2018年12月29日

奈良市:正暦寺「冬至祭」見学記

12月22日、前夜からの雨が残るなか、奈良市東南の山間・菩提山(ぼだいせん)町に建つ古刹、正暦寺(しょうりゃくじ)の「冬至祭」に参加。

冬至といえば、一年のうちで最も昼が短く夜が長い日。一年で一番日照時間が短いということは、翌日から長くなるということであり、この日を境に再び力が甦り、運気が上昇するともいわれる。
そして、冬至で食べる食べ物でといえば「カボチャ」。長期保存がきくため、栄養満点の食材として、風邪や中風(脳血管疾患)の予防に良いとして食べられてきた。運気アップのパワーを蓄えてくれるということだろうか?
正暦寺「冬至祭」は、1952(昭和27)年(先々代住職在世時)から、中風封じの行事として始められた。現在は健康祈願や長寿を願う行事になり、この日も多くの参拝者で賑わう。

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午前10時から護摩堂にて不動明王像の前で、一人ずつ順番に護摩祈祷とお加持が修法される(申込者のみ)。

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11時から、客殿にて大原弘信住職の法話。テーマは「五Kで生きる=明るく軽やかに」。五Kとは、
●Ka=か・・・感動
●Ki=き・・・希望(夢をもち、夢を語りましょう)
●Ku=く・・・工夫
●Ke=け・・・継続(続けることによってわかる)
●Ko=こ・・・行動(動いていれば何かが起こる。考えたら動くこと)

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「思いがあれば、思いに向かって行動しましょう。いいことをしていると、明るく軽やかになってきます。それがいい結果につながる」と住職は話す。
分かりやすくて、深い内容の法話に、参拝者たちは一心に聞き入る。

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法話の後、客殿の障子が開けられると、枯山水の庭が雨上がりのなかで輝いている。今年、松の木が枯れたのを機に、庭の木を低く剪定したため、90年ぶりに庭を囲む白壁が姿を見せ、清々しい昔の庭が甦ったとのこと。

特別開扉されている瑠璃殿(宝物収蔵庫)では、秘仏の金銅の薬師如来倚像(白鳳時代・国重文)を拝観。


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締めは、カボチャの精進弁当(要予約。1、000円)をいただく。精進料理で人気の正暦寺だけあって、カボチャづくしのおいしいお弁当だった。
良い年を迎えられる、いい気を十分にいただいた「冬至祭」だった。

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※正暦寺は992(正暦3)年、一条天皇の勅命により創建。山号は「菩提山」。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていた。しかし、1180(治承4)年、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化す。1218(建保6)年、興福寺の学問所として再興し、昔に勝る隆盛を極めたが、江戸時代以降は再び衰退。ほとんどの堂塔・伽藍は失われ、現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなった。
古来より紅葉の鮮やかさから、「錦の里」と呼ばれてきた。主要な伽藍は失われてしまったが、静かな宗教空間は昔と変わらず当寺山内に存在している。
また、室町時代は大量の「僧坊酒」を作る筆頭格の大寺院であり、清酒製法の祖とされる正暦寺。1996(平成8)年から菩提酛(もと)を用いた酒を復活し、毎年1月に酒母の仕込みを行っている。


文と写真  保存継承グループ  小倉つき子



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2018年12月12日

奈良市都祁吐山:下部神社「吐山の太鼓踊り」見学記

大和高原南部にある奈良市都祁(つげ)吐山(はやま)町の下部(おりべ)神社で11月23日に秋祭りが執り行われました。この祭りでは昭和60年(1985年)に奈良県無形民俗文化財に指定された「吐山の太鼓踊り」が、7つの垣内から7張の大太鼓が集まり奉納されました。

昼すぎ、祭りの参加者が公民館に集合し記念写真を撮ったあと、3方向に別れて打ち上げ花火を合図に出発。途中で合流し、各垣内の幟(のぼり)を先頭に大太鼓、踊り手、シデ振り、鉦叩き、歌出し、役員の方々が、太鼓を打ちながら下部神社に向かって進んでいきます。

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小中学生も一緒になった集合写真

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下部神社へのお渡り

途中、恵比寿神社前で合流し神主のお祓いを受けたあと、「辻太鼓」を打ち鳴らします。ここからは、厄払いの天狗が先導し「打ち込み踊り」を演奏しながら下部神社の境内へ入っていきました。

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神主のお祓い

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境内への入場

拝殿前に7張りの大太鼓が並び最初の「干田(ひんだ)踊り」が始まりました。1曲目が終わると裃姿の「シンボウウチ」の口上があり、「宝踊り」と「長崎踊り」が演奏されました。これらの踊りは各曲の1番から3番を3人が1組になって1人ずつ交代で叩いていきます。これが7張りの大太鼓で一斉に行われるのです。

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「干田踊り」の小中学生

踊り手は曲打ちや背面打ちなどの技を見せたりもしていました。シンボウウチはその間、青いシデを振りながら全体の指揮をとって歩いています。また、天狗は自由に動きまわり囃子方を務めていました。

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背面打ちの撥(ばち)さばき

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青いシデを振る裃姿のシンボウウチ

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ササラを叩く天狗

奉納演奏が終わると「納め踊り」で太鼓を打ちながら鳥居をくぐり、再び天狗の先導で神社を後にして終了となりました。

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天狗の先導で「納め踊り」

吐山の太鼓踊りは元禄6年(1693年)の歌本が残っているということです。干ばつが起こった時に雨乞いの祈祷を行い、祈願成就のお礼に氏神様に太鼓踊りを奉納してきたものです。治水対策や農業技術の向上などにより、何十年も太鼓踊りが行われないこともあり、少しずつ記憶から遠ざかることになっていました。

昭和59年(1984年)に吐山太鼓踊り保存会が結成され、平成6年(1994年)からは小学校で郷土学習として太鼓踊りが取り入れられています。また、小学校の放課後、子供教室でも「太鼓踊りクラブ」として活動しているそうです。この子供たちの何人かは中学進学後も練習に参加し、「吐山太鼓踊りヤングクラブ」として活動しています。練習を頑張った子供たちの発表の場としてイベントへの参加もしているそうです。そして、集大成として秋祭りで成果を発表することとなるのです。
今年は小学生が14人、中学生が8人参加の総勢60人ということでした。地域の太鼓踊りの伝統を受け継いでくれています。

保存会では、機関紙「雨たんもれや」=雨よ降ってください、の意味=を発行し、太鼓踊りの歴史や伝統、継承などについて情報発信に努めておられます。

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機関紙「雨たんもれや」

このように、地域と学校が連携し、伝統文化に関して継承者の育成や秋祭りに組み入れるなど他の地域にも参考になる新しい取り組みではないかと思います。

文・写真 保存継承グループ  仲谷裕巳
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2018年11月03日

宇陀市:龍穴神社 秋祭り見学記

秋真っ只中の10月14日(日)、室生寺と縁の深い龍穴神社で恒例の秋祭りが行われました。この祭りは安政年間に室生寺を火災から救った村人へのお礼として一対の獅子頭が寺から贈られたことが始まりと言われています。
前日の五つの垣内ごとの宵宮に続いて、本宮のこの日は好天に恵まれ、午後1時すぎに室生寺太鼓橋を出発した行列は室生寺境内の天神社で神事などを行った後、再び太鼓橋から約1`東の龍穴神社までお渡りをし、神事などに続いて獅子舞神楽を奉納しました。

まず、太鼓橋にお渡りの一行が並び、氏子総代が室生寺の正門から本坊へ「七度半の使い」と言われる室生寺管長の出御を請う儀式から始まります。

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氏子総代による「七度半の使い」

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管長の出御

管長が姿を現し着座すると、氏子総代と御幣を先頭に雌雄の獅子、須供(すこ)と呼ばれる神饌、日の丸をあしらった御幣、神職、役員の方々の行列が続きます。

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須供(すこ)〜芋茎(ずいき)に飾り付けた神饌

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太鼓橋に集合したお渡り一行

一行はまず室生寺仁王門をくぐり、鎧坂を上って金堂前の広場東側の天神社までお渡りを行います。広場の傍らにある天神社の神杉には藁で作った龍縄(りゅうじょう)と呼ばれる勧請綱が掛けられています。

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天神社の龍縄

龍穴神社神職による神事が始まると、雌雄二頭による獅子舞が奉納されます。

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雌雄二頭による獅子舞奉納

この後お渡りの一行は、再び太鼓橋を通り龍穴神社まで室生川に沿ってお渡りが行われます。ここで子供神輿も行列に加わります。

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お渡り一行

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子供神輿

行列は参道脇の禁足地に立つ神杉に掛けられたもう一つの龍縄の側を通り龍穴神社に向かいます。

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龍穴神社の龍縄

龍穴神社境内ではお渡りの一行全員がお祓いを受けた後、拝殿で神事が執り行われます。
その頃、室生龍穴太鼓による勇壮な奉納演奏が行われました。

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室生龍穴太鼓の奉納演奏

続いて獅子舞の奉納です。まず子供の獅子舞が行われました。今年は小学校4年生の子供が舞うということで、半ズボンに運動靴の獅子が微笑ましかったです。笛と太鼓の演奏も子供たちでした。

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子供たちによる獅子舞神楽

そして、大人の獅子舞神楽の奉納です。黒髪の雄と赤髪の雌が交互に鈴や刀を持って舞を披露します。中々の迫力でした。

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迫力ある獅子舞神楽

最後に各垣内でついたお餅で、御供まきが盛大に行われました。皆さんダイレクトキャッチしたり、拾ったりと、バトルを繰り広げておられました。
氏子による獅子舞をはじめとする祭りの維持継承は大変なことと思います。少子高齢化、若者の流出などを乗り越え、いつまでも伝統文化を残して欲しいと願っております。

文・写真 保存継承グループ  仲谷裕巳

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2018年10月13日

御所市:一言主神社 秋季大祭見学記

夏の記録的な猛暑がひと息ついた9月15日、葛城山麓の御所市森脇に鎮座する「葛城坐一言主神社」で、秋季大祭が執り行われました。
室町時代の1482年、世の中の安泰を願って始めた神事で、参詣者が願い事を書いた祈祷串を神火壇に自らくべて祈願することから「御神火祭」「お火焚祭」とも呼ばれています。

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<彼岸花の咲き始めた葛城山麓の棚田>

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<葛城の先住民土蜘蛛の墓と伝わる蜘蛛塚>

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「古事記」にも伝わる、全国にある一言主神社の総本社ですが、地元では、どんな願い事でも一言の願いならば叶えてくれる「いちごんさん」として親しまれています。

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<受付で購入し、裏に願い事を書く祈祷串>

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<社殿前の祓戸社にて神職、氏子代表の修祓>

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<一般参詣者へのお祓い>

いよいよ午前10時半から祭典の開始です。
宮司一拝の後、本殿の扉が開けられ、柿の葉を口にくわえた氏子代表の方々が次々に神饌を献上されました。

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宮司による祝詞奏上の後、芸能の奉納です。今年は女性8名でグアム島のチャモロダンスが舞われました。チャモロの人々は、自然を敬い、八百万の神を信仰していたことから、日本の神道に通じるところがあるそうです。

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<県内外の神社から招かれた宮司等により玉串拝礼>

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いよいよお火焚きの始まりです。参詣者それぞれが、願い事を書いた祈祷串を手に列を作り、拝殿を通って階段を上り、本殿前に設けられた神火壇にくべて、本殿に祈ります。
残念ながら本殿前は撮影禁止です。
お火焚きの間、京都から招かれた名手による、美しい笛の音色が流れていました。

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<神火壇から立ち上る煙>

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11時半頃、室町時代の民衆芸能を起源とする「神降(かみくだち)の神事」が始まりました。拝殿から、赤天狗(猿田彦命)、宮司、祭神の一言主大神、お多福の4人が登場。赤天狗は腰に太刀、右手に金剛杖を持ち、一言主大神は御幣を打ち振り、お多福は両手で鈴をならし、宮司は色とりどりの紙ふぶきをまき散らしながら、皆の願い事が叶うよう祈願して、参詣者の間を練り歩きました。
この時つかんだ紙ふぶき、しっかり財布の中に納めています。願い事は他言無用だそうですが。

私たちはここで神社を後にしたのですが、この後、参拝者全員にお神酒と紅白饅頭の授与があったそうです。


文・写真 保存継承グループ 大谷巳弥子

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2018年07月30日

大和高田奥田の「蓮取り行事」と吉野山金峯山寺「蛙飛び行事」

7月7日、朝から雨。午前10時から午後5時までの長丁場の行事というのに、一日中降り続きそうな気配である。
午前の大和高田市奥田の「蓮取り行事」と、午後からの吉野山金峯山寺の「蓮華会と蛙飛び行事」の両方を見ようと、大和高田市文化振興課主催の「蓮のみちバスツアー」を保存継承グループ10人で参加。大和高田市奥田から吉野山観光駐車場までを行事に合わせてバスで往復してくれる上、お弁当とお土産付きで、3,000円。なかなかのお値打ち企画である。

10時からは、奥田捨篠池(すてしのいけ)での蓮取り行事。役行者の母・刀良売(とらめ)がこの池の近くで住んでいたとも、役行者が産湯をつかったとも伝えられる池である。
法要のあと、蓮取り舟に乗った地元の方と行者が蓮池へと入り、10本ほどの蕾の蓮を切りとる。
108本の蓮を蔵王権現にお供えするということだが、他の分の蓮は近くの蓮池であらかじめ切り取り、準備しているとか。

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<捨篠池で蓮取りをする、修験者たち>

蓮取り行事が終わると、行者一行は、刀良売の菩提寺・福田寺行者堂で蓮華を献じて供養。その後、捨篠池を一周して、弁天神社に向かう。
降りしきる雨の中、行者たちは傘もささず、たくさんの蓮花を入れた3個の桶を担ぎながら、無言で歩いていく。この日は、約30人の行者が参加。驚いたことに、10人ほどの女性修験者も同行していた。
その間、バスツアー参加者は福田寺行者堂を、記念品の散華付きで拝観できたのだが、仏前が暗くて仏様のお顔が見えなかったのが残念。ひと工夫ほしいところだ。

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<福田寺法要の後、弁天神社へ向かう行者一行>

弁天神社では、弁天様に蓮華豊作の感謝の法要を営み、護摩供が行われた。 女性修験者たちが大活躍。その勇ましさと大きな護摩の炎は、迫力満点だった。
護摩供が終わると、我々はバスで吉野山の駐車場へ。行者たちも専用のバスで吉野山に行かれたという。
バスに乗っていた間だけ雨が止み、駐車場から金峯山寺まではまた傘をさしながらとぼとぼと歩いて行った。

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<弁天神社での大護摩供>

吉野山の竹林院前を出て山内を練り歩いていた、大きな青蛙を乗せた布団太鼓と、蓮を運んできた行者一行とが、午後3時頃に山上ケーブル前広場で合流。再び、両者は蔵王堂まで歩いていった。

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<蔵王堂へ向かう、青蛙を乗せた布団太鼓>

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<山上ケーブル前まで運ばれてきた、蕾の蓮>

午後4時、大青蛙を乗せた太鼓台が蔵王堂へ練りこみ、法要の後、蛙飛びの作法が行われた。境内にしつらえられた仮設舞台を、着ぐるみをきたカエルが行ったり来たり。「暑いやろなー」と、同情の声が見物人の中から聞こえてくる。ようやく導師の受戒によって人間の世界に戻り、宗教劇は終了。

結局止むことのなかった雨の中、バスが待つ駐車場へ。長時間の行事を見終えて、私たちも少々お疲れ。でも、ほっこりとした気分で吉野から高田への車外の風景を楽しんだ。

翌8日午前4時から花供養入峯があり、行者たちは蔵王堂前から大峰山上までの拝所で蓮華を供え、山上本堂へ参り、行事は終了となる。

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<蛙飛び行事で、仮設舞台を行ったり来たりする青蛙>

吉野山金峯山寺「蓮華会」とは、ご本尊の蔵王権現に、蓮の花を献じる行事。その一環として蔵王堂境内で「蛙飛び」が行われる。
「蛙飛び」行事とは、寺伝によると、平安時代に神仏を侮っていた男が金峯山に登り、蔵王権現や仏法を謗る(そしる)暴言を吐いたところ、大鷲にさらわれ断崖絶壁の上に置き去りにされた。その男を金峯山の高僧がカエルの姿に変えて助け、蔵王堂で一山僧侶の読経(どきょう)によって、もとの姿に返したという。
7日の蓮華法要の後、蛙飛び行事が始まり、吉野の護寺院住職から呪を受け、内陣の大導師から真言と懺悔文を授かり、人間の姿に戻るという宗教劇だが、修験者の護法の能力を競う験競いと解されている。

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<導師の受戒により、人間に戻された青蛙>

奥田での蓮取りは室町時代から行われ(竹林院の記録より)、もとは旧暦6月9日に行われていたが、明治維新頃に中断。昭和初期に復活してから新暦の7月7日になった。
奈良盆地の奥田の蓮池から吉野山を経て、大峰山山上が岳までの広がりをもつ行事という、スケールの大きな奈良の夏祭りである。


文と写真:保存継承グループ/小倉つき子

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