2019年01月26日

保存継承グループ 宇陀市:平尾水分神社の「オンダ祭り」見学記

平尾水分神社は宇陀市大宇陀平尾の宇陀川右岸にあり、本殿は県文化財に指定されています。オンダ祭りは平尾地区の祭礼として毎年1月18日夜に五穀豊穣を祈る行事として開催されており、平成4年(1992年)3月に県無形民俗文化財に指定されました。

東西の地区に分かれて氏子がそれぞれ宮講を組織し、毎年1人ずつ1年神主の大当(だいとう)と小当(しょうとう)が選ばれます。18日朝から神殿前の特設舞台と模擬苗作りが行われます。舞台は境内中央に組まれ約3b角の板床で、苗は約30aの2本の萱の先に樒(しきび)、藁(わら)の穂先、弊紙(へいし)を添えたものです。

夜になると冷え込む中、宮講の人々が集まってきます。

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<境内には次々人が集まり、甘酒の振る舞いも>

祭礼の前に氏子たちは宮司さんから清めのお言葉を授かり、直会(なおらい)が始まります

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<社務所では村の氏子たちに宮司さんからの清め神事が>

直会を終わると、本殿におもむき祝詞が上げられました。

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<本殿にはいろいろな品物がお供えされ祝詞を奏上>

行事の田植えをするショトメ(早乙女)役は地域の子供が担当します。小学生の男児が務めてきましたが、近年の少子化で女児も参加するようになり、当日は4歳から11歳の男女、5人の子供が主役を務めました。

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<ショトメの大役を前に社務所で出番を待つ子供たち>

境内の社務所では、直会の後、氏子らにより酒や乾燥した雑魚(じゃこ)をつまみに話が弾みます。

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<大当・小当を中心に清めの盃をいただく>

午後7時から、境内に作られた舞台で御田植行事が始まりました。
社務所から提灯(ちょうちん)持ちに先導されて、木製の鍬(くわ)を担いだ大当以下、小当、ショトメの順に舞台に上がりました。

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<社務所から境内の舞台に向かう大当・小当>

田主役の大当が舞台で詞章を唱えながら、鍬を用いて@鍬初め、A掛初め、B苗代角打ち、C苗代しめ、D水入れ、E水戸祭り、F福の種まき、G苧紡ぎ、H春田打ち、I管巻く鳥追い、J追苗取りと田植えの一連の所作を模していきます。

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<木の鍬を使ったオンダ祭りの様子。背後にはショトメ5人が並ぶ>

J苗とり、K田植え、L追苗取りでは全員で舞台の上を回ります。子供のショトメは自分の背丈ほどの笠を肩から担ぎ大当と共に演じました。

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<全員で舞台の上を回る>

小当が間水持ちとともに、この日のみ開帳される「若宮さん」を抱いて舞台に上がります。「若宮さん」は普段は平尾水分神社の御神体として祀られている黒い翁面を付けた人形で、体中にびっしりと紙縒(こより)が巻きつけられています。地区の人たちや見物人は自分たちの体の具合の悪い部分の紙縒を小当からもらい受け、大切に持ち帰りました。

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<若宮さんに巻き付けられた紙縒をもらう人たち。どこが悪いのかな?>

この平尾の行事は、天保15年(1844年)の古式の詞章にのっとって行われています。田植えの一連の所作は古から受け継いだものです。

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<大役ご苦労様でした>

ショトメの役を終え社務所に戻った子供たち。肩の荷がおり、ようやく笑顔が戻ります。

奈良県内のオンダ祭りの中でも最も古い形を残して五穀豊穣を願う平尾のオンダ祭り。今回は保存継承グループから8名が見学し、古式にのっとった地区行事を目の当たりにして見聞を広めることができました。

文・写真 保存継承グループ 橋詰輝己

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2018年12月29日

奈良市:正暦寺「冬至祭」見学記

12月22日、前夜からの雨が残るなか、奈良市東南の山間・菩提山(ぼだいせん)町に建つ古刹、正暦寺(しょうりゃくじ)の「冬至祭」に参加。

冬至といえば、一年のうちで最も昼が短く夜が長い日。一年で一番日照時間が短いということは、翌日から長くなるということであり、この日を境に再び力が甦り、運気が上昇するともいわれる。
そして、冬至で食べる食べ物でといえば「カボチャ」。長期保存がきくため、栄養満点の食材として、風邪や中風(脳血管疾患)の予防に良いとして食べられてきた。運気アップのパワーを蓄えてくれるということだろうか?
正暦寺「冬至祭」は、1952(昭和27)年(先々代住職在世時)から、中風封じの行事として始められた。現在は健康祈願や長寿を願う行事になり、この日も多くの参拝者で賑わう。

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午前10時から護摩堂にて不動明王像の前で、一人ずつ順番に護摩祈祷とお加持が修法される(申込者のみ)。

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11時から、客殿にて大原弘信住職の法話。テーマは「五Kで生きる=明るく軽やかに」。五Kとは、
●Ka=か・・・感動
●Ki=き・・・希望(夢をもち、夢を語りましょう)
●Ku=く・・・工夫
●Ke=け・・・継続(続けることによってわかる)
●Ko=こ・・・行動(動いていれば何かが起こる。考えたら動くこと)

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「思いがあれば、思いに向かって行動しましょう。いいことをしていると、明るく軽やかになってきます。それがいい結果につながる」と住職は話す。
分かりやすくて、深い内容の法話に、参拝者たちは一心に聞き入る。

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法話の後、客殿の障子が開けられると、枯山水の庭が雨上がりのなかで輝いている。今年、松の木が枯れたのを機に、庭の木を低く剪定したため、90年ぶりに庭を囲む白壁が姿を見せ、清々しい昔の庭が甦ったとのこと。

特別開扉されている瑠璃殿(宝物収蔵庫)では、秘仏の金銅の薬師如来倚像(白鳳時代・国重文)を拝観。


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締めは、カボチャの精進弁当(要予約。1、000円)をいただく。精進料理で人気の正暦寺だけあって、カボチャづくしのおいしいお弁当だった。
良い年を迎えられる、いい気を十分にいただいた「冬至祭」だった。

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※正暦寺は992(正暦3)年、一条天皇の勅命により創建。山号は「菩提山」。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていた。しかし、1180(治承4)年、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化す。1218(建保6)年、興福寺の学問所として再興し、昔に勝る隆盛を極めたが、江戸時代以降は再び衰退。ほとんどの堂塔・伽藍は失われ、現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなった。
古来より紅葉の鮮やかさから、「錦の里」と呼ばれてきた。主要な伽藍は失われてしまったが、静かな宗教空間は昔と変わらず当寺山内に存在している。
また、室町時代は大量の「僧坊酒」を作る筆頭格の大寺院であり、清酒製法の祖とされる正暦寺。1996(平成8)年から菩提酛(もと)を用いた酒を復活し、毎年1月に酒母の仕込みを行っている。


文と写真  保存継承グループ  小倉つき子

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2018年12月18日

記紀万葉サークル12月例会(屋外活動)「佐保川を下る」

12月8日(土)主席者8名

当日の行程
近鉄奈良駅―法蓮橋―坂上郎女・佐保大伴邸想定エリアー「柳の歌」歌碑―長屋王・藤原麻呂邸(遠望)−奈良市役所(平城京復元模型)−田村第跡―県立図書情報館(昼食休憩)―羅城門跡―九条公園(富本銭出土地)−西市跡―近鉄九条駅

当日は、今季一番の冷え込みが予想されまた師走ということもあって、少人数でのFWとなりました。

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法蓮橋にて

起点は「一条南大路」と佐保川が交わる法蓮橋となります。この辺り北側は佐保山南陵・同東陵が隣接しています。御陵の西側から法蓮中町の北側南北2町程のエリアを坂上郎女の居宅のあった「坂上の里」と想定しました。更に「大路」を西に進み、奈良高校バス停辺りからJR京都線踏切までの、「大路」を挟む南北各6町程のエリアの何処かに安麻呂〜家持の佐保大伴邸を想定しました。

4−528左注、右郎女は佐保大納言の女なり。(中略)郎女は、坂上の里に家む。よりて、族氏号けて坂上郎女といへり。
6−979大伴坂上郎女、甥家持が佐保より西の宅に還帰るに与へたる歌
「わが背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家にいたるまで」
天平5年、家持16歳郎女38歳の頃の歌と推定します。

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「柳の歌」歌碑

8−1433大伴坂上郎女の柳の歌
「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも」

郎女は、命婦として平城宮に通っていたようです。その帰り道、春風に吹かれながら上流に上って行く郎女自身の浮き立つような気持ちが抑制的に歌われています。歌碑は、いかにもこの辺りかと思われる場所に建てられています。

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平城京復元模型を見学

土曜閉庁の奈良市役所でしたが、模型の見学とトイレ休憩のため守衛さんに頼んで入れてもらいました。巨大な模型はかなり正確に作られており、各河川の流路も妥当に思えるものでした。
佐保川は市役所の東辺りでほぼ直角に南に曲がり、「二坊大路」に沿うようにして南下します。奈良時代以前から現在のような高台が横たわっていたと思われます。
「三条大路」を超え想定「二坊大路」に沿って歩くと「四条大路」まで条坊の1/2が「田村第」の跡です。東の縁は三笠中学の敷地にかかっていたようです。
県立図書情報館の前で再び佐保川縁に出ます。この辺りから南、その流路は1300年の間に大きく西へ移動したようです。七条から八条にかけては1坊以上動いたようです。

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羅城門跡にて

九条大路では旧流路にかなり近づいてはいますが、まだ1町以上の乖離が見られるようです。羅城門の基壇の東端は現在の佐保川の河中に存在するそうです。

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九条公園(富本銭出土地)にて

昭和60年、現在のトリム広場南端の井戸底から「飛鳥池工房」で鋳造された富本銭1枚が和同開珎・神功開宝などと共に出土しました。「西市」に隣接したこの場所で発見されたことにより、従来厭勝銭とされてきたこの銅銭が流通の用にも供した可能性が出てきたと言えます。

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西市跡にて

7−1264不詳
「西の市にただ独り出でて目並べず買ひにし絹の商じこりかも」


当時は、市には絹など滅多に出るものではなかった筈です。何かの寓意が歌われているのかも知れません。

続紀 和銅5年(712)「東西二市初置」

官営の市の広さは4町(6万u)、現状は広大な畑地です。

文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘


posted by 奈良まほろばソムリエ at 21:14| Comment(0) | 探訪G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月16日

女性グループ(ソムリエンヌ)11月例会・吉野宮滝万葉の道、森林セラピーロード散策

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11月の女性グループ(ソムリエンヌ)の例会は吉野宮滝万葉の道を歩きました。今回はソムリエの会の亀田氏と大嶋氏を講師に迎え、近鉄吉野駅からゴールの大和上市駅まで案内していただきました。

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七曲坂の紅葉

吉野山の桜の木は、毎年春になると下から順に桜が開花していきますが、紅葉は桜の開花とは反対に、奥千本から下千本へと順に色づいていきます。10月中旬、桜の葉が赤く色づきはじめた後、11月に入るとモミジが鮮やかに染まり、山全体が赤や黄に彩られます。
七曲坂から大橋を渡り、柿の葉寿司や吉野葛の名店が立ち並ぶ参道を上がって金峯山寺を目指します。

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金峯山寺蔵王堂

秘仏金剛蔵王大権現三尊が、11月3日〜11月30日まで特別公開されていました。
期間中、普段入ることの出来ない内陣には懺悔をする部屋「発露の間」が設けられており、蔵王権現の迫力を間近に感じながらお参りすることができました。
堂内拝観後は本地堂へ。お堂には権現さまになる前のお姿の釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩の三尊と役行者がおられました。

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東南院多宝塔

蔵王堂から商店街を歩いていると右手に大峰山の持護院である東南院が見えて来ます。境内の北側には小ぶりですが姿の良い多宝塔があります。亀田さんが保存継承グループで多宝塔内陣の調査に来られたそうで、今回特別に県文化財に指定されている大日如来坐像を拝観させていただきました。

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昼食の「ひょうたろう」と「醍予」の柿の葉寿司。柿の葉の良い香りと、脂の乗ったサバの甘みがとても美味しくて、吉野でしか味わえない名店の味を堪能しました。
お昼休憩のあとは、吉野山から喜佐谷を抜けて宮滝に降りるコースを歩きます。
このコースは吉野の美しい林の中を歩く道として「森林セラピーロード」の認定を受けています。よく整備された自然道で、散策路の途中に稚児松地蔵という小さな祠もありました。この地点からひたすら長い下り道となります。

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道は二股に分かれ、ここから本格的な万葉の道・森林セラピーロードの始まりです。約4キロの喜佐谷への道は、象の小川の源流に沿いながら森林の中を下ります。澄んだ空気と心地よいせせらぎに癒されます。

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高滝

遊歩道が整備され、滝壺のすぐ近くまで行けます。高滝は落ち口から滝壺まで一気に落下する滝ではなく、岩肌の上を水が滑るように落ちる渓流のような滝でした。

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象の小川

喜佐谷の杉木立のなかを流れる渓流で、青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもつ流れがこの川となって吉野川に注ぎます。
小川に沿って下ってきた山道も終わり、舗装された車道に出ます。静かな喜佐谷の集落を1キロほど歩くと象の小川のほとりにひっそりと鎮まる桜木神社が見えて来ます。
ご祭神は医薬の神大己貴命、少彦名命、さらに天武天皇をお祀りしています。大海人皇子が吉野に身を隠していたとき大友皇子に攻められ、その際大きな桜の木に身をひそめて難を逃れたことから、天皇在位中は特に篤くこの地を敬い、崩御ののちに桜木神社が創建されたと伝えられています。

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桜木神社にて

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吉野川にかかる鉄橋(柴橋)を望む

桜木神社から1キロほど歩くと、視界が開け吉野川沿いの道に出ます。「夢のわだ」は象の小川の水が吉野川の流れ落ちる場所で、多くの万葉人が歌を残しています。吉野川にかかる柴橋を渡って対岸へ。宮滝河川交流センターの建物の脇にある旧東熊野街道から川辺へ下ると両岸に岩が迫り、ところどころに大小の穴(甌穴・ポットホール)がありました。吉野川の激しい水流に何万年もの間さらされた岩が自然に削られできたものだそうです。

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甌穴・ポットホール

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筏道に「南無阿弥陀」と刻まれた名号岩

また、複雑に入り組んだ流れをうみだす宮滝の地形は、筏に乗せた吉野杉を運ぶ際の難所としても有名で、この淵でたくさんの人々が命を落としたといいます。

予定していた吉野歴史資料館は時間の都合により割愛となりましたが、バスの待ち時間を利用して宮滝醤油で有名な「梅谷醸造元」に立ち寄りました。こちらのポン酢醤油は美味しいと評判で、おみやげに購入しました。紅葉は終盤を迎えていましたが、天候にも恵まれ充実したウォーキング日和でした。ご案内くださった大嶋さん、亀田さん、ありがとうございました。


文・写真 道ア美幸(女性グループ)

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2018年12月12日

奈良市都祁吐山:下部神社「吐山の太鼓踊り」見学記

大和高原南部にある奈良市都祁(つげ)吐山(はやま)町の下部(おりべ)神社で11月23日に秋祭りが執り行われました。この祭りでは昭和60年(1985年)に奈良県無形民俗文化財に指定された「吐山の太鼓踊り」が、7つの垣内から7張の大太鼓が集まり奉納されました。

昼すぎ、祭りの参加者が公民館に集合し記念写真を撮ったあと、3方向に別れて打ち上げ花火を合図に出発。途中で合流し、各垣内の幟(のぼり)を先頭に大太鼓、踊り手、シデ振り、鉦叩き、歌出し、役員の方々が、太鼓を打ちながら下部神社に向かって進んでいきます。

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小中学生も一緒になった集合写真

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下部神社へのお渡り

途中、恵比寿神社前で合流し神主のお祓いを受けたあと、「辻太鼓」を打ち鳴らします。ここからは、厄払いの天狗が先導し「打ち込み踊り」を演奏しながら下部神社の境内へ入っていきました。

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神主のお祓い

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境内への入場

拝殿前に7張りの大太鼓が並び最初の「干田(ひんだ)踊り」が始まりました。1曲目が終わると裃姿の「シンボウウチ」の口上があり、「宝踊り」と「長崎踊り」が演奏されました。これらの踊りは各曲の1番から3番を3人が1組になって1人ずつ交代で叩いていきます。これが7張りの大太鼓で一斉に行われるのです。

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「干田踊り」の小中学生

踊り手は曲打ちや背面打ちなどの技を見せたりもしていました。シンボウウチはその間、青いシデを振りながら全体の指揮をとって歩いています。また、天狗は自由に動きまわり囃子方を務めていました。

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背面打ちの撥(ばち)さばき

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青いシデを振る裃姿のシンボウウチ

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ササラを叩く天狗

奉納演奏が終わると「納め踊り」で太鼓を打ちながら鳥居をくぐり、再び天狗の先導で神社を後にして終了となりました。

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天狗の先導で「納め踊り」

吐山の太鼓踊りは元禄6年(1693年)の歌本が残っているということです。干ばつが起こった時に雨乞いの祈祷を行い、祈願成就のお礼に氏神様に太鼓踊りを奉納してきたものです。治水対策や農業技術の向上などにより、何十年も太鼓踊りが行われないこともあり、少しずつ記憶から遠ざかることになっていました。

昭和59年(1984年)に吐山太鼓踊り保存会が結成され、平成6年(1994年)からは小学校で郷土学習として太鼓踊りが取り入れられています。また、小学校の放課後、子供教室でも「太鼓踊りクラブ」として活動しているそうです。この子供たちの何人かは中学進学後も練習に参加し、「吐山太鼓踊りヤングクラブ」として活動しています。練習を頑張った子供たちの発表の場としてイベントへの参加もしているそうです。そして、集大成として秋祭りで成果を発表することとなるのです。
今年は小学生が14人、中学生が8人参加の総勢60人ということでした。地域の太鼓踊りの伝統を受け継いでくれています。

保存会では、機関紙「雨たんもれや」=雨よ降ってください、の意味=を発行し、太鼓踊りの歴史や伝統、継承などについて情報発信に努めておられます。

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機関紙「雨たんもれや」

このように、地域と学校が連携し、伝統文化に関して継承者の育成や秋祭りに組み入れるなど他の地域にも参考になる新しい取り組みではないかと思います。

文・写真 保存継承グループ  仲谷裕巳
posted by 奈良まほろばソムリエ at 22:56| Comment(0) | 保存G | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする