「スーパーボールすくい」で、子どもたちは大はしゃぎ。思い出の一日になったことと思います。


文・写真  保存継承グループ 小倉つき子



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2019年04月20日

保存継承グループ 明日香村:飛鳥寺の「花会式」見学記

日本最古の仏像「飛鳥大仏」をまつる飛鳥寺で、お釈迦様の誕生をお祝いする「花会式」(灌仏会・花まつり)が4月8日に行われました。この日は各地のお寺で花会式が執り行われますが、日本で最初に花会式が行われたのは同寺とされます。

飛鳥寺は推古4年(596年)、日本に伝えられた仏教を保護した蘇我馬子の発願により国内初の本格的な寺院として建立されました。本尊の釈迦如来坐像(重要文化財)は推古17年(605年)、鞍作止利による銅造丈六(一丈六尺)仏で、飛鳥大仏の名で親しまれてきました。鎌倉時代、建久7年(1196年)の火災で伽藍の大半が焼失し、現在の本堂は江戸時代に再建されたものです。

4月8日朝は雨も相当降りましたが、午後2時の法要が始まるころは、春の日差しが降り注ぐ素晴らしい天候となりました。

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<境内の入り口には花会式の看板も取り付けられていました>

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<境内では、お寺の方による甘茶のふるまいがありました>

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<本尊の釈迦如来坐像前には花会式の準備が整っていました>

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<本堂の前では、釈迦誕生仏に甘茶をかけることができました>

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<午後2時から花会式法要が行われています>

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<本堂内で読経が続く中、招待の方々が釈迦誕生仏に甘茶をかける灌沐(かんもく)が行われています>

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<続いて一般参列者の釈迦誕生仏への灌沐が行われます>

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<堂内では僧侶による散華(さんげ)が行われます>

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<法要の後は、特別講演で「大仏様の履歴書」と題して大阪大学文学研究科の藤岡穣教授の講演が行われました>

平成25年から28年にかけて飛鳥大仏の蛍光X線による青銅の組成分析が行われ、体部は火災後の補修によるものとみられるが、面部と右手は当初材と推定されるということです。

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<花会式は午後4時には無事終了、1時間の講演も含め、大仏様の前で貴重な体験をすることができました。>

今回の花会式は、満開の桜の下で行われ、時折吹く明日香風に乗って桜の花吹雪が舞い散り、お釈迦様のご加護をひしひしと感じ取ることができました。


文・写真 保存継承グループ 橋詰輝己

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2019年03月23日

保存継承グループ 奈良市:春日大社の「春日祭」見学記

春日祭(かすがさい)は「三大勅祭」の一つとして、京都の葵祭、石清水祭と共に皇室が関わる伝統祭礼上、重要な役割を果たしてきました。春日大社は藤原氏の氏神だったことから、春日祭は藤原氏のための祭事という側面も有していました。現在ではその色合いはなくなりましたが、勅使参向という意義は変わりません。勅使とは天皇陛下の名代(使者)であり、勅祭とは名代が神社に派遣されて実施される祭礼のことで、国家の安泰と国民の繁栄を祈る祭事として実施されています。

祭事は平安時代の嘉祥2年(849年)に始まりました。平安時代は行事の規模は大きかったのですが、中世以降は次第に規模も縮小し、明治以前には年2回、2月と11月の最初の申(さる)の日に実施されていたようです。そのため春日際は申祭(さるまつり)とも呼ばれてきました。
現在では年1回、勅使をお迎えする祭事として3月13日に行われています。儀式は9時から宮中より天皇陛下の名代である勅使のお迎えして、参道から神殿には新しい砂が敷かれ、勅使がその上を歩き神殿に向かいます。(春日祭の由緒・歴史・祭事の内容は「奈良まちあるき風景紀行」より抜粋)

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<春日祭当日には一之鳥居に榊が飾りつけられます>

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<祭事が行われる参道には新しい砂が敷かれ、見学の方はロープの手前で祭事を見守ります>

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<祭事のための神饌(お供え物の食事)を運び本殿に向かいます>

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<天皇陛下の勅使を迎え、新しい砂を敷かれた上を歩き祭事を行う本殿に向かいます>

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<2頭の神馬も本殿に向かいます>

10時から勅使以下が斎館を出て、祓戸の儀、著到の儀を経て幣殿・直会殿の作合の座につき、下記の儀式を行い、正午過ぎに祭儀が終了するスケジュールで行われます。
・御棚奉奠(みたなほうてん)
・御幣物奉納(ごへいもつほうのう)
・御祭文奉上(ごさいもんそうじょう)
・神馬牽廻(みうまのけんかい)
・和舞奉奏(やまとまいほうそう)
・饗饌(きょうせん)
・見参(げざん)
・賜禄(しろく)

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<神馬牽廻(みうまのけんかい)のために神域に入る神馬>

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<本殿では式次第に従って祭事が執り行われています>

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<雅楽の音色が流れる中、神への舞が執り行なわれています>

一般の参加者は本殿前に立ち入り禁止のロープ手前で中の様子を伺っています。午前9時から始まった神事も正午過ぎには終わります。本殿前の階段は邪魔にならないように、道を開け静かに見守ります。

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<無事、平成最後の春日祭が執り行われ、本殿から出てこられました>

祭事の見学中、隣の婦人とのおしゃべりで、「千葉から祭礼の見学に来ました。昨日は二月堂のお水取りで、今日は春日祭。奈良は古式ゆかしい行事が数多く残り、うらやましい限りです」と最大の誉め言葉を頂きました。

早朝からの風雨が収まり、祭事を待つこと1時間余りの待機も苦にならず、かえって参道が雨で清められ祭事の雰囲気が増した感がありました。待つ時間が心地良い「奈良時間」に身を置くことで、伝統の祭事を堪能することができました。

文・写真 保存継承グループ 橋詰 輝己


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2019年02月13日

保存継承グループ 斑鳩町:法隆寺西円堂の「追儺式」見学記

法隆寺(生駒郡斑鳩町)の修二会は西院伽藍の西にある西円堂で2月1日から3日間、本尊の薬師如来坐像の前で「薬師悔過(けか)」の行法で行われます。その最終日、2月3日の結願の後に近隣住民や行事愛好者らが見守る中、呼び物の「追儺(ついな)式」が行われます。鬼追い式とも言われ、鬼3匹が登場して暴れますが、最後は毘沙門天に追い払われます。

特徴はその暴れ方で、手に持った炎の上がる松明(たいまつ)を何と見物人の方に投げつけます。投げる方向は手加減して行われていたそうですが、50年ほど前に見物人に当たる事故が起き、その後は全国的にも珍しい鉄パイプを組んで金網を張り巡らす安全対策をとって現在に至っています。

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八角円堂の西円堂(鎌倉時代再建)、脱活乾漆造の薬師如来坐像(奈良時代)とも国宝。西円堂は小高い場所にあり「峯の薬師」の別名でも知られます。

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西円堂の東、南、西の三方を囲むように設置された鉄パイプと金網フェンスは高さ約5b。工事は1月後半に行われます。

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修二会の結願は3日午後5時から約1時間半にわたって大野玄妙管長ら僧8名で執り行なわれました。本尊前での読経などが続き、途中でホラ貝の音も響きました。 

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結願の最中、西円堂北隣の薬師坊庫裡(重要文化財)に鬼などを演じる人たちが到着。浴室で身を清めた後、衣装を身に付け、本番に備えます。

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鉦(かね)と太鼓で強弱をつけて5分ほど打ち鳴らすのを1回とし、これを7回半繰り返して鬼の登場を待ちます。小雨の中、金網フェンスの内外には消防団員がスタンバイ。

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午後7時半すぎから黒鬼(父鬼)、青鬼(母鬼)、赤鬼(子鬼)の順に、それぞれ斧(おの)、宝棒、剣を手にして登場します。写真は黒鬼が斧を研ぐ格好をしているところです。

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鬼が手に持った剣などで松明の柄をたたくと火の粉が赤々と飛び散り、見物人から歓声が上がります。小雨は次第に強くなりましたが、イベントは佳境に。

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鬼たちのパフォーマンスの圧巻は金網フェンスへの松明投げつけ。写真は松明が金網に当たった瞬間。消防団員が手早く落ちた燃え殻を掃き払い、バケツの水をまきます。

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パフォーマンスは基壇上の東、南、西での3カ所で時計回りで行われます。写真は正面が南側の赤鬼、左奥が西側の青鬼(姿は見えない)。鬼たちは基壇を3周します。

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南側で矛(ほこ)を手に鬼を追い払う所作をする毘沙門天。立春を迎えるに当たって、旧年の邪悪なものを消し去る願いを込めます。

安全になったとは言え、金網などに当たった松明の火花が見物人側に飛び散ることもあり、スリル十分。鬼たちに男の子が「こっちに投げて〜」とリクエストする場面が何度かあり、見物人の笑いを誘っていました。
反対に法隆寺の鬼はうなり声などを出さず、静かなのが印象的でした。

この追儺式は鎌倉時代の弘長元年(1261年)に始まったとされ、この種の追儺行事として最も歴史をもつとされます。鬼と毘沙門天の役は、同寺の僧の役目だったそうですが、江戸時代後期から法隆寺北東の鬼門の方角に位置する斑鳩町岡本の住民が務めています。松明を持って鬼を補佐する算主(さず)役は同寺近隣の人たちです。

消防団員を含む地域住民が世界遺産の同寺の伝統行事を支えているといえそうです。

文章・写真  保存継承グループ  久門たつお

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2019年01月26日

保存継承グループ 宇陀市:平尾水分神社の「オンダ祭り」見学記

平尾水分神社は宇陀市大宇陀平尾の宇陀川右岸にあり、本殿は県文化財に指定されています。オンダ祭りは平尾地区の祭礼として毎年1月18日夜に五穀豊穣を祈る行事として開催されており、平成4年(1992年)3月に県無形民俗文化財に指定されました。

東西の地区に分かれて氏子がそれぞれ宮講を組織し、毎年1人ずつ1年神主の大当(だいとう)と小当(しょうとう)が選ばれます。18日朝から神殿前の特設舞台と模擬苗作りが行われます。舞台は境内中央に組まれ約3b角の板床で、苗は約30aの2本の萱の先に樒(しきび)、藁(わら)の穂先、弊紙(へいし)を添えたものです。

夜になると冷え込む中、宮講の人々が集まってきます。

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<境内には次々人が集まり、甘酒の振る舞いも>

祭礼の前に氏子たちは宮司さんから清めのお言葉を授かり、直会(なおらい)が始まります

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<社務所では村の氏子たちに宮司さんからの清め神事が>

直会を終わると、本殿におもむき祝詞が上げられました。

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<本殿にはいろいろな品物がお供えされ祝詞を奏上>

行事の田植えをするショトメ(早乙女)役は地域の子供が担当します。小学生の男児が務めてきましたが、近年の少子化で女児も参加するようになり、当日は4歳から11歳の男女、5人の子供が主役を務めました。

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<ショトメの大役を前に社務所で出番を待つ子供たち>

境内の社務所では、直会の後、氏子らにより酒や乾燥した雑魚(じゃこ)をつまみに話が弾みます。

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<大当・小当を中心に清めの盃をいただく>

午後7時から、境内に作られた舞台で御田植行事が始まりました。
社務所から提灯(ちょうちん)持ちに先導されて、木製の鍬(くわ)を担いだ大当以下、小当、ショトメの順に舞台に上がりました。

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<社務所から境内の舞台に向かう大当・小当>

田主役の大当が舞台で詞章を唱えながら、鍬を用いて@鍬初め、A掛初め、B苗代角打ち、C苗代しめ、D水入れ、E水戸祭り、F福の種まき、G苧紡ぎ、H春田打ち、I管巻く鳥追い、J追苗取りと田植えの一連の所作を模していきます。

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<木の鍬を使ったオンダ祭りの様子。背後にはショトメ5人が並ぶ>

J苗とり、K田植え、L追苗取りでは全員で舞台の上を回ります。子供のショトメは自分の背丈ほどの笠を肩から担ぎ大当と共に演じました。

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<全員で舞台の上を回る>

小当が間水持ちとともに、この日のみ開帳される「若宮さん」を抱いて舞台に上がります。「若宮さん」は普段は平尾水分神社の御神体として祀られている黒い翁面を付けた人形で、体中にびっしりと紙縒(こより)が巻きつけられています。地区の人たちや見物人は自分たちの体の具合の悪い部分の紙縒を小当からもらい受け、大切に持ち帰りました。

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<若宮さんに巻き付けられた紙縒をもらう人たち。どこが悪いのかな?>

この平尾の行事は、天保15年(1844年)の古式の詞章にのっとって行われています。田植えの一連の所作は古から受け継いだものです。

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<大役ご苦労様でした>

ショトメの役を終え社務所に戻った子供たち。肩の荷がおり、ようやく笑顔が戻ります。

奈良県内のオンダ祭りの中でも最も古い形を残して五穀豊穣を願う平尾のオンダ祭り。今回は保存継承グループから8名が見学し、古式にのっとった地区行事を目の当たりにして見聞を広めることができました。

文・写真 保存継承グループ 橋詰輝己

posted by 奈良まほろばソムリエ at 17:29| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする