2020年02月29日

史跡探訪グループ 「粟原の古墳と粟原寺跡を訪ねる」

2020年2月15日
近頃ではめずらしく梅雨のような雨が続き、開催日の天候が心配でしたが、前々日からの雨は止むも、当日はまだ雨が心配な空模様でした。
もう一つ心配がありました。探訪グループは長く休んでいましたので、本当に参加して頂けるかです。1週前に募集を締めましたら31名の方々の参加申込があり、ホットしました。当日欠席された方2名を含め合計27名の参加となりました。

最初に訪れる予定の花山塚古墳は笠間辻のバス停を降りてすぐ、ケモノ道のような登り坂があり、ここしばらくの雨降りを考え、また帰路に車の激しい国道を多人数で下ることも考え、花山塚古墳の訪問を中止としました。花山塚古墳は今回の目玉でしたので、参加者から不満の声が掛かりましたが安全大第一を優先しました。(またチャンスをみて、再挑戦しなければと強く思いました。)

粟原寺跡は談山神社に保存されている三重塔の伏鉢に「比売朝臣額田」の銘があり、額田王女と伝わっています。十三重石塔の側に額田王女と大海人皇子の子弓削皇子の万葉歌碑があります。この万葉歌はストレートに読むと恋歌のようですが、額田王女60才台、弓削皇子20才台で、共に大海皇子を偲んだ歌と解釈したほうが歌の深みがあります。
これから訪ねる石位寺、鏡王女墓、玉津島明神、忍坂坐生根(いくね)神社には額田王女の伝説が潜んでいます。本日の額田王女との最初の出会いとなりました。

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【粟原寺跡万葉歌碑】

石室まで光が届いている越塚古墳は、暗闇の赤坂天王山古墳の石室構造を学ぶに都合のよい古墳でした。羨道と玄室の構造もほぼ同じですが、越塚は羨道が短く、玄室内の礫石の撒かれ方がまとまっていて、羨道と石室の区分がよくわかります。石棺は双方とも二上山白石の家形石棺ですが、越塚は組合式家形石棺で、石棺壁の一部が残っていて、溝が刻まれて石板の組合せ方が分かります。天王山は刳抜式家形石棺です。
天王山古墳は崇峻天皇の生前に造られた寿陵で、崇峻が殺害され、殯もなく日を待たずに葬られました。天王山古墳は崇峻が仮に埋葬された墓で、数年後に法隆寺の藤ノ木古墳に葬られたとする森浩一さんの説を披露しました。刳抜式石棺の前に、盗掘するには大きすぎる穴が開いていて、森浩一さんはこの穴から崇峻の遺体を外へ運んだと推定しています。よく見るとこの穴の周りに四角形に石壁が薄く削られています。前もって遺体を移すために削っていたかもしれない。また、このような大型石室・石棺の古墳で、副葬品が全く発見されていないことも、前もって改葬が考えられていたと考えても不思議ではないでしょう。なお法隆寺では現在の藤ノ木古墳を「陵山古墳・みささぎやまこふん」とよび明治政府から干渉されるまで崇峻天皇として祭祀を行っていたそうです。

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【天王山古墳入り口】

石位寺本尊の三尊石仏は修繕もかねて東京国立博物館へ貸し出し中です。東京国立博物館でこの三尊石仏を拝観されて、東京から参加された会員の方が見えられとても嬉しく思いました。
桜井にお住まいの東田さんの計らいもありまして、お寺の収蔵庫も開けて頂き、庫裏も開けて頂き昼食の場にもさせて頂きました。感謝です。
日本に伝わる最古級の石仏で、伝来についても多くの伝説が残っています。その中に粟原寺に祀られて額田王女の念持仏であった伝説があり、粟原寺の山崩れで石位寺に流れ着いたとも言われています。
石は角の円くなった亜円礫で、浸食され空洞になっているところもあり、少なくとも畿内で見られない石とのことです。また三尊仏は橘寺の塼仏と同じモチーフで構成され、北魏の交脚弥勒仏のモチーフに原型が求められます。尊顔も優しいおもむきのなかにアーカイックスマイルのようにも感じられ、中国から伝来した説も強く残ります。

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【石位寺】

段ノ塚古墳の舒明天皇陵から中尾山古墳の文武天皇陵まで、八角形古墳で全て天皇陵と見られます。これらの古墳を考古学では、古墳時代後期のあとで終末期古墳に分類しています。この後、称徳陵や平城陵も古墳を採用しているが、古墳時代終末期とは切り離して考えています。
中国古来の思想とされる道教では、世界観に八角形思想があり、その中心に天帝が位置し世界に君臨するとしている。その中心位置に星座の北斗七星があり、天帝思想が北斗七星思想にも広がっていきました。この天帝思想が、日本では全ての大王を超える世界に君臨する存在として天皇が生み出され、これまでの大王の前方後円墳を超えて八角形の墳墓を創設したと考えられています。この八角形思想は現代でも天皇の即位礼の大嘗祭に使われる高御座にも見られます。また仏教へも伝わり、法隆寺夢殿や興福寺北円堂、南円堂、栄山寺八角円堂に見られます。これらの円堂は政治的支配者の霊廟と考えられています。平安時代の密教曼荼羅にも見ることができます。

鏡王女墓は天智天皇の妃で額田王女の姉といわれています。「延喜式」では舒明陵の域内に墓があるとされ、年齢からも舒明天皇の皇女とも推定されます。そうであれば、天智。天武の姉妹となる。後に藤原鎌足の正室となり、藤原家菩提寺興福寺の前身山科寺を建立したと伝わっています。
他方、藤原鎌足は「・・・安見児得たり」と万葉集で歌っている。安見児(やすみこ)は天智天皇の采女で、美人の采女を得たことを高らかに歌っていますと通常は解釈されます。この時安見児にはお腹に天智の子がいたといわれる。天智の子も一緒に授かったことを誇って歌ったのかもしれません。采女の名に「児」の文字が使われていることも見逃せません。
この子は後の藤原不比等ではないかと思います。その理由は第一鎌足の長男は定慧で僧侶です。次男が不比等とされます。長男が僧侶で次男の名が「史・ふひと」という文書を扱う部を名乗っている。長男・次男の身分が逆に見え不自然に思えます。また不比等は平城京遷都後では天皇のレガリアとしての「黒作懸佩刀・くろつくりかけはきのかたな」を、文武〜聖武まで男系天皇になるまでの保管し、皇位継承の重要人物となっている。当時の持統・元明・元正天皇も、不比等が天智の子であることを理解し政権の中心に据え男子の聖武天皇に継いだと思われます。
ひょっとすると、不比等は母の安見児を額田王女の才能を加えて、采女の身分でなく藤原鎌足の正室の鏡王女として、舒明天皇陵域に墓を造り祭祀した。と見たら深読み過ぎか・・・

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【鏡女王墓】

玉津島明神は衣通姫(そとおりひめ)が祀られています。肌の輝きが衣を通して輝いているところから「衣通姫」とよばれますが、古事記では允恭天皇の9人の子供のうち5番目の「軽皇女」です。雄略天皇の姉にあたります。日本書紀では允恭天皇の皇后大中の妹、弟姫(おとひめ)です。この弟姫と允恭天皇の歌が日本書紀に収められています。それは倭の五王の済とされる允恭の時代の歌ではなく日本書紀の成立した奈良時代の歌と思われます。衣通姫は和歌山の玉津島神社では和歌三神の柿本人麻呂、山辺赤人と並んで祀られています。この二人と並ぶ万葉歌人は額田王女しがいないと思います。
さらに、玉津島明神から朝倉駅に向かって行きますと、忍坂坐生根(いくね)神社があります。祭神に天津彦根命が祀られています。この神様は息長氏の祖神とされます。息長氏は近江の豪族で額田氏はその一族です。忍坂は息長氏の大和の拠点でした。允恭の皇后大中姫は近江出身です、妹の衣通姫も近江出身となります。すなわち額田王女も衣通姫も近江出身なのです。
衣通姫は倭の五王時代の允恭の時代です。額田王女は天智と天武の時代です。200年ほどの隔たりがあります。こうしてみると、衣通姫は額田王女をモデルにした姫であったと考えられ特に日本書紀では潤色されているのではないかと思われます。ですから万葉集に衣通姫の歌がないのでしょう。
ちなみに額田王女の「あかねさす紫野行き標野行き・・・」の万葉歌の紫野・標野は近江の蒲生の地で豪族息長氏の拠点と考えられています。
古事記ではまた別の見方ができます。豪族息長氏と豪族葛城氏との戦いで最後に、雄略天皇に葛城氏が滅ぼされることになるカギを衣通姫が持っています。

参加された方々に感謝いたします。特に昨年新たにソムリエの会に入られ史跡探訪グループに所属された方はイベントが開催されないことに疑問を持たれたかとも思います。これからはイベント開催数も重ねて行きたいと思っています。多くの方が参加して頂けると元気が出ますので、これからも参加して頂けるものと期待しています。

史跡探訪グループ 加藤 宣男 


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2019年06月21日

記紀万葉サークル6月例会(屋外活動)「大安寺界隈を歩く」

6月8日(土)出席者27名

当日の行程
JR奈良駅―(バス移動)―神殿―東市想定区域―辰市神社―姫寺廃寺跡−大安寺塔院跡−大安寺―大安寺旧境内―杉山古墳―大安寺墓山古墳−野神古墳(解散)

今回は、久しぶりに大人数でのFWとなった。近場で半日の行程というのも良かったのだろうか。

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(東市跡を行く参加者たち)

今回のエリアは、平城京での位置が判りやすく、現状との対比においても興味深いものだった。

東市は左京八条三坊、八条大路に面して4町を占めたとされる。一方西市は右京八条二坊、八条大路に面して4町を占めた。朱雀大路に対してこの非対称の位置取りは何故だったのか。恐らくは、今は消滅した東堀川をもう一坊西に寄せる困難さに原因があったのか。東堀川の源流が佐保川ではなく菩提川であった左証でもあるだろう。現在の東市跡の景観においては、広大な畑地が大路沿いの古い町家と現代の小規模開発の宅地に侵食されてゆく有様が印象的である。

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(大安寺東塔跡にて)

大安寺は左京六条、七条に跨っておよそ16町を占め、伽藍を3重の僧房が取巻き、800人余の僧侶が居住する大寺院であった。特徴的なのは伽藍配置で、南大門と塔院を六条大路が隔て、南大門から見ると遥か南の塔院に七重の両塔が聳えていた。基壇規模は21m四方、高さ1.8m(現状は1m強が地中に埋まっている形で復原)というから凄い。

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(南門を出る参加者たち)
 
現南門は旧南大門跡に当たる。南大門の規模は正面5間(約25m)奥行き2間(約10m)と朱雀門に匹敵する。現境内北に旧境内の経楼跡・北面中房の跡が復原表示されているが、部分的で判りにくい。

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(杉山2号瓦窯復元模型を見学)

大安寺北方の杉山古墳(5C中頃、150mの前方後円墳)は旧境内に取り込まれ、740年代に成立した「資材帳」には池幷岳と記録されている。前方部には数基の瓦窯が構築され、寺の修理に必要な瓦を焼いたと見られる。2号窯の復元模型が傍らの施設で展示されている。

杉山古墳の東にある大安寺墓山古墳(5C中頃、80mの前方後円墳)は古墳らしい隆起はあるものの、近世からの墓地に隙間なく覆われ、言われなければ古墳とは気付かないだろう。

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(野神古墳の石室と石棺)

更に東の野神古墳(5C中〜末、50〜60mの前方後円墳)である。墳丘はひどく改変されてしまったが、近世まで「野神さん」として祀られていたお陰で後円部が守られたのだろうか。竪穴式石室の天井石(縄掛突起付き)と石室の東側壁が遺存しコンクリートと鉄格子によって保護されている。中には2m程の阿蘇ピンク石製の繰抜式石棺(長持ち型と思われる)が納まっている。市街地にこれだけのものが見られるのは稀有な例である。

上記3基の古墳を築造したのは当然ながら同一氏族だろう。さらにまだこれら古墳の2km圏内に、坂上山(油阪町)・頭塔下(高畑町)・吉備塚(同左)といった同時期の古墳もある。奈良盆地北東部、佐保川の左岸一帯に展開する一つの勢力圏を想定する必要があるだろう。

  
文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘


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2018年12月18日

記紀万葉サークル12月例会(屋外活動)「佐保川を下る」

12月8日(土)主席者8名

当日の行程
近鉄奈良駅―法蓮橋―坂上郎女・佐保大伴邸想定エリアー「柳の歌」歌碑―長屋王・藤原麻呂邸(遠望)−奈良市役所(平城京復元模型)−田村第跡―県立図書情報館(昼食休憩)―羅城門跡―九条公園(富本銭出土地)−西市跡―近鉄九条駅

当日は、今季一番の冷え込みが予想されまた師走ということもあって、少人数でのFWとなりました。

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法蓮橋にて

起点は「一条南大路」と佐保川が交わる法蓮橋となります。この辺り北側は佐保山南陵・同東陵が隣接しています。御陵の西側から法蓮中町の北側南北2町程のエリアを坂上郎女の居宅のあった「坂上の里」と想定しました。更に「大路」を西に進み、奈良高校バス停辺りからJR京都線踏切までの、「大路」を挟む南北各6町程のエリアの何処かに安麻呂〜家持の佐保大伴邸を想定しました。

4−528左注、右郎女は佐保大納言の女なり。(中略)郎女は、坂上の里に家む。よりて、族氏号けて坂上郎女といへり。
6−979大伴坂上郎女、甥家持が佐保より西の宅に還帰るに与へたる歌
「わが背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家にいたるまで」
天平5年、家持16歳郎女38歳の頃の歌と推定します。

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「柳の歌」歌碑

8−1433大伴坂上郎女の柳の歌
「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも」

郎女は、命婦として平城宮に通っていたようです。その帰り道、春風に吹かれながら上流に上って行く郎女自身の浮き立つような気持ちが抑制的に歌われています。歌碑は、いかにもこの辺りかと思われる場所に建てられています。

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平城京復元模型を見学

土曜閉庁の奈良市役所でしたが、模型の見学とトイレ休憩のため守衛さんに頼んで入れてもらいました。巨大な模型はかなり正確に作られており、各河川の流路も妥当に思えるものでした。
佐保川は市役所の東辺りでほぼ直角に南に曲がり、「二坊大路」に沿うようにして南下します。奈良時代以前から現在のような高台が横たわっていたと思われます。
「三条大路」を超え想定「二坊大路」に沿って歩くと「四条大路」まで条坊の1/2が「田村第」の跡です。東の縁は三笠中学の敷地にかかっていたようです。
県立図書情報館の前で再び佐保川縁に出ます。この辺りから南、その流路は1300年の間に大きく西へ移動したようです。七条から八条にかけては1坊以上動いたようです。

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羅城門跡にて

九条大路では旧流路にかなり近づいてはいますが、まだ1町以上の乖離が見られるようです。羅城門の基壇の東端は現在の佐保川の河中に存在するそうです。

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九条公園(富本銭出土地)にて

昭和60年、現在のトリム広場南端の井戸底から「飛鳥池工房」で鋳造された富本銭1枚が和同開珎・神功開宝などと共に出土しました。「西市」に隣接したこの場所で発見されたことにより、従来厭勝銭とされてきたこの銅銭が流通の用にも供した可能性が出てきたと言えます。

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西市跡にて

7−1264不詳
「西の市にただ独り出でて目並べず買ひにし絹の商じこりかも」


当時は、市には絹など滅多に出るものではなかった筈です。何かの寓意が歌われているのかも知れません。

続紀 和銅5年(712)「東西二市初置」

官営の市の広さは4町(6万u)、現状は広大な畑地です。

文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘


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2018年11月18日

広陵町の仏像と環濠集落をめぐる

週間予報では土曜日だけ雨、「なんでまた!?」と思っていたら、参加者の日頃のおこないがよほどいいのか、何とか早朝には雨も止み、10月27日の9時30分、近鉄田原本線「箸尾」駅に20人が集合しました。

昔ながらの「よろず屋」や「畳屋」など昭和の雰囲気が残る箸尾の町を歩きだし、箸尾御坊の「教行寺」、箸尾氏が治めた「箸尾城址」、戸閉(とだて)祭りを1週間後に控えた「櫛玉比女命神社」を見学して南東へ歩き「与楽(ようらく)寺」へ。

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教行寺

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箸尾城址

与楽寺では収蔵庫に収められた重文の「十一面観音檀像」を拝観。本堂に安置されていた十一面観音像の像内から発見された高さ31cmの小さな仏像ですが、法隆寺の九面観音像にも似た、端正な像に魅せられました。

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与楽寺「十一面観音檀像」 

この後、予定にはなかったサプライズで、この日参加されていた広陵町在住の大山理事のおすすめで「常念寺」へ、境内のある箸尾氏の墓所といわれる五輪塔の一列をご案内いただきました。

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常念寺「五輪塔」

南西へ向かい「古寺」集落へ、一部が整備された環濠の内側にある「正楽寺」に到着。地元の観音講の皆様の本堂を開けていただき県指定文化財の「十一面観音立像」を拝観。2mを超える大きな像に感激していると、その横の厨子も開けていただき、納められている、小さな「誕生釈迦仏」も拝ませていただきました。

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正楽寺「十一面観音立像」

再び南東へ向かい「百済寺」へ。きれいに整備された公園で昼食の後、鎌倉時代建立の重文「三重塔」の初層を開けていただき中央に安置された「大日如来像」を拝観。その後、談山神社旧本殿を移築したといわれる「本堂」内部へ。菩薩などの仏像がありますが、中央の厨子の中はなぜか「兜跋毘沙門天像」。聞けば本来のご本尊であった「馬頭観音像」は平成11年の本堂改修中に盗難に合い行方不明とのこと。一刻も早く見つかり戻ることを願いました。

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百済寺「三重塔」

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百済寺「本堂」

再び南西へ向かい南郷を目指して歩きます。このようにコースは北から南へ下りながら東西に行ったり来たり。その結果、この日は「葛城川」を四度も渡りました。
「南郷環濠集落」は南北約700m、東西約550mにも広がる県下最大級の環濠。かなりの箇所できれいに整備されており、その北端付近で集合写真を撮りました。

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南郷環濠集落

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南郷環濠集落「集合写真」

集落内を歩いて山王神社の鳥居をくぐった境内に県指定文化財の「石造伝弥勒菩薩像」が、ガラス越しではっきりとは見えませんがうっすらと像の輪郭が浮かび上がります。

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石造伝弥勒菩薩像

境内を西に抜けるとすぐに整備された環濠が見えます。それに沿って南へ歩き、南西端で左に折れ南東の端まで移動。その大きさを十分に実感することができました。
集落内へ少し戻り、住宅地に挟まれ見落としそうな空き地に「南郷城址」の碑が。南郷氏の居城跡とのことですが遺構はありません。

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南郷城址

ここからすぐの「南郷」バス停へ、希望者はこの後「藤森」「池尻」の環濠集落へ歩く予定でしたが、ここまで平地とはいえ結構な距離を歩いてきたためか希望者は無し。主催者も正直ほっとして、広陵町のコミュニティバス「広陵元気号」に乗って近鉄「大和高田駅」に向かいそこで解散しました。

暑くもなく寒くもなく、ウォーキングには最適な気候の中、普段予約なしではできない「与楽寺」「正楽寺」「百済寺」の拝観もでき、参加者からは「よかった」との声もいただきました。それぞれを休日にもかかわらず開扉していただいた、地域でお堂を守られる農家や、講の方々にはこの場を借りて大変感謝いたします。

歴史探訪グループ 文:小林誠一 写真:小林誠一、池内力



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2018年07月29日

記紀万葉サークル7月例会(屋外活動)「飛鳥・吉野最短古道」

7月14日(土) 参加者18名

(当日の行程)近鉄吉野線六田駅―柳の渡しートノカイト遺跡―世尊寺―妙楽寺―安産滝―壺阪峠―壷阪寺―(バス移動)−近鉄壺阪山駅

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吉野川―柳の渡し辺りからー

吉野川はこの辺りでは比較的緩やかなのですが、前週の雨で増水していました。眩しく熱い空気の中で川の流れは清冽に映ります。169号線を少し東に進み比曽口というところから北の坂を上りました。世尊寺までの中間地点、現状畑地・住宅地の辺りがトノカイト遺跡(仮称)に想定されています。まだ詳しい調査は行われていないようですが、飛鳥時代の工房(金属・ガラス加工などの)が稼働していたのではないかと思われます。

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世尊寺山門にて

現曹洞宗世尊寺は、時代により吉野寺・現光寺・比曽寺・栗天奉寺などと名を変えてきました。創建は白鳳期、吉野寺の造営主体とトノカイト遺跡の工人たちは一体としてこの地に拠点を有した勢力だったのでしょう。

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比曽寺東塔跡

創建時の東塔は失われ、鎌倉期再建のものが中世を通じて残っていましたが、文禄3年(1597)豊臣秀吉によって伏見城に移され、更に慶長6年(1601)徳川家康によって近江の三井寺に移建されました(重文として現存)。

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妙楽寺薬師如来

近隣に在り、明治期に廃寺になった謎の寺院阿佐寺から散逸した仏像の一部と伝えるものがあります。十一面観音立像(像高195cm)・地蔵菩薩立像(同160cm)は平安時代の、薬師如来坐像(同147cm)は室町時代の作です。

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木陰で昼食

安産滝近く、龍峯院護摩堂の庭をお借りして昼食休憩。木陰を涼しい風が吹き渡ります。

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安産滝

比曽寺の奥之院として伝承のある阿佐寺の行場だったのでしょうか。今では寺の名をもじって安産祈願の滝に(?)。

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大観音石像

壺阪寺によるインドハンセン病救済事業の縁で寄贈されたそうです。カルカラ産の古石材で製作された20mの観音菩薩立像です。他にも数々の石像が並び壮観です。

最高気温37℃を記録した、過酷な峠越えでしたが全員予定時刻のバスに乗車、無事行程を終了しました。


文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘

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