2017年03月08日

歴史探訪グループ例会「大和小泉でブラソムリエ」

法隆寺と郡山の間に位置する「大和小泉」。観光客は少なく、ソムリエでもあまり訪れない地味なウォーキングに参加者はなんと31人。さすがソムリエはマニアックな人が多いと感じながら、穏やかな日和の2月26日(日)10時、JR大和小泉駅をスタート。街道沿いの古い街並みや、「太神宮」の灯篭などを見ながらまず「小泉神社」へ。

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小泉の街並み

素戔嗚尊と誉田別命を祀る重文の春日造の本殿を軽妙な話し方の神職の案内で見学。神像の写真も見せていただきました。神社の境内には葉の裏側に文字が書け、葉書の始まりと言われる「タラヨウ」の木も見られます。

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小泉神社本殿

神社を後に北へ向かうと小泉城の堀跡のナギナタ池の向こうに片桐氏二代目の貞昌を祖とする石州流茶道宗家「高林庵」が見えてきます。漆喰の白壁や鯱が乗る屋根が、往時の小泉城を忍ばせます。

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高林庵

高林庵を一回りし「小泉城址」へ、地侍の小泉氏が築城し、江戸時代には片桐氏が治めた小泉城の石碑は高台の縁にありますが、そこには何も残っていません。

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小泉城址

城址から階段を下り、堀跡を見て、「庚申(こうしん)堂」へ。ここは「一国一宇庚申」とされ、大和の庚申信仰の中心です。

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庚申堂で記念撮影

庚申(かのえさる)の夜、三尸(さんし)という虫が人の罪を天帝に告げると早死にするという庚申信仰の身代わりとするため、軒先には、奈良町と同じ赤い「身代わり申(さる)」がぶら下がります。

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軒に下がる身代わり申

庚申堂の本堂の軒丸瓦には猿が描かれ、梵鐘には「見ざる聞かざる言わざる」が鋳出されています。

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庚申堂軒丸瓦の猿

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梵鐘の三猿

その後、弘法大師が掘り、小泉の地名の由来になったともされる「小白水」(”白”・”水”を縦に重ねると”泉”になる)を経て、「小泉大塚古墳」「六道山古墳」へ。

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小白水

どちらの古墳も元は前方後円墳でしたが、前方部分が削平され円墳の様に見えます。また最近樹木が完全に伐採され丸裸の状態。今後の成り行きが気になります。

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小泉大塚古墳

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六道山古墳

全員での本日のコースはここまで慈光院下で解散。希望者で慈光院を参拝し、お庭を眺めながら抹茶をいただきました。

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慈光院

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慈光院の梅


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2016年12月24日

記紀万葉サークル12月例会「天理教本部施設とその周辺を探訪」

12月10日(土)実施 参加者18名

【行程】近鉄天理駅→三島神社→山辺御県坐神社→天理教教祖墓地→記念建物→天理教教会本部→お茶所→峯塚古墳→西山古墳→塚穴山古墳→天理図書館→若江の家→天理参考館→天理本通り→近鉄天理駅(解散)

当日は肌寒いものの好天に恵まれ、絶好のウォーキング日和となりました。9時40分に近鉄天理駅前を出発し、先ずは天理駅前広場の東北隅で万葉歌碑を見学。「石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」。天理市内に設置されている12か所の万葉歌碑の1つで、平成15年に建碑されました。
万葉歌碑を見学後、天理市内を北東へ向かい、ほどなく三島神社へ到着。三島神社は、三島町一帯の産土神社で、伊豆国一宮の三嶋大社や伊予国一宮の大三島の大山祇 [おおやまつみ] 神社と同系統です。祭神は大山祇命・布留御魂神・天児屋根命。本殿は流造で、亀が台座の石燈籠や日露戦争の戦利品の砲弾もあります。
三島神社を後にして、山辺御県坐神社へ。途中、山辺御県坐神社の西北に別所大塚古墳が望まれました。
山辺御県坐神社は、大和国の六御県(志貴・十市・高市・山辺・曾布・葛木)に置かれた御県坐神社の1社で、本殿背後に磐座があります。
山辺御県坐神社から東へ歩を少し進めると、天理教教祖墓地へ到着。墓地には、天皇陵並みの風格を備えた教祖の中山みきの墓をはじめとして、代々の真柱 [しんばしら] (教祖没後の天理教の統括者)や縁者・信者たちの墓が立ち並んでおります。この墓地は高台にあり、眼下の天理市内はもとより、周辺の山々も一望できて、遠くには葛城山や金剛山も望まれました。
 
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<真柱代々の墓所>           

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<教祖墓所>

墓地から天理市内を南下して、記念建物へ。天理教本部の北にある記念建物は、江戸末期から明治にかけて建てられた4棟からなる教祖の居宅や祭場などを移築したもので、教祖の中山みきはここで亡くなっております。元は、現在の教会本部の神殿の辺りにありました。
記念建物の見学後は、いよいよ教会本部の見学です。本部は布留遺跡の中心に位置しており、神殿、教祖殿、祖霊殿などの総檜造の建物群からなり、各々の建物は1周約800mの回廊で結ばれております。回廊内の中庭の広さが、甲子園のグラウンドの広さに匹敵とは驚きです。
神殿内は、1,170畳の広々とした大空間の中心に甘露台と呼ばれる簡素な6角形の祭壇が置かれ、四方から礼拝ができるようになっておりました。記紀万葉サークルのメンバーも天理教の参拝方法に則り、1礼4拝1礼4拝1礼で参拝いたしました。神殿から回廊を教祖殿、祖霊殿へと進み、祖霊殿を過ぎた辺りから甘露台上の吹き抜け穴が見えました。

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<天理教本部教会前を行く>

教会本部の見学を終えた頃にはお昼となり、お茶所と呼ばれる無料の湯茶接待所で昼食タイム。室内にあるお茶所は暖かくて、冷え切った身にはありがたい所でした。
昼食後は、石上神宮外苑公園の万葉歌碑の前を通って、峯塚古墳へと向かいました。猪防止柵の奥にあり、例会の下見時には見つけにくかったそうです。杣之内古墳群にある峯塚古墳は、古墳時代終末期の円墳で、石室は岩屋山式の横穴式石室です。石室の切石は岩屋山古墳ほど精緻ではないものの、玄室の西側壁の2段目は1枚岩となっておりました。なお、玄室内に石棺は見当たりませんでした。

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<峯塚古墳開口部>

峯塚古墳見学後は、大和国14か所に置かれた山口神社の1つの都祁山口神社を参拝して、西山古墳へと向かいました。
日本最大の前方後方墳の西山古墳は、私としては前回の記紀万葉サークルの例会で訪れて以来です。今回は初冬に訪れたために、古墳を覆っている草も冬枯れていて、前回訪問時と異なった雰囲気を醸し出しておりました。墳丘に登りましたが、風が強くて寒く、早々に降りて、塚穴山古墳に向かいました。

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<西山古墳後方(円)部より西方を望む>

塚穴山古墳は杣之内古墳群中の大型円墳で、全長17mの横穴式石室は石舞台古墳に次ぐ規模です。現在は墳丘と天井石を失って巨大な石室が露出しております。

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<塚穴山古墳の石室>

塚穴山古墳からは東へと向かい、天理図書館を目指しました。この図書館は、曜日による休館日が無くて、一般に公開されております。一度ゆっくりと訪ねてみたいと思います。
図書館の次は、若江の家を訪ねました。ここは、天理大学の前身の天理外国語学校を創設した中山正善 [しょうぜん] の記念館。2代目真柱の正善が大阪で学んでいた頃に建てられた瀟洒な洋館で、大阪の若江岩田から移築されております。
    
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<天理図書館前にて>

若江の家からは、本日最後の目的地の天理参考館へと向かいました。
天理参考館は、海外に渡り、天理教を広めようとする人々が、諸外国の生活習慣や歴史などの知識を深めるため、中山正善によって、昭和5年に創設されました。ここも久方ぶりの再訪で、またじっくりと見学してみたいところです。なお、今回は館内で簡単なクイズを実施しており、素敵なクリアファイルがお土産となりました。
天理参考館を後にして、天理本通りを解散場所の近鉄天理駅へと向かいました。予定の16時に無事到着。
案内役の小林淳一さん、前防道徳さん、どうもありがとうございました。お陰様で、充実した初冬の一日を過ごすことができました。

大村隆清(記紀万葉サークル) 写真:田中昌弘(同) 
posted by 奈良まほろばソムリエ at 10:42| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

歴史探訪グループ例会「お葉つき銀杏が色づく音羽山観音寺を訪ねて」

11月19日(土)参加者10名

【日程】9:30桜井駅―バス―下居(おりい)停留所―急坂の参詣道―音羽山観音寺(お葉つき銀杏・本堂拝観・ご住職様の法話拝聴・お昼ご飯)―万葉展望台―音羽山山頂(有志)―音羽山観音寺(小休憩・コーヒーをいただく)―下山―崇峻天皇倉梯岡陵―下居神社―聖林寺停留所―バス―16:15桜井駅にて解散

雨の予報に空模様を気にしながらの集合となりました。桜井駅9時45分発の談山神社行きバスに乗り、下居(おりい)停留所で降車。寺川にかかる橋を渡り、音羽山観音寺までの約1.8kmの参詣道を登り始めます。お天気も何とか大丈夫そうです。

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<観音寺への道>

途中の少し広い所で恒例の加藤さんによるストレッチ体操を行い、体をほぐしました。

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<恒例の体操>

何度も折り返す急な長い坂道。

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<急な長い坂道>

郵便配達の方は観音寺までこの道をバイクで行き来するというのですから驚きです。ところどころにある「ちょっといっぷく」「お寺でみんなが待ってるよ」などの可愛いイラスト付き看板にほっと一息つきながら登り続けます。

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<ちょっといっぷく>

そして登り始めから50分、ついに観音寺に到着。秋色に染まった美しい境内に疲れも吹き飛ぶようでした。

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<色づき始めた境内>

石段を登ると本堂の階段に座ったご住職さん達3名の「人形」が我々を迎えてくれました。坂道で見た手作り看板やこちらの人形さん達、ユーモアと優しさにあふれていて皆さんも思わずにっこり。

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<出迎えの人形>

境内でひときわ目を引く大きな「お葉つき銀杏」の木。鮮やかな黄色に色づきまさに今が見頃という感じでしたが、しばらくして落葉すれば今度は地面に黄色の絨毯が広がりまた違う美しさを見せてくれるのでしょう。

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<イチョウ全景>

「お葉つき銀杏」はその名のとおりギンナンと葉が一体となっており、稀にしか見ることが出来ません。皆さんで探してみるとただお一人、廣岡さんが発見されました。お見事!
私も実物を目にするのは初めてのことで貴重な機会となりました。

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<お葉つき銀杏>

続いて本堂を拝観。ご本尊は千手千眼十一面観音像で20年ほど前に平成の大修理を終えられ、金色に輝いていました。そしてご住職の法話を拝聴します。笑顔の素敵なこちらのご住職は女性の方で、廃寺同然になっていたこのお寺を修理し守り続けて来られました。当寺は寺伝によれば談山妙楽寺の鬼門除けのお寺として藤原鎌足公自作の梅の木の観音像を祀ったのが始まりとされているそうです。(創建についてはその他にも諸説あり。)往時には「音羽百坊」と称されるほどの規模でしたが、貞観18年(876)の山津波(音羽流れ)によって堂宇は崩落してしまったそうです。現在は融通念仏宗のお寺として、また眼病平癒に霊験あらたかな観音様として山中に静かに佇むお寺です。

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<優しいご住職>

京都清水寺の貫主を務められ107歳の大往生を遂げた大西良慶和上はここ音羽山で幼少期を過ごされたのだそうです。94歳の時に里帰りされ、籠に乗ってここ観音寺まで登って来られた時の写真が本堂に掲げられていました。
拝観を終え靴を履いていたその時、本堂の壁がガタガタと大きな音を立てて揺れました。なんと地震!震源は和歌山だったようです。奈良のウォーキング活動の時に体に感じるほどの地震を経験したのは初めてのことで驚きました。
その後、お部屋を用意していただきゆっくりとお昼ご飯。温かいお味噌汁をいただきました。肌寒かったので大変有難く、持参していたお弁当も一層美味しく感じました。

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<食事をさせていただいた部屋>

昼食後はさらに高い所にある「万葉展望台」を目指します。斜面を登って行くと、後方には絶景が!近くには御破裂山もよく見えていました。この付近は「奈良県景観資産」にも登録されているそうです。展望台までたどり着くと金剛・葛城山をはじめ二上山や畝傍山が一望。快晴で見通しがきく時は大阪のビル群や明石海峡まで望めるそうですが、この日のように霞がかった眺望もそれはそれで良かったです。

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<展望所からの風景>

予定ではこの絶景地までで下山することになっていましたが、ここまで来たら頂上はあと少し。有志で登ることになりました。20分ほどの急登の末、13時に無事登頂。眺望はありませんでしたが、登頂したという達成感は何にも代え難いものがありました。山頂からさらに経ケ塚山、熊ケ岳へと縦走するコースがあるそうです。

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<音羽山山頂>

下りは違うルートを取り、30分ほどで観音寺へ戻って来ました。
お昼休みと同じお部屋で休憩。今度はホットコーヒーをいただきました。温かいおもてなしに感謝しきりです。14時過ぎ、大変お世話になった観音寺を辞して下山しました。

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<本堂前で集合写真>

15時過ぎ、「崇峻天皇倉梯岡陵」に到着。木々も色づき、大変静かで落ち着いた雰囲気です。すぐ横に金福寺というお寺があり、倉梯柴垣宮のあった場所と考えられています。崇峻天皇の本当の陵は赤坂天王山古墳、藤ノ木古墳など諸説あるそうですが、『日本書紀』には崩御の当日に葬られたことが、『延喜諸陵式』には陵地、陵戸がないことが記されており、謎が多いです。

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<崇峻天皇陵>

15時半、多武峰街道沿いにある「式内 下居神社」の鳥居前に到着。

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<下居神社>

ここから本殿までは約500メートルの距離がありました。下、浅古、倉橋の三地区の境に位置し、旧村社で式内社。ご祭神として彦八井耳命を祀るそうです。この地にゆかりのある崇峻天皇の皇子・蜂子皇子は出羽三山の開祖となり、そこで当社と同名の「下居社」を祀ったのだそうです。はるか遠い出羽三山と大和のつながりを感じることが出来るこちらの神社。境内には「いにしへの 皇子のみ跡 訪ぬれは 出羽三山に 下居大神」の句が刻まれた碑が立っていました。
下居神社をあとにし、聖林寺バス停に到着。さほど待たずに乗車することが出来、16時過ぎに桜井駅に到着しました。
ここで解散。結局一度も傘を使うことなく活動を終えることが出来ました。観音寺のご住職さんの「一番いい時に来られましたね!」のお言葉通り、深まる秋の一日を満喫。少しハードな活動でしたが参加者の皆さん、おつかれさまでした。

写真 小林誠一 文 藤原麻子
posted by 奈良まほろばソムリエ at 23:03| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月04日

記紀万葉サークル11月例会「『日本庭園美』の原点を眺める」

11月12日(土)参加者 9名

尼ヶ辻駅西口から横手に宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵)を眺めつつ西へ、そしてすぐ北へ折れると菅原寺(喜光寺)・菅原天満宮は間近でした。垂仁陵の治定については、奈良時代において何らかの錯誤があったと思うのですが、この距離感を実感すると、土師宿禰たちが遠祖野見宿禰と垂仁天皇の関係を言い立てて、この巨大古墳を天皇陵と認めさせた経緯が素直に想定されるのです。

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菅原寺前にて

復元大極殿・大伴門から東院庭園に向う。2棟だけが威容を誇る光景も異様ですが、上屋部分はどうしても推定による部分が多いと聞きますので、一見立派ではあっても実物大模型の感が免れません。
 
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復元大極殿内部 

今回のテーマ「日本庭園美の原点」を東院庭園と左京三条二坊宮跡庭園に見た訳ですが、少し趣を異にしているようです。東院庭園には、洲浜に汀線を描く斬新な構想を自分達の風景として囲い込み、自分達を中心に置いて悦に入っているようなところがあると思いました。
 
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東院庭園にて
 
左京三条二坊宮跡庭園ですが、観賞主体(復元建物)を西南の隅に退け、中央の延長55mの曲がりくねった池が主人公です。低い板塀は巡っていたようですが、観賞に際して東方の御蓋山をはじめとする春日連山や、東大寺・興福寺などの堂塔が背景として入ることを妨げていません。むしろそれを考慮に入れていたのではないかと思われます。観賞する態度において、かなりの差が有るように思われました。

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当日参加のメンバーたち
 
今回は最高の天気に恵まれたうえ、少人数で引率の伊藤さんのペースもあり、快調に行程を消化してゆきました。新大宮駅での解散は予定より30分程早くなりました。


文:田中昌弘(記紀万葉サークル) 写真:錦織智恵(同)
                         
posted by 奈良まほろばソムリエ at 10:26| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

古事記の里を訪ねて(2016年10月30日)

「ソムリエ大会」の午前中のウォーキング。歴史探訪サークルは“古事記の里を訪ねて”と題し、絶好の秋晴れの下、近鉄筒井駅を出発。

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<筒井駅>

まずは「筒井城」跡を目指し数分歩くと、「本当にここ?」と思うような細い路地の奥に「筒井順慶城跡」の石柱があります。畑の中の道を抜けて筒井城の内郭跡を通り「菅田比売神社」へ、境内には内堀の跡が残ります。

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<筒井城跡>

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<筒井城地図>

少し歩いて「外堀」跡を見学後、東へ向かい、量(はかり)川を越えて、道なき道を進むと「順慶堤」。請堤(うけづつみ)ともいわれ筒井城のある右岸側が左岸に比べ高くなっているのがよくわかります。

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<筒井城外堀>

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<順慶堤>

佐保側に沿って歩き、寿橋を渡ると「番条環濠」集落。複雑な形の環濠の中に古い町並みが残ります。南から北へ集落を抜けて東に進むと「下ツ道」。この道を北へ向かうと、平城京羅城門から朱雀門につながります。

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<番条環濠>

「下ツ道」をしばらく歩くといよいよ「稗田環濠」集落。美しく整備された環濠に囲まれた集落の南東の位置に「古事記」の伝承者とされる稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀る「賣太(めた)神社」が鎮座します。集落の中を北に抜け、反時計回りに、環濠に沿って歩きます。

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<賣太神社>

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<稗田環濠>

ここからは一路「やまと郡山城ホール」へ、でも「金魚の自動販売機」(金魚をうっているのではありません)にちょっと寄り道して、予定どおりに到着。半日の快適な軽いウォーキングでした。

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<金魚自販機>

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<集合写真>
posted by 奈良まほろばソムリエ at 22:44| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする