2016年09月25日

記紀万葉サークル9月例会「鳥屋町から新沢千塚を巡る」

9月10日(土)参加者19名

少し早い目に集合した人にはラッキーなハプニングがありました。橿原神宮前駅東口改札前集合となっていましたが、9時半頃には既に5,6人が集まっていました。この時、駅長さんと助役さんが、改札口から現れ、誰かを出迎える様子です。車から降りてきた人の中に若い女性が二人含まれていて、どこかで見た顔です。そうです、リオ五輪バドミントン女子Wで、金メタルを取った高橋さんと松友さんです。この日は橿原市主催で橿原神宮前駅から橿原神宮まで優勝パレードを行うことになっている日でした。彼女たちは我々の目の前を縫って改札口に向かったのです。思わず拍手をすると、にっこりと笑顔で返されました。思いがけないラッキーなハプニングに恵まれました。

7月9日に実施するはずであった記紀万葉サークルの7月例会「鳥屋町から新沢千塚を巡る」が雨のため中止となり、この日、9月10日に再チャレンジされました。出発前に今回初参加の6人が紹介され、総数19名でスタートしました。

・軽寺跡
橿原市大軽町の軽寺跡をまず尋ねました。現法輪寺と北側の春日神社辺りが軽寺の跡と言われています。現地には橿原市教育会により「応神天皇軽島豊明宮跡」と書かれた碑が建っていた。
・久米寺
聖徳太子の弟、来目皇子が創建したと伝えられる説、聖武天皇の世に活躍した久米仙人が開いたという伝説、久米一族の氏寺であるといわれるなど、多くの由来を持つ寺である。
・益田池堤跡
平安時代、高さ8m、幅30m、長さ200mの堤防を築き、高取川を堰き止めて、巨大な灌漑用の池が建築されたのが益田池である。その規模は橿原ニュータウン全域に相当し、貯水量は160万トン程であったとされる。その堤の一部分が残っている。橿原市の遺跡に指定されてはいるが、頂に登る道も見分けがつかないほど、夏草がぼうぼうと生えていた。藪蚊に悩まされながら、ここで昼食をとる。
この堤の北側あたりの地名が、橿原市西池尻町である。池尻という地名から、そこまで益田池が広がっていたようだ。

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<益田池堤跡にて昼食>

・鳥坂神社、宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)、倭彦命墓(桝山古墳)
食後の行動は築坂邑と記された標識を見ながら鳥坂神社、宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)、倭彦命墓(桝山古墳)を順に巡り、本日のメインの新沢千塚古墳群を目指す。

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<鳥屋町を歩くメンバー達>

・新沢千塚古墳群
橿原市南部の貝吹山の北西山麓に存在する約600基からなる古墳群をさすが、一般的には北西端に密集する350基程の古墳群が知られている。今回は北西部の一部分を歩く。30°Cを超える炎天下を歩いたことで、皆疲れ気味である。
代表的な126号墳をまず尋ねる。説明版には出土品が掲示されていた。それによると、耳飾り、指輪、盆、ガラスの椀・皿などともに非常に珍しいものとして熨斗(のし)(火を使うアイロン)などがあった。これらの出土品はすべて東京の国立博物館に展示されている。

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<新沢千塚126号墳にて>

この出土品から被葬者の集団は、渡来系氏族と有力視されていたが、他の古墳からは、甲冑、武器、武具、馬具などが出土しているので、強大な武力集団の古墳とも考えられる。また、それらが共存していたのかもしれない。
・橿原市博物館
暑さに疲れた体には、冷房の効いた建物に入れただけで、ほっとした。
学芸員が丁寧に橿原市付近の歴史を説明して下さったがあまり記憶にない。せっかく新沢千塚古墳群の真っただ中にある博物館だからもう少しこの古墳群に関連した展示があっても良いと思う。

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<126号墳出土品(複製)を見る>

帰りは橿原神宮前駅までバスを利用して帰る。歩いた距離は今回が最短であたかもしれないが、暑さに疲れた。我が橿原市を訪ねていただき、有難うございました。

文:前防道徳(記紀万葉サークル) 写真:田中昌弘(同)
 


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2016年07月09日

安産寺の子安地蔵菩薩を訪ねて

7月2日(土)9時40分集合で、三重県と奈良県の県境に近い三本松駅に降り立った。
山あいに佇む駅の前は宇陀川が流れ、宇陀の趣を醸し出している。梅雨というのに、まぶしいほどの太陽が参加者19名を迎えてくれた。

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(三本松駅)

三本松の地名は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼が行脚のおり、この地に植えたと伝わる大樹に因んでいる。

最初に、本日の目玉である安産寺へ向かう。
三本松駅から程なくして、安産寺に到着。子安地蔵菩薩とよばれる平安時代の一木造りの地蔵菩薩立像(国重文)が安置されていることで有名である。とはいえ、一人では、なかなかに訪ね難いところである。今日は、史跡等探訪サークル世話役のご尽力で、地元の安産寺保存会の人々に寺院を案内していただいた。

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(安産寺でのお話)

ここの子安地蔵菩薩は、その昔、豪雨で宇陀川が増水したとき、上流より流されてこの地に流れ着いたと伝わる。また、室生寺金堂の本尊・釈迦如来立像の様式と極めて似ている点や、金堂の地蔵菩薩像に不釣り合いの板光背が、ここの子安地蔵菩薩とぴったり一致すること等から、近世に室生寺金堂から移安されたとも伝わる。今日の最後は、室生寺で金堂の仏さま方にお目にかかることとなっており、その時に、地蔵菩薩像の光背をしっかりと拝見してみたい。

次に長命寺・琴引峠へ向かう。
ここも訪ねてみたかったところである。琴引峠の名は、源義経や北条時頼の伝承に由来する。この琴引峠は、伊賀から大和に入って越える最初の峠であり、本居宣長や松尾芭蕉もここを通ったことでも有名である。しかし、近鉄の線路を通すために峠が削られ、残念ではあるが、往時を偲ぶのはかなり困難な状況である。

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(長命寺)

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(琴引峠跡碑)

続いて海神社。ここに安産寺の子安地蔵菩薩が流れついたと伝わる。ご祭神は豊玉姫命。海のない奈良に海神社は四社あり、その中の一社である。本殿から正面の鳥居越しに宇陀川、伊勢街道、鎌倉山、それに安産寺も望める。

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(海神社)

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(海神社付近から鎌倉山)

海神社から滝谷花しょうぶ園の横を通り、さらに進むと「大師の道」に突き当たる。「大師の道」は、三本松から山越えで室生寺へ向かう古道で、なかなかに趣のある名前である。ちょっと楽しみ。

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(花しょうぶ園への道のアジサイ)

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(大師の道の入口)

しかし、甘かった。(笑)この暑さ。室生寺に着く頃には、少々、疲れた。
道中、なかなかの見所もあり、時候の良い頃にもう一度歩いてみたいコースである。

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(大師の道)

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(峠の茶屋跡)

最後は、室生寺。
なにはともあれ、金堂の仏さま方を、拝観。確かに、お地蔵さんの光背は、不釣り合いに大きい。安産寺の子安地蔵様がぴったり。安産寺で見せてもらった合成写真に納得である。

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(室生寺金堂)

帰りは、室生寺から室生口大野駅までバス。

暑かったけど、普段、訪ね難いコースで大変有意義な例会でした。世話役の皆さん、ありがとうございました。

写真 小林誠一  文 秋山博隆
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2016年06月09日

百万本のツツジが見頃を迎える大和葛城山を訪ねて

5月21日、史跡等探訪サークルの今回の活動は大和葛城山登山。
9時過ぎ、近鉄御所駅に参加者11名が集合しました。

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【加藤さんの指導で準備体操】

御所駅からバスでロープウェイ葛城登山口駅前に到着。準備運動をしっかりとし、9時50分に登山開始。約3kmの「櫛羅(くじら)の滝コース」を行きます。

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【櫛羅の滝】

10分ほどで櫛羅の滝に到着。説明板によると弘法大師が天竺のクジラの滝に似ているために供尸羅(くじら)と名付けましたが、「供尸」は「供に屍」と書くため良くないと、その時の領主が「櫛」の字に改めたといいます。

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【石畳の登山道】

そこからは長い登り、約30分に1回休憩を取りながらのペースで進んで行きます。特に前半の急な階段が続くところはきつく、かなり体力を消耗しました。登山の本やテレビでよく目にするように、なるべく小股でゆっくりと登ることを心がけました。

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【落石で崩れた歩道】

この櫛羅の滝コースはよく整備され道標や目標位置の番号表示も完備していますが、過去何度か台風による崩落で通行止めになった事があるようで、途中その爪痕をいくつか目にしました。
コースも半分を過ぎると、体が慣れたのか少し楽になってきました。
「大阪開通講」という岩場を過ぎると、登りも終盤です。
11時50分、広い舗装路に出ました。山頂まではもう少しあるようですが、とりあえず登りの一区切り。そこからすぐの所に「葛城天神社」が鎮座していました。

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【葛城天神社】

ご祭神は国常立命。この境内は「天神の森」と呼ばれてきたそうです。天つ神を祀る天神社は県内他にも数カ所あるようで、例えば耳成山にも昔天神社があり、天神山と称されていた時があったそうです。
また、この葛城天神社は加茂(鴨)氏の祖・加茂建角身命の神跡と伝わることから「鴨山」とも呼ばれてきたそうです。
神社から歩いてすぐロープウェイの葛城山上駅に到着。登山口駅から約2時間かけてここまで登って来ましたが、ロープウェイを使用すればたったの6分で着いてしまうそうです。

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【展望台から奈良盆地を望む】

駅舎の上が展望台になっており、上がってみると大和三山や吉野の山々をのぞむことが出来ました。
そこから舗装路の坂道を登っていくと食堂などが現れ、観光地らしい雰囲気になっていきます。展望の良いベンチで昼食休憩となりました。

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【山頂】

昼食後少しだけ登り、12時50分、ついに葛城山頂に到着です。標高959.7m。こちらで集合写真を撮りました。山頂は高原のように広くなだらかでした。

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【ツツジ(当日の写真)】

山頂南斜面に有名なツツジ園が広がっていました。今年は花期が早かったようで見頃は残念ながら終わっていましたが、「一目百万本」と言われる壮大な光景は圧巻でした。これらは全て自生するヤマツツジだということです。

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【ツツジ(最盛期の写真 2012年5月13日)】

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【金剛山】

お隣には金剛山の雄姿。古くは葛城山・金剛山を総称して「葛城山」と呼んだそうです。

下山すべく舗装路の道を降りていくと右手に「婿洗いの池」への表示がありました。この池には行きませんでしたが何とも珍しい名前です。昔、村人たちが雨を降らせるため竜神を怒らせようと、竜神の祠を壊して池に投げ込み、新しく村に来た婿養子も一緒に投げ込んで荒縄でごしごし洗い、半死半生の目に遭わせたという不思議な伝説があるそうです。

13時20分、下山開始です。「自然研究路」から「北尾根コース」を通ってもとのロープウェイ葛城登山口駅に戻るコース。
自然研究路はその名のとおり葛城山の自然に関する説明板がところどころに現れます。基本的に歩きやすい道で、「カタクリの花」群生地もあるようでした。
4月頃に薄紫の美しい花を咲かせるそうです。
その後の北尾根コースは急な下り坂が続きます。道は乾いているものの大変滑りやすく、大きな段差も何か所かあり慎重に降りて行きました。
そして15時、登山口駅に全員怪我もなく無事に戻ってくることが出来ました。

登山後はいつもそうですが、登り下りの苦しかったことは忘れて大きな達成感と爽快感だけが残ります。これまで県内各地のいろいろな地点から「あれが葛城山だ」と眺め、憧れていた山に登る事が出来た喜びは大きいものでした。当サークルの普段のウォーキング活動に比べると随分ハードでしたが、時にはこういう登山活動も良いものだと思いました。
下見と当日のお世話をしてくださった大村さん、小林(誠一)さん、豊田さん、ありがとうございました。そして加藤さん、最初から最後までの先導役、本当におつかれさまでした。

写真 小林誠一  文 藤原麻子
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2016年05月24日

記紀万葉サークル5月例会「大和高原の夜明け」

5月14日(土)参加者26名

行程: 氷室神社・氷室旧跡・復原氷室 〜 針テラス(昼食休憩) 〜 都祁水分神社 〜 来迎寺 〜 三陵墓古墳 〜 葛神社 〜 毛原廃寺跡  
マイクロバスを使用して、大和高原の主要な史跡を1日でまわる内容の濃い勉強会となりました。

福住町の氷室神社周囲の山には数カ所の氷室群が知られています。水はけのよい尾根の先端に3基1セットとして残る室山の氷室跡は深さも十分で分り易いものでした。仁徳紀の記述は仮託としても、長屋王家木簡に見るように飛鳥〜奈良時代には朝廷(主水司)との関わりにおいて稼働していたものと思われます。

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<室山の氷室跡>

都祁水分神社辺りは大和川水系・木津川水系が源を発する所です。木津川には布目川・笠間川(→名張川)を経て合流します。水分神社境内には、聖武天皇の伊勢行幸における堀越頓宮伝承地や万葉集に詠われた(長田王)山辺御井の伝承地があり、

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<山辺御井伝承地にて>

この辺りが霊亀元年(715)に開かれた「都祁山道」の中継点であった可能性があります。水分神社が10世紀初めに旧社地から当地に遷坐した背景とも考えられます。平安時代には、斎王の帰路に際して都介頓宮が設置されています。瑞垣に囲まれた重文の本殿前に安置された、小さいながら迫力満点の狛犬一対は鎌倉期のものです。

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<鎌倉期の狛犬一対>

小治田安萬侶墓は日当たりのよい南斜面にあります。墓誌にある「右京三條二坊」は現在の大宮通りと秋篠川が交わる辺り、本照寺の北側に当ります。宮に近い好い所に居宅を構えていたわけです。

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<小治田安萬侶墓にて>

来迎寺は現地では無住状態で、近くの檀家さんが管理しておられます。前もって開扉をお願いし、本尊阿弥陀如来坐像(平安後期)・重文の善導大師坐像(鎌倉初期)を拝観することが出来ました。昨年改修された本堂でしたが、古材を巧みに利用した立派なお堂でした。桜井市の瀧川寺社建築が手掛けたそうです。平安時代以降、清和源氏の流れを汲む大和多田一族(宇陀市室生区多田に居住)の菩提寺となっており、境内には2.6mの重文の宝塔や多くの五輪塔が残されています。大和における多様性の一端を垣間見ました。

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<来迎寺門前>

都祁水分神社〜小治田安萬侶墓〜来迎寺〜三陵墓の間はマイクロバスの通行に問題があり、徒歩行程としました。うららかな日差しとそよ風の中、3km程のあいだ都祁野の風景を楽しみました。

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<都祁南之庄辺りを歩く>

都祁野にも幾らかの古墳がありますが、三陵墓はその規模において図抜けています。全長110mの三陵墓東古墳は大和高原・宇陀山地を通じて最大の前方後円墳(5世紀)です。古墳公園として整備された広大な一画では、朝廷の委嘱を受けて長くこの地域を統治した都祁直一族の威勢が甦えり辺りを圧する感がありました。

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<三陵墓東古墳後円部へ>

最終目的地、毛原廃寺跡へは笠間川沿いに30分近くを要します。もう2〜3km先が名張川への合流地点で、まさに僻地まで来た感じです。このような所に突如巨大な礎石群が出現します。記録には全く現れない謎の寺院跡です。鄙びた周囲の情景と礎石群の圧倒的な存在感のコントラストがたまりません。奈良時代のこの辺りは、東大寺要録や東大寺文書に見える笠間庄や板蝿杣(天平勝宝7年、用材確保のため東大寺に施入された)といった東大寺の荘園の中心的位置にあったと思います。寺院は、それら荘園の管理センターのような役割を果たしていたのではないかと考えます。

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<毛原廃寺金堂跡にて>

行程の終りに当り、この辺りが「都祁山道」の出口に相当するように思えてきたものです。この日のFWの成果としたいと思います。東へ下るともう夏見廃寺のある名張です。青山越えをすれば伊勢に至る最短のコースを辿ることになります。

            
(文・写真)記紀万葉サークル 田中昌弘

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2016年03月29日

記紀万葉サークル3月例会「飛鳥の石造物と失われた寺院の記憶をたどる」

3月12日(土) 参加者19名

(コース) 
伝飛鳥板葺宮跡 〜 酒船石遺跡(酒船石・亀形石造物など) 〜 飛鳥資料館(昼食) 〜 山田寺跡 〜 安倍寺跡 〜 青木廃寺跡 〜 稚桜神社 〜 
東池尻遺跡 〜 吉備池廃寺跡 〜 春日神社(桜井市戒重)  
                                      
当日は橿原神宮駅東口に9時20分に集合し、飛鳥をめぐるバスに乗車しました。スタートは、伝飛鳥板葺宮跡からでした。案内役は2月例会でレクチャーされた地元安倍小学校出身の沖田拓司さんで、天候にも恵まれ申し分のない一日になりました。
石造物にも宗教的な背景や土木工事にかけたエネルギーなど、古代に思いを馳せたりしました。

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(亀形石造物の説明を聴く)

飛鳥資料館は現地をめぐるのにとてもわかりやすい展示で、行く度に感心しますが、今回は昼食後に庭園を案内してもらい、レプリカの猿石の裏面にも注目しました。
資料館で山田寺回廊が再現されていたのを見た後だったので、次に行った山田寺跡が感動的でした。岡山からの参加者も含め、総勢4名の女性陣は、ここのロケーションが奈良で一番素敵かもしれないとうるうるしました。

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(飛鳥資料館の庭で)

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(山田寺跡で)

今回とても期待していた青木廃寺跡はなかなか個人では行けない所で、高市皇子や長屋王といった歴史上の人物を思い描くのにぴったりの清浄な地でした。
吉備池廃寺跡から桜井市戒重の春日神社まで足をのばしました。最後は沖田さんによる懐風藻(大津皇子の詩)の朗読で締めくくりとなりました。解散は、桜井駅でした。
たっぷり歩いて学んだ贅沢な飛鳥探訪でした。企画・案内、本当にありがとうございました。

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(青木廃寺跡で古瓦を採取するメンバー達)

(文)記紀万葉サークル 中瀬道美 (写真)同 田中昌弘



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