2017年03月05日

保存継承グループ 菅原天満宮「おんだ祭り」見学記

2月25日午後2時から、盆梅展真っ最中の菅原天満宮(奈良市菅原町)にて、「おんだ祭り」の奉納。本殿斜め前の一角に設けられた結界内の模擬田で、農作業の模倣が演じられた。

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おんだ祭り(御田植祭)とは、農作業が始まる春先に、豊作を予め祝うという祭礼。牛役や田主役が登場して砂の田んぼを耕したり、松葉で作った模造の苗で田植えをしたり、模擬的な農作業を各神社が趣向を凝らして演じている。
菅原天満宮の伝承では、確証はないが、奈良時代から菅原地区の氏神として豊作祈願をしていたという。「おんだ祭り」として形式が確立されたのは明治時代からだろうとのこと。第二次世界大戦中と戦後しばらくは中断していたのだが、昭和50年から再興され今に続く。古老によると「戦前も今の形式だった」という。
同神社のおんだ祭りは、ポピュラーな形式ながら、芸達者(?)な田主役と、子供の牛役との駆け引きが参拝者を大いに笑わせる、ほのぼのとした祭礼である。

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神官による神様への祝詞のあと、田主役が結界内に入り、奏上を述べる。

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以下、田主が模擬的な農作業を演じていく。
まずは鍬による田おこしから始まる。

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次に田主と牛が登場すると、小学生が扮した牛が暴れだし、田主は振り回されながら模擬田を一周。すると参拝者から「おひねり」(中は小豆らしい)がたくさん投げ入れられ、大いに盛り上がる。牛役が子供というのは珍しいとか。可愛い暴れ牛である。

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一連の農作業が続く中、今では見かけなくなった「肥桶」を担いで田主が登場。汚い肥が手につかぬよう、コミカルなしぐさを交えながら田に肥料をまいていく。なかなか芸が細かく参拝者の笑いを誘う。

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準備が終わった苗代に籾を蒔く(参拝者にもまかれる)。
そのあと、苗が成長してきたのだろうか、雑草を抜く所作も。

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最後は四方に向かって五穀豊穣を祈願。
現在の機械化された米作りではほとんど見られなくなった苗代作りの作業が昔のままの状態で再現された。

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松などの端を藁で縛った模造の苗で、田植えの所作を行う神社が多いが、同神社では田植えをせずに参拝者に配られた。

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約1時間に及ぶ御田植神事を一人で演じた田主さん。お疲れ様でした!

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菅原天満宮は、天穂日命、野見宿禰、菅原道真をご祭神とする、延喜式内社。社伝によると、菅家発祥、道真生誕の地で、最古の天満宮と伝わる。
大和朝廷時代から平城宮近くにあった菅原村が、都ができるというので西大寺の南の方(現菅原町)に集落ごと移転させられた。この菅原の地に住んでいたのが土師氏で、佐紀盾列古墳群の古墳築造や土器作りをし、王家の葬儀に関わっていた。
しかしながら「土師」という名は、葬儀や凶事と関係していたため、イメージが悪いということで、土師古人や道長という当時の土師一族が、地名をとって「菅原」姓に改めたいと朝廷に願い出、781年に承諾された。この古人が、道真公の曽祖父なのだ。
さらに先祖を遡ると、力持ちの當麻蹴速を打ち負かした勇者・野見宿禰がいる。埴輪を最初に考案したとも伝えられる人物だが、王家の陵墓築造を司る「土師部」という豪族である。

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さて、菅原道真が産湯に使ったと伝えられる池が、菅原神社から北東100mほどのところにある。道真の母が京都からこの菅原の地に里帰りをして出産した菅原院の跡地で、「天神堀・御誕生池」として整備保存されている。
「おんだ祭り」で頂いた松苗を片手に、道真公の伝承地に立ち寄り、西大寺までの帰路を楽しんだ。

写真・文  小倉つき子(保存継承グループ)
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2017年02月12日

女性グループ(ソムリエンヌ)活動報告「早春の生駒高山の里」

節分を過ぎたころ、茶筌の里で有名な高山地区を訪れた。学研北生駒駅から富雄川に沿って北に行き高山大橋を過ぎて少し行くと、右手に高山竹林園がある。

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【ソムリエンヌ集合】

付近の刈り取られた田んぼの中に、数十本ずつ直径4,5センチ、長さ130センチ余りに揃えられた竹干しがあちらこちらに見て取れた。淡竹と呼ばれ、甘く柔らかいため、育てるのも難しくそのうえ油抜きから始まり数年かけての干し、寝かす作業は細かで繊細な作業と言われている。

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【竹の天日干し】

竹林園の中は資料館や茶室があり、隔週の日曜日には茶筌の実演を見ることができる。
茶筌師の味削りの見事な手さばきに見とれるばかりであるが、小刀にも少し工夫があると聞いた。以前から気になっていた、茶筅と茶筌のちがいを久保氏に尋ねると、この高山では茶筌というそうだ、“竹を全うする”作り手の心が伝わる言葉に感心した。

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【茶筅制作実演】

高山茶筌は全国シェア90%を占めこの地を納めていた高山氏が村田珠光から茶の指導を受け15世紀には高山の竹を使い考案したものと言われている。没落ののち家臣たちが製法の秘伝を伝え続け現在につなげている。ちなみに東大寺再建の公慶上人はこの高山の最後の当主の第7子だと言われていて、竹林園内の円楽寺跡には公慶上人の御父母の五輪塔が残っている。

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【円楽寺五輪塔見学】

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【案内風景】

竹林園から少し富雄川沿いを南に下るとこんもりとした森が左手に見えてくる、8世紀半ば宇佐八幡宮から入京の途中に頓宮と伝えられる高山八幡宮がこの地に鎮座される。
本殿三間社流造、檜皮葺、重要文化財に指定されている。本殿前には拝殿、その前には18世紀の棟札を持つ舞台もある。前庭の東西には無足人座をはじめ7座の建物が建つ。

この高山八幡宮と深く結びつきがあるのが、富雄川をはさんで向かいにある東大寺別院法楽寺である。古く奈良時代に奈良盆地西北の要として聖武天皇が行基によって開創されたと伝えられる。ご本尊の薬師如来は秘仏で(お正月1週間だけ開帳される)平安時代漆箔の寄木造、像高86.2pのお姿で、再々の火災にもご無事であるところから「火除けの薬師]として霊験あらたかと言われ今も人々の信仰を集めている。
明治の初めごろまで高山八幡宮の御神像であった、木造僧形八幡神座像と神功皇后座像の二体がこの法楽寺に所蔵されていて、鎮守社との深いつながりを感じさせる。
前を流れる富雄川は南に流れ大和川に合流しているが、高山地区は都の西北の守り、重要な場所として奈良から京都への物や人の流通は、今の,交野、枚方を通り淀川へと、北に流れ込む天野川が利用されていたと言い、京都側の沼地を迂回せざるを得ない古の人々の、大切な船の道としてこの辺りも栄えていたであろうとご住職に教えていただく。
今現在の法楽寺は約2年前、棟札銘から1633年に再建された本堂を、約20m下の場所から建物ごと少しずつ持ち上げ、現在の場所へ移動させる大工事であった。以前の場所は日当たりも悪く縁の下の柱は腐りかけ雨漏りもあったそうだ。お寺の伽藍は歴史の受難もあり、1333年兵火で伽藍が消失、そして大仏殿焼き討ちの際にも消失するも、当地の高山氏により再興されたと伝わる。 今現在に至るまで、ご本尊共々伝統建造物を守るため、人々の見えない地道な努力が日々続けられていることを改めて知ることができた。

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【法楽寺本堂】

お寺を後に参道を下りふと振り返ると、ご住職がまだ寒い中立っておられ、春まだ早い富雄川の川面の風も心なしかそよ風に感じられ、ぜひ来年のお正月はお参りさせていただきたく帰路に就いた。

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【法楽寺ご住職】

文 関 美耶子  写真 道崎 美幸
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2017年01月28日

保存継承グループ 明日香村の綱掛神事見学記

明日香村稲渕の男綱の綱掛神事=1月9日(月・祝)
明日香村栢森の女綱の綱掛神事=1月11日(水)

万葉集にも登場する飛鳥川。大和川水系の一級河川ですが、明日香村の古代の遺跡群をぬうように流れる光景には歴史感が漂います。その源流は明日香村南部の山間地で、稲渕(いなぶち)地区と、同地区から約2キロ上流の栢森(かやのもり)地区では、正月の伝統行事として飛鳥川の上に綱を掛ける神事が有名です。

毎年、成人の日に行われるのが稲渕地区の男綱(おづな)の綱掛神事。男綱には、高さ約1.2メートル、直径約30センチの円筒形にした藁製の陽物(男性器を模したもの)が付けられます。

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<綱を作る稲渕地区の人たち>

綱と陽物の製作は地区の約50戸から男女約30人が出て、午前中から飛鳥川に架かる県道の神所(かんじょ)橋下の旧神所橋横の空き地でスタート。冷え込みと雨の中、藁を編み込んだ長さ約70メートル、直径5センチほどの綱が出来上がり、さらに約1メートル間隔で緑の榊、白い御幣、藁の順に挟み込んで午後2時半ごろに完成し、陽物を取り付けた。綱張りでは全員で力を合わせ、県道の上に架けながら飛鳥川の流れの上部に陽物がくるよう両岸の木にくくり付けられました。

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<綱に陽物を固定する>

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<神所橋の上で力を合わせて男綱を張る>

午後3時すぎから旧神所橋にしつらえた祭壇前で儀式が始まり、割り竹の先にみかんを刺したお供えが橋の欄干に並べられる中、同村の飛鳥坐神社宮司が祝詞を奏上。参列者が玉串を奉納した後、宮司が米、清酒、塩などを川に投げ落として終わりました。

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<張り終えられた男綱と旧神所橋での儀式>

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<旧神所橋で神式で行われた儀式>

以前、陽物は綱にひもでくくり付けただけでしたので、夏ごろには川に落下していたそうです。大字総代の今西一成さん(67)は「男綱を見物に来られる方もいますので20年ほど前から綱の中心にロープを入れ、陽物も綱とワイヤでつなぐるようになり、落下はしなくなりました」と話していました。

2日後の栢森地区の女綱(めづな)の綱掛神事は、稲渕地区の綱掛神事と対になるものです。二つの神事がいつごろから始まったか確かな記録はないそうですが、地元では「飛鳥時代から続いてきたらしい」との言い伝えもあります。

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<栢森地区の作業所で女綱を作る人たち>

昼前から地区の共同作業所で藁を使った綱と陰物(女性器を模したもの)作りが始まり、凛とした寒さの中、地区の約25戸から役員の男性10人ほどが作業に当たりました。綱は直径約5センチで、長さは約70メートルあり、陰物は長さ約60センチ、直径30センチの円錐形状で、完成時には榊と御幣も取り付けられました。

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<住職を先頭に作業所から綱掛場に移動>

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<フクイシと呼ばれる磐座前で仏式で行われた儀式>

準備が整うと、午後4時すぎに地区の龍福寺住職を先頭に役員が陰物、みかんを青竹の先にしつらえたお供え、綱を手に持ったり、担いで行列。地区北側の約200メートル離れた飛鳥川の綱掛場へ移動しました。
右岸のフクイシと呼ばれる高さ1メートルほどの磐座(いわくら)に女綱の一部をささげるように置いた後、読経。川と県道をまたいで綱を両岸の大木に巻き付け、陰物は幅2メートルほどの川の流れの上に来るように調整されました。大字総代の古川雅章さん(61)は「うるち米より餅米のほうが藁がしっかりしているんですが、近年は餅米の収穫量が減り、うるち米の藁が大半。綱が切れないよう、女綱でも中心にロープを入れています」と言います。

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<女綱に陰物をくくり付ける>

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<新しく架けられた女綱>

両地区の綱掛神事、綱に取り付ける陽物、陰物の違いのほかにも差異があります。儀式は稲渕が神式、栢森が仏式、お供えのみかんは稲渕が割った青竹の1本1本の先にみかんを刺すのに対し、栢森は太い1本の青竹の先に1列4個のみかんを突き刺したものを4列に組んでいます。
興味深いのは、実施日が稲渕は成人の日(1月第2月曜)なのに対し、栢森は11日。栢森では明治時代に実施日を変えたところ、地区の民家のほぼ半数が焼ける大火があり、以降は11日にしているといいます。

神所橋近くに明日香村が設置した説明板によると、綱掛神事は子孫繁栄と五穀豊穣を願う一方、川や道を通って悪疫が地区に侵入するのを防ぐことも祈願します。そのため、陽物、陰物に青竹と共に飾られる御幣は、下流の稲渕では下流側に向けて、上流の栢森では上流側に向けて付けられます。
万葉集の研究で知られる奈良大教授の上野誠さんが20代のころ、この綱掛神事に関する論文を「飛鳥の祭りと伝承」(桜楓社刊、共著)に発表しています。その中では「巨視的に見れば、オツナカケは奈良県から広く近畿圏分布するツナによる正月の結界儀式ということができる」とし、「微視的に見ると(中略)飛鳥川という川と人との関わりの中ではぐくまれた祭り」としています。

両地区の綱掛神事を間近で接し、住民の方々が協力して伝統を守っておられる姿に感銘すると共に、過疎化・高齢化や離農が進む地域で今後も課題に対応しながら継承していってもらいたいとの思いを強くしました。

文・写真  保存継承グループ 久門たつお
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2017年01月10日

保存継承グループ 平群町椣原の勧請綱掛行事見学記

1月3日(火)、保存継承グループメンバー5名で平群町椣原(しではら)の勧請綱掛(かんじょづなかけ)行事を見学しました。綱掛神事といえば、明日香村大字稲淵・栢森が有名ですが、県内には他に何か所か綱掛神事が行われており、椣原の勧請綱掛は県内で新年いち早く行われるものです。
勧請綱を掛ける場所は近鉄生駒線元山上口駅から北へ約3分の竜田川上ですが、今回は午前中の勧請綱製作(綱打ち)から見学しました。

現地にある「勧請綱(かんじょづな)」の解説板によると
1.勧請綱
一般的に古来より村の境界から悪霊や厄病(伝染病)等が入ると信じられていた。それを阻止すると同時に身体堅固、五穀豊穣、子孫繁栄等を願って村の境界に勧請綱を張った民俗行事の一種。

2.椣原の勧請綱
・起源については、明治時代以前は確かだが起源は不詳。
・規模は長さ約27m太さ約25cmで奈良県一といわれる。
・形状は、雄(おん)づなに雌(めん)づなが巻き付いている。雄づなには松の枝を取り付けた2本の龍の足(長さ9m30cm)、男根、フグリもつけられている。これには豊作・子孫繁栄を祈願する意味が込められている。
・勧請綱を製作することを「綱打ち」といい、毎年1月3日に椣原自治会が実施する。

3.龍神信仰
椣原の勧請綱は龍神信仰と結びついている。龍神は水の神といわれ、水害より農作物を守り、村の人々を守ると信じられてきた。この近くに大正末頃まで龍が住むと言われてきた龍穴が残っていたが鉄道敷地となり現在はない。

綱打ち
午前8時30分に金勝寺境内に人々が集合します。椣原自治会は8班に分かれていてその年の当番に当った班が担当します。人数は作業員10人に長老が4人。用意するのは、藁60把、荒縄2巻(太さ3分)、これらが綱打ち用。その他に御神酒1本、黒豆・栗の煮物1鉢。御神酒は薬師堂に御供え。煮物をつまみに酒を飲みお浄め用。
作業の中心は、雄づな(約27m)と雌づな(約12m)づくり。全員で綱をなっていきます。

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横に固定した丸太を軸にして、雄づな、雌づなとも3本ずつなっていきます。藁の束を次々と突っ込みながら、より合わせて、荒縄でとめていきます。

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3本の綱をそれぞれねじり、さらに3本を1本により合わせていきます。

自治会長老や熟練者が担当するのが、雄づなのシンボル(約30cm)作りと龍の足・御幣用竹づくり。

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つくったシンボルを雄づなに荒縄でとめます。ようやく綱が完成しました。既に午後3時、昼休みを含め作業開始から6時間かかりました。

雄づなと雌づなの組み合わせ
芯として作業員1人が入り、雌づなに雄づなをからませ、丸い大きな玉のような状態にします。

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芯になった作業員は下から抜け出します。

お祝い行事
年男などお祝いに当たる人が、藁敷きの上にうつぶせに寝ると、雌づなと雄づなのからんだ玉を上へころがせます。上から数人が乗ってお祝いします。

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お祝いに当たる人がいなければ、子供も下に寝ます。上にものって参加します。行事の中で一番楽しい瞬間です。

薬師堂での祈願
雌づなと雄づなの玉を薬師堂へ備えて一同で祈願します。
なお、薬師堂に供えるには石段の上を皆で運び上げますが、一気に運び上げずに、上げたり下げたりしながら上げます。その時の掛け声は「チョウサジャー」。

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綱の移動
軽トラックに雌づなと雄づなの玉を積み込み現地へ運びます。

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現地での綱掛け
近鉄の敷地内で、電車の線路の側での作業なので、近鉄社員が立ち会います。電車が通る間は作業を止めます。

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綱掛の完成は、午後4時になりました。見えているのは雄づながほとんどで、雌づなは支柱の根元に巻いてあります。綱は今年12月25日までかけておきます。

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綱の一方は岸の木に結わえ、一方は電信柱に結わえられています。

文・写真 保存継承グループ 石田一雄

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2016年12月24日

記紀万葉サークル12月例会「天理教本部施設とその周辺を探訪」

12月10日(土)実施 参加者18名

【行程】近鉄天理駅→三島神社→山辺御県坐神社→天理教教祖墓地→記念建物→天理教教会本部→お茶所→峯塚古墳→西山古墳→塚穴山古墳→天理図書館→若江の家→天理参考館→天理本通り→近鉄天理駅(解散)

当日は肌寒いものの好天に恵まれ、絶好のウォーキング日和となりました。9時40分に近鉄天理駅前を出発し、先ずは天理駅前広場の東北隅で万葉歌碑を見学。「石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」。天理市内に設置されている12か所の万葉歌碑の1つで、平成15年に建碑されました。
万葉歌碑を見学後、天理市内を北東へ向かい、ほどなく三島神社へ到着。三島神社は、三島町一帯の産土神社で、伊豆国一宮の三嶋大社や伊予国一宮の大三島の大山祇 [おおやまつみ] 神社と同系統です。祭神は大山祇命・布留御魂神・天児屋根命。本殿は流造で、亀が台座の石燈籠や日露戦争の戦利品の砲弾もあります。
三島神社を後にして、山辺御県坐神社へ。途中、山辺御県坐神社の西北に別所大塚古墳が望まれました。
山辺御県坐神社は、大和国の六御県(志貴・十市・高市・山辺・曾布・葛木)に置かれた御県坐神社の1社で、本殿背後に磐座があります。
山辺御県坐神社から東へ歩を少し進めると、天理教教祖墓地へ到着。墓地には、天皇陵並みの風格を備えた教祖の中山みきの墓をはじめとして、代々の真柱 [しんばしら] (教祖没後の天理教の統括者)や縁者・信者たちの墓が立ち並んでおります。この墓地は高台にあり、眼下の天理市内はもとより、周辺の山々も一望できて、遠くには葛城山や金剛山も望まれました。
 
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<真柱代々の墓所>           

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<教祖墓所>

墓地から天理市内を南下して、記念建物へ。天理教本部の北にある記念建物は、江戸末期から明治にかけて建てられた4棟からなる教祖の居宅や祭場などを移築したもので、教祖の中山みきはここで亡くなっております。元は、現在の教会本部の神殿の辺りにありました。
記念建物の見学後は、いよいよ教会本部の見学です。本部は布留遺跡の中心に位置しており、神殿、教祖殿、祖霊殿などの総檜造の建物群からなり、各々の建物は1周約800mの回廊で結ばれております。回廊内の中庭の広さが、甲子園のグラウンドの広さに匹敵とは驚きです。
神殿内は、1,170畳の広々とした大空間の中心に甘露台と呼ばれる簡素な6角形の祭壇が置かれ、四方から礼拝ができるようになっておりました。記紀万葉サークルのメンバーも天理教の参拝方法に則り、1礼4拝1礼4拝1礼で参拝いたしました。神殿から回廊を教祖殿、祖霊殿へと進み、祖霊殿を過ぎた辺りから甘露台上の吹き抜け穴が見えました。

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<天理教本部教会前を行く>

教会本部の見学を終えた頃にはお昼となり、お茶所と呼ばれる無料の湯茶接待所で昼食タイム。室内にあるお茶所は暖かくて、冷え切った身にはありがたい所でした。
昼食後は、石上神宮外苑公園の万葉歌碑の前を通って、峯塚古墳へと向かいました。猪防止柵の奥にあり、例会の下見時には見つけにくかったそうです。杣之内古墳群にある峯塚古墳は、古墳時代終末期の円墳で、石室は岩屋山式の横穴式石室です。石室の切石は岩屋山古墳ほど精緻ではないものの、玄室の西側壁の2段目は1枚岩となっておりました。なお、玄室内に石棺は見当たりませんでした。

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<峯塚古墳開口部>

峯塚古墳見学後は、大和国14か所に置かれた山口神社の1つの都祁山口神社を参拝して、西山古墳へと向かいました。
日本最大の前方後方墳の西山古墳は、私としては前回の記紀万葉サークルの例会で訪れて以来です。今回は初冬に訪れたために、古墳を覆っている草も冬枯れていて、前回訪問時と異なった雰囲気を醸し出しておりました。墳丘に登りましたが、風が強くて寒く、早々に降りて、塚穴山古墳に向かいました。

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<西山古墳後方(円)部より西方を望む>

塚穴山古墳は杣之内古墳群中の大型円墳で、全長17mの横穴式石室は石舞台古墳に次ぐ規模です。現在は墳丘と天井石を失って巨大な石室が露出しております。

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<塚穴山古墳の石室>

塚穴山古墳からは東へと向かい、天理図書館を目指しました。この図書館は、曜日による休館日が無くて、一般に公開されております。一度ゆっくりと訪ねてみたいと思います。
図書館の次は、若江の家を訪ねました。ここは、天理大学の前身の天理外国語学校を創設した中山正善 [しょうぜん] の記念館。2代目真柱の正善が大阪で学んでいた頃に建てられた瀟洒な洋館で、大阪の若江岩田から移築されております。
    
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<天理図書館前にて>

若江の家からは、本日最後の目的地の天理参考館へと向かいました。
天理参考館は、海外に渡り、天理教を広めようとする人々が、諸外国の生活習慣や歴史などの知識を深めるため、中山正善によって、昭和5年に創設されました。ここも久方ぶりの再訪で、またじっくりと見学してみたいところです。なお、今回は館内で簡単なクイズを実施しており、素敵なクリアファイルがお土産となりました。
天理参考館を後にして、天理本通りを解散場所の近鉄天理駅へと向かいました。予定の16時に無事到着。
案内役の小林淳一さん、前防道徳さん、どうもありがとうございました。お陰様で、充実した初冬の一日を過ごすことができました。

大村隆清(記紀万葉サークル) 写真:田中昌弘(同) 
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