2015年12月14日

「竹内街道を往く」感想記

12/6(日)実施・・・参加者18名

コース : 近鉄上の太子駅→叡福寺(聖徳太子御廟)→用明天皇陵→孝徳天皇陵→ →竹内街道歴史資料館→竹内街道→ろくわたりの道→ →鹿谷寺跡→竹内街道竹内峠→綿弓塚→長尾神社 →近鉄磐城駅で解散

またも雨かという心配しましたが、本日は曇り空。ウォークには最適な環境です。近鉄上ノ太子駅から竹内街道沿いに「竹内街道」の幟が至る所に立ち、随所に案内標示が設置されている。太子町のマンホールには「和を以って貴しと為す」が刻まれている。竹内街道は「日本書記」の推古天皇21年(613年)に「難波より京に至る大道を置く」と記録され、日本最古の官道と言われている。2013年には1400周年を迎えた。

最初に叡福寺・聖徳太子御廟に行く。聖徳太子御廟は径50mの円墳、内部は切石造りの横穴式石室で奥に太子の母穴穂部間人皇后の石棺、手前に太子と太子妃膳郎女の夾紵棺が安置され「三骨一廟」と言うらしい。

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[聖徳太子御廟]

次に用明天皇陵(一辺100mの方墳)を見て、孝徳天皇陵に至る。「うぐいすの陵」と枕草子で紹介されているが、正面までは立ち入れず。孝徳陵に入る街道沿いに「大道旧山本家住宅」がある。入館は11月末までで外からのみの見学となるが、堂々とした「大和棟」の民家である。

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[竹内街道を往く]

太子町立竹内街道歴史資料館では、副館長による、難波宮から大和に至る難波大道→丹比道・竹内街道→横大路に纏わる館内展示の説明を受ける。また、「ろくわたりみち」はけものみちでお勧めできないとのことであった。それで思い出した。澤田瞳子さんの小説「日輪の賦」は、紀伊の国牟婁の評督阿古志連廣手が藤原京に大舎人として出仕するために竹内峠と越え、けものみちを急いだが、盗賊に襲われるところから物語がはじまる。

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[参加のメンバー〜竹内街道歴史資料館]

竹内街道から万葉の森に入り、やや急な坂道を息を荒げながら登ると、鹿谷寺跡にたどり着く。奈良時代の石窟寺院跡で地山を彫り残して作り出した十三重石塔と、やや判りにくいが如来坐像三体を線彫りにした石窟が残る。それから、もう一息、急な坂道を登りきると「展望台」がある。大阪平野、アベノハルカスまで眺望できる。また木々が黄色く色づき爽快気分になる。二上山の紅葉も眼にやさしい。

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[鹿谷寺跡〜十三石塔]

いよいよ竹内峠越え。国道166号線の脇に「従是東奈良縣管轄」の石柱とともに、鶯の関跡の文学碑
 我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関  康資王母作(司馬遼太郎揮亳)
眼下には、もう畝傍山もみえてくる。古代人は国のまほろばを感じつつ、藤原京の威容に感動し、国の未来に希望を重ねて坂を下って行ったのであろう。竹内の家並みは、旧街道の佇まいを感じさせる。

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[竹内街道の県境の道標]

芭蕉ゆかりの「綿弓塚」の休憩所で小休止。投句用紙が備え付けてあり、一句捻るメンバーも・・・
*綿弓:繰り綿をはじき打って打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦として古くは牛の筋、のちには鯨の筋を張ったもので、弦を弾いて綿を打つ。また、司馬遼太郎さんの母親の実家(河村家)が近くの街道沿いにある。{街道をゆく}メンバーも司馬さんの話で盛り上がる。

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[芭蕉ゆかりの綿弓塚]

最後の目的地長尾神社は竹内街道・長尾街道から大道「横大路」に連なる西側の入り口で古代主要街道の起点に鎮座することから、交通安全・旅行安全の神社として信仰されている。参拝中、若い夫婦が赤ちゃんを抱いてお宮参り。「絵馬殿」ではたくさんの絵馬が奉納されており、地元の信仰心の厚さが感じられる。長尾神社の鳥居前、予定時刻午後3時30分、参加者全員無事帰着。

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[長尾神社]


文:歴史探訪G 史跡等探訪サークル 松浦忠利   写真:同 小林俊夫


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2015年11月24日

記紀万葉サークル11月例会「知られざる北山辺の道」

11月14日(土)参加者23名

天気予報は最悪でしたが、集合時には雨の気配は無く先ずは幸せな気分でスタートして行きました。行程の序盤1/3は、「東大寺山堺四至図」に関連したFWでした。
新公会堂(奈良春日野国際フォーラム甍)を出て東に上った所、水谷橋手前吉城川西岸に一段低くなった場所があります。「山堺四至図」に氷池と表記されている場所が此処です。氷池の表記を見た関野貞は、「氷室および神殿、恐らくはその近傍にありしなるべし」と述べています(平城京及大内裏考)。その氷室の跡が平成20年6月に見つかりました。水谷神社東南60m程の立入禁止区域内です。ロープを跨いで入山します。遺構は、直径8〜10m深さ1m前後の3基1セットです。本来3m以上の深さがあったと思われます。12世紀、若宮の神主が日記の中でこの氷室に触れた記録があります。

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(氷室の跡)

正規の道に戻り、二の鳥居下に出ます。少し北に寄った所が「山堺四至図」に神地と表記される場所です。関野貞の言う神殿が在ったのでしょうか。参道を西に下り、鹿苑の西側を南に入り込んで行くと御料園古墳群が現れます。竪穴構造の小円墳が14基、名残を止めています。6世紀末位の築造で、和珥系春日氏の墓域の1つに間違いないでしょう。この古墳群についての記載は「山堺四至図」にはありません。

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(御料園古墳群を探索する)

「山堺四至図」所載の山階寺東松林廿七町(興福寺東張出し部)について、12世紀成立の「興福寺流記(宝字記云として)」には『東野廿七町、東至氷室西垣』とあり、古墳群の西方50m辺りを南北に画する氷室関係施設の垣が巡っていたのでしょう。
更に春日野の森では、8世紀の築地塀遺構が発見されています。氷室西垣の内側を巡っており、神地および付帯設備を囲っていたと思われますが、囲われた範囲がかなり南まで広がっているので、まだ謎が残ります。その築地塀遺構の南の部分を探索に行きました。高さ40〜50cm、幅150cm程の、崩れた版築の遺構が直線的に数10mに渡って続き、所々方々に布目瓦の破片が見られます。参加の皆さんも記念に1枚ずつ採取してゆかれたようです。

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(築地塀の遺構で瓦を採取)

行程の中盤1/3は、古市地区です。ワニ族時代の前期古墳を含む古市古墳群を過ぎると、旧古市村からの墓地があります。ここに平城京研究の先駆者北浦定政の墓所があります。苔むした墓碑には、「北浦義助藤原定政」とありました。参加者の皆さん、一様に感慨に浸ったのではないでしょうか。因みに墓地の一画、30基ばかりは北浦家類代の墓となっています。
 

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(参加者に囲まれた北浦定政墓)

墓地を出て、旧道を南に進むと定政が勤務した藤堂蕃古市奉行所跡もあります。やがて視界が開け、東に丘陵(現東市小学校とその南の丘)を望むのですが、ここに16世紀の梟雄古市氏の本城がありました。伝わっている絵図によると、2重の堀に囲まれた本格的な城郭で東南の奥には4層の天守が見えます。多聞城より3年早く築かれたそうですが、天正7年(1579)筒井順慶のために落城してしまいました。

終盤の1/3は藤原・山地区で、嶋田神社・崇道天皇陵以外これと言った見どころは在りません。崇道天皇陵は、北浦定政の探索によって治定を受けた経緯があるようで、早良親王が淡路から移葬された場所であるかは疑問視する向きもあるようです。崇道天皇陵に到着した頃から突如激しい雨に見舞われ、予定していた集合写真を撮ることも出来ず、ほうほうの体で帰途につきました。従って、今回は集合写真をお見せすることは出来ません。

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(護国神社で昼食休憩を取る)


(文)・(写真)記紀万葉サークル 田中昌弘


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2015年11月08日

「隠れた名刹の海住山寺・聖武天皇恭仁宮跡を訪ねて」感想記

11/3(祝日)実施・・・参加者15名

コース・・・JR加茂駅→御霊神社・燈明寺→岡田鴨神社→海住山寺→木津川市文化財整理保管センター恭仁分室(恭仁京のビデオ鑑賞)→恭仁宮(山城国分寺)跡→JR加茂駅

昨年は、大雨のため、あえなく中止、今年は、そのリベンジ。幸いにも晴天の秋晴れとなりました。
秋の特別開扉に合わせての例会。  加藤さんの号令に合わせて、ウォーキング前のストレッチ。総行程は約9qです。

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[ウォーキング前のストレッチ]

まず、燈明寺を訪れる。旧燈明寺は寺伝によると聖武天皇の勅願により行基が開創したとされ、建武年間の争乱で廃絶した。その後天台宗の忍禅が復興。近代に豪商が買収し、本堂と三重塔は横浜市の三渓園に移築され現存する。燈明寺は御霊神社境内の一角にあり、その御霊神社は燈明寺の鎮守社として奈良氷室神社の社殿を移したと伝えられる。祭神に火雷神[ほのいかづちのかみ]として菅原道真が祀られている。

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[旧燈明寺の仏さまの収蔵庫]

通常非公開の収蔵庫の「千手観音立像」「十一面観音立像」「不空羂索観音立像」「聖観音立像」「馬頭観音立像」(いずれも鎌倉時代の後期)も拝観することができました。地元ボランティアの方々の文化財を守る姿勢には、頭が下がる思いです。その後、現行寺十一面観音坐像を拝観に行くが、あえなく収蔵庫の改修で残念。(この寺は、無住で、海住山寺が管理とのこと。またの機会に拝観したいものである。) 次に祭神を賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とする岡田鴨神社に行く。「山代風土記」逸文によると、賀茂建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神武東遷の際に、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が即ち賀茂建角身命の化身で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、賀茂建角身命は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田の鴨に移られ、その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御世と伝える。岡田の由来は、かつて賀茂村と恭仁京のあった瓶原(みかのはら)村を岡田と称したらしい。

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[岡田鴨神社(右)・天満宮(左)]

続いて、急な車道をハアハアしながら、やっと海住山寺の山門にたどりつく。『みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ』の小倉百人一首第27番 中納言兼輔の歌で知られる瓶原を一望におさめる地に建つ海住山寺。創建は天平年間と伝わり、解脱上人貞慶により中興される。通常非公開の国宝五重塔(初層)内部、本坊庭園、文殊堂内部を拝観させていただいた。

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[海住山寺五重塔前での参加メンバー]
 
恭仁の宮をみおろした海住山寺をくだって、聖武天皇恭仁宮跡をめざす。木津川市文化財保管センター恭仁分室で約15分のビデオ鑑賞。(このセンターは地元ボランティアの方々で維持管理をされているとのこと。)この後、740年、聖武天皇により平城京から遷都された恭仁京。恭仁宮跡が立地する瓶原地区は、京都府最南端に位置する木津川市加茂町にある。第一次平城宮の大極殿を移築した恭仁宮大極殿跡、後に山城国分寺となって建造された塔跡を訪ねた。加藤宣男さんから「国分寺塔の礎石に見る凹型と凸型の違い」の詳細な説明を受けました。(よくわかりました!)

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[礎石の説明する加藤さんと参加メンバー]

頻発する反乱や疫病の蔓延する社会不安のなかで聖武天皇5年間の彷徨はなぜなのだろうか? 741年に恭仁京遷都、742年に紫香楽宮行幸、743年大仏建立の詔、恭仁京へ還幸。744年難波宮へ、745年に紫香楽宮遷都そして恭仁京還幸と平城京へ還都。皇族と藤原氏の頂点に君臨する二つの血筋を継ぐ聖武天皇は、常に両者のはざまで揺れうごいたのであろうか。
天武朝の祖で強い意志と実行力をもった曽祖父の政権獲得ルートをたどることで天皇としての自分を取り戻そうとしたのかもしれない。などと思いながら、恭仁宮跡からJR加茂駅まで帰ってきました。リベンジ! こんなにも素晴らしい1日でした。

文と写真:歴史探訪G 史跡等探訪サークル 小林俊夫

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2015年09月29日

笠置寺と柳生の里探訪

当初4月の桜のシーズンに予定していましたが、雨で中止になり9月13日(日)にリベンジ決行しました。

加茂から2両編成のディーゼルカーに乗り換えて一駅、笠置駅を10時にスタート、まずは本日最大の難所、笠置寺への標高差200mの登りです。息を切らしながらも無事に笠置寺の山門にたどり着きました。

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<笠置寺の山門>

実忠が東大寺の前に「お水取り」を行ったといわれる「正月堂」と本尊の磨崖仏のいわれなどのお話を住職に伺った後、修行場めぐりへ。

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<本尊の磨崖仏>

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<虚空蔵菩薩>

なぜこんなところに、こんな巨大な岩が!!!と驚き、岩と岩の隙間くぐって一周します。途中の岩の上から見下ろす木津川の風景は絶景。

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<大きな岩と岩の隙間>

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<笠置寺から望む木津川>

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<木津川にかかる笠置大橋>

笠置寺を後に、柳生に向かいます。途中、阿対(あたや)の石仏や落雷で枯れてしまった十兵衛杉を見て旧柳生藩陣屋跡で昼食。

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<阿対の石仏>

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<十兵衛杉>

休憩後、天石立神社へ、ご神体の巨石や・柳生宗厳が一刀両断したといわれる一刀石に圧倒されます。

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<天岩立神社のご神体>

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<一刀石前で記念撮影>

そこから、正長元年の徳政文が刻まれた疱瘡(ほうそう)地蔵を経て、柳生の町に。
バスの時間まで十兵衛茶屋で休憩、元気を取り戻し、奈良へ戻りました。

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<正長元年の徳政文が刻まれた疱瘡地蔵>

それにしても、巨石!巨石!巨石!の連続、巨石の持つパワーを存分にいただいた一日でした。


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2015年09月19日

記紀万葉サークル9月例会「王寺町とその周辺を巡る」感想

9月12日(土)参加者17名

今回は、JR三郷駅に集合、日置さんにご案内いただいて、三郷町、王寺町を17名のメンバーで巡ります。天高く馬肥ゆる秋にはまだ早いですが、抜けるような好天に恵まれスタートです。
本日のコースは、岩瀬の森、神奈備神社、龍田大社、松永弾正顕彰碑、多聞地蔵、(ここまで三郷町)久度神社、孝霊天皇片丘馬坂陵、親殿神社、芦田池、達磨寺、放光寺(片岡王寺)・片岡神社(ここまで王寺町)と巡り、JR王寺駅で解散です。

三郷町といえば、龍田大社ですが、その前に岩瀬の森、神奈備神社。かなり古い本ですが、長田光男先生編『奈良点描』(2)に「竜田の神奈備」として紹介されています。
神奈備の磐瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそわが恋増さる (万葉集八−一四一九)
鏡王女の作。はて、神奈備、磐瀬の杜はどこをさすのでしょうか。『奈良点描』には、三郷町の龍田大社の地域一体と考えたいと記されています。なお、斑鳩町竜田にも同じ地名や伝承地があります。さてどちらが本当か。今となっては知るすべもありません。

龍田大社。斑鳩町の龍田神社と混合されやすく、こちらを龍田本宮、斑鳩の社を龍田新宮とも呼びます。祭神は天御柱命(志那都比古)・国御柱命(志那都比売)の二神。天武天皇四年(675年)4月、天皇がこの地に風神を、広瀬に水の神をまつったのが初めとされます。ともに五穀豊穣を祈ってまつられた神々です。毎年7月第一日曜に行われる「風鎮大祭」、日置さん推奨の必見のお祭り。ぜひ一度お越しあれとのこと。

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(龍田大社にて)

大和川を渡り到着したのが久度神社。今日は、辰馬さんのご紹介で宮司さんのお話にお茶、お菓子の御接待までいただきました。

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(多聞橋を渡る)

ほっと一息、ありがたい。久度神社は大和川の自然堤防の上に祀られた神でもともとは竈の神とされます。神社由緒略記によると、『続日本記』に第五十代桓武天皇の延暦二年(783年)に官社に列せられ従五位下の神位を賜わったとあり、その後、都が奈良から京都に移される際に久度の神はじめその他二、三の神とともに京都の平野神社に遷されたとのこと。落ち着いた佇まいの古社で、一度は訪れられることをお勧めします。

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(宮司さんの講話を聴く)

達磨寺。飢人伝説でよく知られたお寺ですが、最近は、むしろ、ゆるキャラグランプリで11位に輝いた雪丸くんの墓所のあるところとして知られているかもしれません。古くからの達磨寺ファンには、喜んでいいのやら少々複雑な思いかもしれませんね。それはともあれ、今日は、王寺町観光ボランティアの方に熱心な解説をいただきました。本堂は昨年の夏から、土・日と開かれるようになったとのことで、本尊の達磨大師坐像を拝見することが出来ます。この達磨大師坐像(重文)は、室町時代、椿井仏師・集慶の作。他に、本堂には聖徳太子坐像(重文)、千手観音菩薩坐像。境内には、本堂の下の古墳ほか3基の古墳、松永久秀の墓等々、見どころも多いお寺です。王寺町随一の観光どころでしょう。

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(雪丸くんの像の前で)

雪丸ロードを通り、葛下川を渡り、王寺駅で解散です。王寺駅中央出口にも、大きな雪丸くんが乗降客を送り迎えしてくれています。今日は、大和川をはさむ三郷、王寺の両町を巡りましたが、永い歴史と新しい町おこしを感じながらの楽しい一日でした。

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(達磨寺にて)

(文)記紀万葉サークル 秋山博隆 (写真)同 田中昌弘

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