2018年12月18日

記紀万葉サークル12月例会(屋外活動)「佐保川を下る」

12月8日(土)主席者8名

当日の行程
近鉄奈良駅―法蓮橋―坂上郎女・佐保大伴邸想定エリアー「柳の歌」歌碑―長屋王・藤原麻呂邸(遠望)−奈良市役所(平城京復元模型)−田村第跡―県立図書情報館(昼食休憩)―羅城門跡―九条公園(富本銭出土地)−西市跡―近鉄九条駅

当日は、今季一番の冷え込みが予想されまた師走ということもあって、少人数でのFWとなりました。

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法蓮橋にて

起点は「一条南大路」と佐保川が交わる法蓮橋となります。この辺り北側は佐保山南陵・同東陵が隣接しています。御陵の西側から法蓮中町の北側南北2町程のエリアを坂上郎女の居宅のあった「坂上の里」と想定しました。更に「大路」を西に進み、奈良高校バス停辺りからJR京都線踏切までの、「大路」を挟む南北各6町程のエリアの何処かに安麻呂〜家持の佐保大伴邸を想定しました。

4−528左注、右郎女は佐保大納言の女なり。(中略)郎女は、坂上の里に家む。よりて、族氏号けて坂上郎女といへり。
6−979大伴坂上郎女、甥家持が佐保より西の宅に還帰るに与へたる歌
「わが背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家にいたるまで」
天平5年、家持16歳郎女38歳の頃の歌と推定します。

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「柳の歌」歌碑

8−1433大伴坂上郎女の柳の歌
「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも」

郎女は、命婦として平城宮に通っていたようです。その帰り道、春風に吹かれながら上流に上って行く郎女自身の浮き立つような気持ちが抑制的に歌われています。歌碑は、いかにもこの辺りかと思われる場所に建てられています。

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平城京復元模型を見学

土曜閉庁の奈良市役所でしたが、模型の見学とトイレ休憩のため守衛さんに頼んで入れてもらいました。巨大な模型はかなり正確に作られており、各河川の流路も妥当に思えるものでした。
佐保川は市役所の東辺りでほぼ直角に南に曲がり、「二坊大路」に沿うようにして南下します。奈良時代以前から現在のような高台が横たわっていたと思われます。
「三条大路」を超え想定「二坊大路」に沿って歩くと「四条大路」まで条坊の1/2が「田村第」の跡です。東の縁は三笠中学の敷地にかかっていたようです。
県立図書情報館の前で再び佐保川縁に出ます。この辺りから南、その流路は1300年の間に大きく西へ移動したようです。七条から八条にかけては1坊以上動いたようです。

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羅城門跡にて

九条大路では旧流路にかなり近づいてはいますが、まだ1町以上の乖離が見られるようです。羅城門の基壇の東端は現在の佐保川の河中に存在するそうです。

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九条公園(富本銭出土地)にて

昭和60年、現在のトリム広場南端の井戸底から「飛鳥池工房」で鋳造された富本銭1枚が和同開珎・神功開宝などと共に出土しました。「西市」に隣接したこの場所で発見されたことにより、従来厭勝銭とされてきたこの銅銭が流通の用にも供した可能性が出てきたと言えます。

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西市跡にて

7−1264不詳
「西の市にただ独り出でて目並べず買ひにし絹の商じこりかも」


当時は、市には絹など滅多に出るものではなかった筈です。何かの寓意が歌われているのかも知れません。

続紀 和銅5年(712)「東西二市初置」

官営の市の広さは4町(6万u)、現状は広大な畑地です。

文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘


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2018年11月18日

広陵町の仏像と環濠集落をめぐる

週間予報では土曜日だけ雨、「なんでまた!?」と思っていたら、参加者の日頃のおこないがよほどいいのか、何とか早朝には雨も止み、10月27日の9時30分、近鉄田原本線「箸尾」駅に20人が集合しました。

昔ながらの「よろず屋」や「畳屋」など昭和の雰囲気が残る箸尾の町を歩きだし、箸尾御坊の「教行寺」、箸尾氏が治めた「箸尾城址」、戸閉(とだて)祭りを1週間後に控えた「櫛玉比女命神社」を見学して南東へ歩き「与楽(ようらく)寺」へ。

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教行寺

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箸尾城址

与楽寺では収蔵庫に収められた重文の「十一面観音檀像」を拝観。本堂に安置されていた十一面観音像の像内から発見された高さ31cmの小さな仏像ですが、法隆寺の九面観音像にも似た、端正な像に魅せられました。

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与楽寺「十一面観音檀像」 

この後、予定にはなかったサプライズで、この日参加されていた広陵町在住の大山理事のおすすめで「常念寺」へ、境内のある箸尾氏の墓所といわれる五輪塔の一列をご案内いただきました。

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常念寺「五輪塔」

南西へ向かい「古寺」集落へ、一部が整備された環濠の内側にある「正楽寺」に到着。地元の観音講の皆様の本堂を開けていただき県指定文化財の「十一面観音立像」を拝観。2mを超える大きな像に感激していると、その横の厨子も開けていただき、納められている、小さな「誕生釈迦仏」も拝ませていただきました。

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正楽寺「十一面観音立像」

再び南東へ向かい「百済寺」へ。きれいに整備された公園で昼食の後、鎌倉時代建立の重文「三重塔」の初層を開けていただき中央に安置された「大日如来像」を拝観。その後、談山神社旧本殿を移築したといわれる「本堂」内部へ。菩薩などの仏像がありますが、中央の厨子の中はなぜか「兜跋毘沙門天像」。聞けば本来のご本尊であった「馬頭観音像」は平成11年の本堂改修中に盗難に合い行方不明とのこと。一刻も早く見つかり戻ることを願いました。

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百済寺「三重塔」

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百済寺「本堂」

再び南西へ向かい南郷を目指して歩きます。このようにコースは北から南へ下りながら東西に行ったり来たり。その結果、この日は「葛城川」を四度も渡りました。
「南郷環濠集落」は南北約700m、東西約550mにも広がる県下最大級の環濠。かなりの箇所できれいに整備されており、その北端付近で集合写真を撮りました。

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南郷環濠集落

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南郷環濠集落「集合写真」

集落内を歩いて山王神社の鳥居をくぐった境内に県指定文化財の「石造伝弥勒菩薩像」が、ガラス越しではっきりとは見えませんがうっすらと像の輪郭が浮かび上がります。

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石造伝弥勒菩薩像

境内を西に抜けるとすぐに整備された環濠が見えます。それに沿って南へ歩き、南西端で左に折れ南東の端まで移動。その大きさを十分に実感することができました。
集落内へ少し戻り、住宅地に挟まれ見落としそうな空き地に「南郷城址」の碑が。南郷氏の居城跡とのことですが遺構はありません。

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南郷城址

ここからすぐの「南郷」バス停へ、希望者はこの後「藤森」「池尻」の環濠集落へ歩く予定でしたが、ここまで平地とはいえ結構な距離を歩いてきたためか希望者は無し。主催者も正直ほっとして、広陵町のコミュニティバス「広陵元気号」に乗って近鉄「大和高田駅」に向かいそこで解散しました。

暑くもなく寒くもなく、ウォーキングには最適な気候の中、普段予約なしではできない「与楽寺」「正楽寺」「百済寺」の拝観もでき、参加者からは「よかった」との声もいただきました。それぞれを休日にもかかわらず開扉していただいた、地域でお堂を守られる農家や、講の方々にはこの場を借りて大変感謝いたします。

歴史探訪グループ 文:小林誠一 写真:小林誠一、池内力



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2018年07月29日

記紀万葉サークル7月例会(屋外活動)「飛鳥・吉野最短古道」

7月14日(土) 参加者18名

(当日の行程)近鉄吉野線六田駅―柳の渡しートノカイト遺跡―世尊寺―妙楽寺―安産滝―壺阪峠―壷阪寺―(バス移動)−近鉄壺阪山駅

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吉野川―柳の渡し辺りからー

吉野川はこの辺りでは比較的緩やかなのですが、前週の雨で増水していました。眩しく熱い空気の中で川の流れは清冽に映ります。169号線を少し東に進み比曽口というところから北の坂を上りました。世尊寺までの中間地点、現状畑地・住宅地の辺りがトノカイト遺跡(仮称)に想定されています。まだ詳しい調査は行われていないようですが、飛鳥時代の工房(金属・ガラス加工などの)が稼働していたのではないかと思われます。

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世尊寺山門にて

現曹洞宗世尊寺は、時代により吉野寺・現光寺・比曽寺・栗天奉寺などと名を変えてきました。創建は白鳳期、吉野寺の造営主体とトノカイト遺跡の工人たちは一体としてこの地に拠点を有した勢力だったのでしょう。

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比曽寺東塔跡

創建時の東塔は失われ、鎌倉期再建のものが中世を通じて残っていましたが、文禄3年(1597)豊臣秀吉によって伏見城に移され、更に慶長6年(1601)徳川家康によって近江の三井寺に移建されました(重文として現存)。

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妙楽寺薬師如来

近隣に在り、明治期に廃寺になった謎の寺院阿佐寺から散逸した仏像の一部と伝えるものがあります。十一面観音立像(像高195cm)・地蔵菩薩立像(同160cm)は平安時代の、薬師如来坐像(同147cm)は室町時代の作です。

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木陰で昼食

安産滝近く、龍峯院護摩堂の庭をお借りして昼食休憩。木陰を涼しい風が吹き渡ります。

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安産滝

比曽寺の奥之院として伝承のある阿佐寺の行場だったのでしょうか。今では寺の名をもじって安産祈願の滝に(?)。

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大観音石像

壺阪寺によるインドハンセン病救済事業の縁で寄贈されたそうです。カルカラ産の古石材で製作された20mの観音菩薩立像です。他にも数々の石像が並び壮観です。

最高気温37℃を記録した、過酷な峠越えでしたが全員予定時刻のバスに乗車、無事行程を終了しました。


文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘

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2018年06月03日

歴史探訪グループ  笠縫から三輪を訪ねて

心配された雨も夜半には上がり、涼しいぐらいの5月19日(土)近鉄笠縫駅に、今年新たに入会された方も交えた33人が集合しました。

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まずは「多神社」を目指して歩き出します。寺川沿いの一の鳥居をくぐって、二上山を正面に見ながら西へ、「小杜神社」、「皇子神命神社」、太安万侶の「古事記献上1300年碑」を経て、多神社、正式名称「多坐弥志理比古神社」に到着。神武天皇など四柱を祀る、春日造の本殿に参拝後、普段は公開されていない宝物殿を見学。周辺の「多遺跡」から出土した遺物や、太安万侶に関する資料を見せていただきました。

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多神社を後に、「観音堂」、「姫皇子命神社」、斜めの筋違道の「太子道」の名残を通って、いよいよ三輪山を正面に臨んで東へ向かいます。
国道24号線を過ぎると、十市の古い街並みに入ります。道を少し北にそれると、畑の真ん中に「十市城之跡」の石碑が。戦国時代に活躍した「十市氏」の平城跡地で16代当主のお話を聞き、昔に思いを馳せました。

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東へ進み、「十市遠忠」の歌碑が置かれた「十市御縣坐神社」で昼食。まだ遠い三輪山へ向かう英気を養います。道は単調だけれども平坦で、秀麗な三輪山の姿に励まされ足取りも軽く、思ったより順調に「慶田寺」に到着。曹洞宗の禅寺で境内には信長の弟、織田有楽斎こと織田長益などの墓があり、十一面観音像や阿弥陀如来坐像などを拝観しました。

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さらに東へ、JR万葉まほろば線を越えるころには三輪山はすぐ目の前。線路横の田んぼの畦道を通って「茅原狐塚古墳」へ。盛土がなくなり露出した横穴式石室は、前夜の雨で水没。入ることはできませんでしたが雰囲気は味わえました。次は富士厳島神社の境内にある「弁天社古墳」へ、こちらは頑張れば石室内へ入ることができ、土に半分埋もれた石棺の蓋?に触れられます。

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三輪山を背景にしたその名も「神御前神社」を経ていよいよラストスパート、少し上って「狭井川神武天皇聖蹟碑」から山の辺の道へ入り三輪山の登拝口「狭井神社」に到着。入山時間は過ぎていましたが境内に湧く「御神水」でのどを潤しました。二上山や大和三山を望む「大美和の杜」展望台で集合写真撮影。

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最後に「大神神社」で本日の無事故を感謝し、JR三輪駅で解散しました。


文・写真  歴史探訪グループ 小林誠一

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2018年05月06日

記紀万葉サークル4月例会「春の木津川べりを行く」

4月14日(土)参加者17名

主な見どころを二つに絞り、歩行距離も6km強とやや短めの設定となったため、集合時間(JR奈良駅)は10時30分、解散時間は16時頃と余裕のある行程であった。

(当日の行程)
JR上狛駅―高麗寺跡―ふるさとミュージアム山城―JR上狛駅―JR加茂駅―恭仁宮(山城国分寺)跡―JR加茂駅(解散)

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(上狛駅で)

高麗寺跡 
欽明天皇の26年(565)、日本書紀に「高麗の人が帰化してきたので、山背国に住まわせた。今の山村(木津川市か)の高麗人の先祖である」とある。これら高麗人と寺院の関係は必ずしも明らかではないが、他氏族との関係も伝わらない。飛鳥寺や川原寺と同笵の瓦が出土しており7世紀初め頃の創建と見られ、平安時代後期まで存続したらしい。寺域の北方で建立氏族の居館と思しき建物遺構が発見されている。伽藍は、法起寺式と言われるが、年代的にも法起寺との関係は認め難い。

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(高麗寺跡)

現在木津川市による基壇の復原工事が進行中で、発掘時の塔などの瓦積み基壇、舎利孔の穿たれた塔心礎などは全て地中に埋め戻されている。

ふるさとミュージアム山城(府立山城郷土資料館)
高麗寺の東方、徒歩10分程のところ。南山城における旧石器時代〜古墳時代の考古資料、恭仁京域の図や山城国分寺のジオラマを見学できる。

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(山城郷土資料館にて)

恭仁宮(山城国分寺)跡
恭仁京が都であったのは740年から744年にかけて足掛け5年の短い時期であった。744年に難波宮遷都が行われたため、恭仁京はおろか恭仁宮も未完成のまま放置されてしまったと思われる。743年に平城宮から移転された大極殿は746年、山城国分寺に施入された。現在当時を偲ぶことが出来るのは、大極殿(国分寺金堂)跡の土壇と僅かに残る礎石、それに国分寺七重塔跡の巨大な礎石のみである。大極殿跡に舞う八重桜の花びらと礎石の対照が印象的であった。

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(大極殿跡)

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(集合写真:七重塔跡にて)


(文と写真) 記紀万葉サークル 田中昌弘

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